【所感】演劇実験室◎万有引力 第73回本公演 盲人書簡 少年倶楽部編

「演劇論」を確かめに

今年に入ってから本格的に寺山修司沼に沈みだした。
転勤先で同僚に紹介されると、あっという間に家の関連書籍は30冊を超え、演劇等のDVDも何枚か揃い、本業関係の書籍の3倍ほどのペースで彼の足跡を辿っている。寺山修司記念館には恐らく今後もお世話になるだろう。
私はエッセイや評論から寺山修司を知ったことに加えて、ある理由から演劇
はあまり気が進まなかった。
演劇は、俳優が主役のように見えるが製作者、特に監督や演出担当者のものである。演技は指示され、指導される。アドリブは認可されなければ勝手な行為になり、「稽古」を繰り返して俳優は製作者の思想を表現する―極めて権力構造的な芸術だと感じていたのだ。
寺山修司は「印刷技術により、ことばは言語となり、うたは文学化してしまった」「詩はモノローグであり、劇はダイアローグ」と何れかの著作で述べていたが、正直当初は「自分のやりたいことをするために劇団まで旗揚げしておいて何を言っているんだ」と思っていた。また、『ブレイボーイのすすめ』において「ぼくたちはだれのために煙草の吸い方までポーズをとる必要があるのか?」と述べる寺山修司に、演技というのは究極の他人指向型の行為なのではないか、とも感じていた。実際彼の演劇には煙草を吸う場面がままあるが、どの俳優も結構気を遣って(かっこよく)煙草を吸っている。
そんな彼が、私が演劇に対して抱いていたモヤモヤを払しょくしてくれたのが『迷路と死海』『臓器交換序説』といった演劇論だ。ああ、彼も同じ疑問を抱いていた!臓器交換序説は序盤相当難解だった(ポストモダンのフランス哲学やシュールレアリスムの知識が必要で、とりあえず読んだが理解できていない)が、彼が演劇をダイアローグととらえ、書斎の中の王から脱却しようともがいていた軌跡を垣間見ることができた。
こうした中、GWの予定そっちのけでチケットを購入したのが演劇実験室◎万有引力の『盲人書簡 少年倶楽部編』である。交通費は往復多分5万越え(最早請求書を見ていない)、一泊二日の弾丸ツアーであるが、寺山修司と直接かかわった人の演劇を生で観れる機会は恐らくあと20年ないだろう。彼の演劇論を確かめたかったのだ。


万有引力という「虎」

航空機と電車を乗り継いで、ザ・スズナリの、幼児期に住んでいたアパートを思い起こさせるような階段を上がるともうすでに空間が支配されている。ゆっくりと、しかし卓越した身体性を発揮して幻想的な舞踏が我々に麻酔を打つ。
各場面は絵を持ち出してきたかのような美しさで、特に昭和初期のレトロさや、アングラ的な怪しげな空間が好きな方にはたまらない色彩だった。『奴婢訓』のような大掛かりなセットはないが、とにかく幻想世界の与え方がうまい。音楽、小道具/大道具、プロジェクター、そして俳優陣の演技、舞踏。流石、寺山修司と世界をつくり上げたJ.Aシーザー氏率いる万有引力の演劇である。
特に目を瞠ったのは照明技術である。光をもって、一番いい場所に闇を与える。光は、懐中電灯、マッチ、照明…我々に向けられる光もあれば、隙間から差し込む光、そして正午の影!ザ・スズナリの舞台構造はもちろん、寺山演劇が作り出す世界が分かっていないとあのレベルの仕事は不可能だと思った。そしてこれらは俳優陣との共同作業だ。彼らがずれると当然、計算されつくされた闇は崩壊してしまう。俳優陣は徹底的に闇を大切にしていた。場面転換で大幅に雰囲気が変わることが多かったが、暗転は本当に真っ暗闇で舞台には星がきらめいている程度である。彼らは足音一つ、物音一つ立てずに次の場面に光を繋いでいく。小劇場であろう、恐らく6~7m四方位の段差の多い、そして出口の限られた空間(「バリアフリーならいいのにねえ」)を、道具を持って移動するのは至極困難だ。
俳優の身体性についてはすでに言葉が漏れ出しているが、彼らは自分たちが生み出す空間を作為し、呪術師として我々に別世界を見せてくれた。もはや寺山修司のことばを蘇らせるだけの霊媒ではない。彼ら自身が盲人書簡の独特な空気を生み出し、纏い、我々に伝染させていた。これが特に現れたのが終盤のマッチを使用した場面、そして終幕のパフォーマンスである。演技、声の出し方、舞踏はもちろん、マッチの点け方、保ち方、消し方(恐らく誰のどのセリフまで保つかまで)がびっちり訓練されており、同じ人間かと疑った。『迷路と死海』において、「「あらかじめ群」を飛び越える虎だけが、私の演劇を支えるための条件を持つことができる」と寺山修司は述べていたが、まさに彼らなのだ。
ちなみにマッチの演出を始めたのは寺山修司だが、マッチを寺山演劇の象徴的存在に昇華させたのは、間違いなくシーザー氏であろう。真面目にマッチすごい。マッチを操る俳優陣めっちゃカッコいい。マッチも懐中電灯も、自分が光るだけであんなに周りがかっこよくなるなんて知らなかった。一生に一回は見た方がいい。


惜しかったこと:「こみいった迷路」「もっと闇を!」

すでに各所から絶賛されている「盲人書簡」であるが、観ていて気になったことが一つだけある。ザ・スズナリの、下北沢から切り離された空間の中で何かが起こるかもしれない、と思っていた――が、特に起きなかったことについてだ。いやもう舞台の上が事件じゃないか、と言われてしまえばそこまでなのだが、観客がこの劇的空間の「もう半分」になれたかだけが、心残りだった。ここだけが本当に惜しく感じられたので、少し書き散らかさせてほしい。

