査読システムは生き残るか?

https://www.mext.go.jp/content/20231114-mxt_kibanken01-000004257_01.pdf

上記リンクのような通達が文部科学省から出て,早速各大学で通知されています。要約すると「査読はきっちりやろうね」ということです。念頭にあるのは,福井大学の事例だと思われます。こちらでは,要するに自作自演の査読をしていた,ということです。

こうした自作自演の査読がダメなのは当然ですが,一方で完全に防ぐことは難しいです。福井大学のケースでは幸か不幸かたんまりと証拠を残していたようですが,証拠を残さないようにやられると・・・正直,見抜くのは非常に困難と言わざるを得ません。

また,不正を抜きにしても査読者によるバイアスを回避することは非常に困難です。多くの人(特に若手)に経験があると思いますが,ほぼ同じ論文が査読者A・Bだと落ちて,C・Dだと通った・・・ということは日常茶飯事です。
更に,特にトップクラスになればなるほど,ダブルブラインド(査読者と投稿者が,相互に名前がわからない状態)での査読であっても,誰の論文かはほぼアタリがつくという問題もあります。実際,私も査読に回ってくる論文の3〜4割くらいは,誰が著者か解ってしまいます。公正にやるよう努めていますが,自分でも自覚できないバイアスが絶対にないとは言い切れません。

こうした場合,ダブルブラインドの意味がないので,シングルブラインドで査読をすることになりますが(多くの場合,査読者に対して投稿者が開示されます)これはこれで非常に難しい問題を孕みます。そりゃあ,中には品行方正とは言い難い研究もいますからね・・・。

そもそも,現状では論文の質を担保する方法が査読しかない,という消極的な状況です。査読システムが定着し始めたのは概ねこの100年ちょっとですし,この査読というシステムを活用した悪の枢軸として利益を吸い上げ続ける会社がかの有名なエルゼビアです。

査読が万能ではないことは,査読されたはずの論文が(研究不正などがあるにしても)撤回されることが頻発していることでお解りになるでしょう。

個人的な感覚を言えば,多くの論文査読は「論文への攻撃」です。即ち,「ココはおかしいんじゃないの?」「ココは論理が飛躍してるんじゃないの?」などと,あら探しをしているわけです。そうした「論文への攻撃」に価値があることは認めるとしても,結果として出来上がった査読済の論文は「カッチカチに防御を固めた論文」となるわけです。ところが,私達が論文に対して本当に求めているのは,論文の防御部分ではありませんよね。その論文でわかること,広がる世界,そうしたものを求めている訳です。査読という仕組みは,宿命的に防御を固めた論文を産み出すことになり,本当に大切なことに目が向かないリスクがある,と考えています。

勿論,プロの研究者であれば防御を固めつつ主張をきちんとすることが求められると言ってしまえばそれまでです。ですが,その裏で,多少粗があっても素晴らしい多くのアイディアを葬っている可能性に目を向けると,査読という仕組みが生き残るべきかという点について懐疑的にならざるを得ない訳です。

論文の質を担保する方法として,かつては圧倒的に評価されていたインパクトファクター(IF:その雑誌に掲載された論文が平均で何回引用されたかを示す指標)は,現在ではかなり懐疑的に運用されています(消極的に使われてはいますが)。査読も,同じようにその地位を下げていくべきではないかと思いますし,そうした方法について私たちの世代の科学者が真剣に考えるときが来ているのではないかと思います。

なぜなら,私たちプロの研究者は,自分の領域の論文のよしあしは,ほぼ「見れば解る」のですから・・・

なお,筆者の専門領域で最もユニークな雑誌は,Editorがまず論文をレビューし,アイディアが面白くなければその時点で問答無用で跳ねる,ということをやっています。アイディアが面白い論文は査読に回され,落とされた場合は,Editor側が採用になるまでの様々なサポートをしてくれます。こうした試みは,査読システムの弱点を克服しつつ活用するという点で,非常に高く評価したいと思います。
最も,その雑誌は業界内の評価で言えばナンバー3か4になってしまうのですが・・・(ナンバー1の雑誌は,まさに防御力の高いつまらない論文が多いんです,ハイ)。

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