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Twitterの反応は好きを鈍らせる

 タイトルの通りです。
かつて私は「Twitterなんかやってられっかチクショウクソが!!!!」みたいなブチギレ方でTwitterなんか辞めてやると思いつつ、結局使い続けているという非常にカッコワルイムーブをしています。

 理由は大きく2つあります。
①Twitter上で交流している方々がいる
②自分の創作を発信するのに、プラットフォームとして結局Twitterが使いやすい

 このような理由で、度々イライラしたりモヤモヤしたり、きっと抱えなくてもいいであろう、余計な負の感情にたまに苛まれながら続けているという具合です。
 しかし、やはり使うなら使うで、快適度を上げたいと常々思っていて、負の感情を呼び起こす原因だと思ったことの1つに、Twitter公式アプリの通知機能があります。
 通知機能についても度々議論が交わされているのを目にしたことがありますが、私は主に「自分のツイートへの反応」に対して、特に一喜一憂してしまうと感じました。

 好きなものについて喋ったツイート、創作について自分の考えのツイート、はたまた自作のイラストや漫画……内容は問わず、自分のツイートに対して送られる「いいね」。
正直これは、物凄い中毒性があるんだなと思っています。
脳は正直だもの。いいね押されると嬉しいって感じてしまうもの。

 いいねについても様々な理由があると思います。単純にツイートが気に入ったからいいね、同意のいいね、相互だからとりあえず押しておくかのいいね、その他色々。
いいねの中にもきっと色んな感情が本当は込められているのかもしれないけど、結局は「いいね」という反応に集約されています。
 「いいね」ただそれだけなのに、脳は「私を肯定してくれた」と感じてしまいます。
そんな気持ちを持ったままTwitterで「いいね」を気にかけていると、だんだん「このジャンルの話のが受けがいい」「このキャラ描いた方がいいねが多い」などと、「いいね」が物事の判断基準になってくる感覚を味わいました。

 これはいかん……私としては、例えばジャンルA、ジャンルB、どちらも好きなのに、TwitterではジャンルAへの反応のがいいから、ジャンルBの話はしない方がいいのかなと思ってしまったりする。好きなことの話を好きなようにすればいいのに躊躇するようになっていきました。

 「Twitterの反応は好きを鈍らせる」
今回のタイトルのことを強く感じています。

 これは感覚が、他人軸に寄っていってるということです。他人軸で生きるということは辛いこと、私は自分軸で生きていたい。
それを叶えるため、Twitterを使ううえで、公式アプリの通知は不要、何なら通知切るだけでは足らず公式アプリそのものを削除しました。
 現在は、featherというTwitterクライアントからTLを見ています。このアプリは私がつい気にしてしまう通知機能がありません。

 自分のツイート、特に作品への「いいね」という反応。それを得ることで、確かに活力を頂いたり、エネルギーを頂くことも多々ありました。頂けること自体は物凄くありがたいことです。
 しかし、今の私は「いいね」に振り回され過ぎている。自己を見失っていると感じたので、暫く他人軸から自分軸への確立がしっかりできるまで、反応は手放した方がいいと思いました。

 執着が生まれるとそれが心を苦しめることとなる。禅の考えでも言われていることですが、私は他者からの反応への執着があるので、限りなく手放す環境を整えるのが、心を平穏に保つために必要なことでした。

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