【小説】逆上がり
あと一歩、あと一歩踏み出すだけだ。
目を閉じたまま、あと一歩。
いや、この景色を網膜に焼き付けておこう。
目は閉じず、飛ぼう。
10秒間。
考えていた時間はそんなものだったと思う。
「お死にになられるのですか?」
目を閉じていれば、この言葉も聞き入れず
そのまま海の中へと飛び込んでいただろう。
並々ならぬ覚悟であと一歩まで来ていたが、眼前の岩、波にわずかばかり恐怖していたのだと思う。
「ええ。そのつもりです。」
私はそう答えながら振り向いた。
「そうですか。人生はつまらないですか?」
...ここは、小包峠。季節を感じさせてくれる景色で有名な観光地。また、自殺の名所としても有名である。
こんな場所に似つかわしくない、タキシードを着た老人が微笑みながら問いかけてくる。
「ええ。---なぜでしょうね。つまらなくなってしまいました。」
わたしは180度方向を変え、もう一度海の方を見つめながら答えた。
「なぜつまらないか分からなくなってしまいましたか。あなたは今、まさに、命をかけて守ってきた命を自ら投げ捨てようとされている。そんな大事なものを失う覚悟がおありなのに、理由が分からないとは。」
落ち着いた声で老人が喋る。
「バカだと思われますか?」
「いいえ。しかし、悲しい事です。」
「悲しい・・・ですか。こんなバカで哀れな男を想ってくれるのですね。あなたは優しい人だ。最後にあなたと話せて良かった。」
最後に、と言ったのはこれ以上話せば覚悟が揺らぐと感じたからだ。
よしっ。と顔を一度クシャッとさせ、再度自分の足元を見た。
「死ぬならばっ!」
老人の力強い声に足が止まる。
「死ぬならば。」
老人はもう一度諭すように言った。
「死ぬ理由を探しませんか?あなたのその死ぬ勇気、覚悟は重々承知しております。止めたいわけではない。死ぬための材料を探しに行くんです。それからでも、遅くはないでしょう?」
死ぬための材料を探す。
聞き慣れない言葉に私の足が止まる。
...続く?
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