かなり幸せなことに、私は寺山修司記念館の割と近所に住んでいる。
寺山修司記念館では過去の寺山修司作品のDVDを貸し出しており、資料室が空いていれば追加料金なしで観ることができる。私も沼に沈められてから数回通い、寺山修司演出とJ.Aシーザー演出の作品を比べてみた。
どちらも勿論素晴らしいのだが、寺山修司演出の作品には怠惰な観客もなるべく置き去りにしないような、一種のやさしさがあった。特に寺山演出の場合は最後のアジテーションを大切にしていたほか、途中途中で必ずユーモアが挟まり、クスっと笑える部分がある。また、意外と彼の象徴的なモチーフが込み入っておらず分かりやすいのである。他方シーザー演出の作品はとにかくカッコいいのだが、寺山演劇の象徴的な演出がぎっしりと詰め込まれており、「寺山演劇の信奉者が寺山演劇をやったらこうなる」「お前ら寺山修司大好きだろ?なら勉強してるよな?」とでも言えるような敷居の高さを感じていた。比較的分かりやすいのは2003年の『青ひげ公の城』だが、パルコプロデュースで資本が入っているので、彼が本当にやりたかったことが出来たのかは分からない(※但し『青ひげ~』は、市街劇を除いて私が選ぶ寺山演劇第1位である。初演台本も読んだが、この2003年版は個人的には歴史に残る傑作だと思うので是非観てほしい)。『奴婢訓』は映像が乱れていたせいかもしれないが、かなり難解な上、やや言いたいことが変わっていたように感じられた。同じく映像が古く所々想像しつつ視聴した寺山修司演出が圧倒的だった。

盲人書簡に話を戻そう。
私は観劇前に『寺山修司 幻想劇集』で『盲人書簡』の予習をした。
解題において本編は「ビデオの書き起こし」から発生したものであり、
「暗闇も、煙幕も、J.Aシーザーの音楽もないこの台本は、私たちの劇とは全くの別物である」
と寺山修司自身が記している。更に各演劇論において『盲人書簡』は様々な実験を含めながら演じられた作品であることが示唆されていたことから、ただ観るだけの演劇ではなかろう、と思っていた。
確かに、そこには暗闇があった。前述の演出、煙幕も効果的だったし、J.Aシーザー氏のロックと唱歌がフュージョンした音楽も最高だった。俳優陣も相当厳しい時間を過ごしたことだろう。
――だが、迷路が無かった。
『寺山修司 幻想劇集』の盲人書簡巻頭には、
「この洞窟には、九つの入口があった。そのうち八つは迷路に続き、それは陰険なことに、同じ部屋に至るようになっていた。(ボルヘス『伝奇集』)」
と書かれている。私が文字で予習をしたのは、迷路に迷っても想像で補完できるようにと考えてのことだったが、各場面は(勿論作りこみが最高であることに間違いはないが)ほぼ予習通りに進行した。「寺山修司クラシック」と表現できるような観客へのやさしさやユーモアが各所にあった点は良かったし、他の演目なら私は大絶賛していただろう。だが、ここでは、「ビデオの書き起こし」に過ぎない台本に囚われていなかったか、どうか。
確かに消防法の関係や、ザ・スズナリのキャパ、そして新型ウィルスの絡みを考えると、観客にマッチを持たせてみたり、客席を仕切ってみたり、苦力に壁の隙間をすべて塞がせたり、挙句観客を挟んで苦力と俳優が劇の進行を争うようなことはできなかったかもしれない。だが一つの場面を全く真っ暗なまま進めてみたり、客席と舞台とを反転するマジックミラーで仕切ってみたり、数秒したら消えるライトを持たせてみたりするような「迷路」に通じる仕組みがあると、観客が舞台のもう半分をつくることが出来たのではないかと感じてならない。

『レミング』のDVDの付録の九条今日子女史のインタビューにて「劇は、演出家のものだと思う」と聞いた。最初期の傑作である『毛皮のマリー』ですら、美輪明宏が演出する前から何回も大幅に演出が変わっているのだ(パリで行われた「街頭の性解放劇」とは…)。観客と劇的空間の仕掛け人たちが、同じ問題意識や思想をシェアしつつ、偶然の出会いを組織することが出来れば、恐らくそれが「台本通り」かなんてことは些末な問題なのだろう。
今後私は死ぬまで寺山修司原作の演劇を目撃し続けることになると思われる(もしかしたら、どこかで何かに携わるかもしれない)が、寺山修司の戯曲の世界の再現に必死になり過ぎると、そこに込められた彼の思想を半分捨ててしまいかねないというのは発見であった。
彼の演劇が、文学からの飛躍を遂げていたことを思い知らされた。


最後に

長々と演劇素人がすみません。本当に衝撃的な体験が出来ました。ありがとうございました!
言わずもがな演劇実験室◎万有引力の演劇は唯一無二、誰にも複製できません。今回オーディションで選ばれた若い俳優さん(皆さん白塗り越しでも美男美女でびっくり…。)と、圧倒的存在感で場を固める万有引力所属俳優が印象的でした。引き続き追い続けたいと思います。
そして暫く寺山修司沼に沈み続けると思います。周囲に中々語れる人がいないので、時折沼の水をここで調整して日常生活に支障がないようにしたいと思います。本当は大学入りなおして寺山修司の著作に埋もれて死にたいのですが、恐らくそれが叶うのはだいぶ先の話になるでしょう…orz

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