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一番見たくない自分を、受け入れる

私の好きな漫画キャラにスポットを当て、彼らの背景から感じたことや気付きを深掘りしていく、題して「そこに隠されたもうひとつの物語」シリーズを書いてみたくなりました。(ネーミングがイマイチなのでまた変えます…)



初回は、Netflixで鬼滅の刃の新シーズンの配信が始まったのをきっかけに、過去の話を思い出したくて原作のイッキ読みをしていたら、以前にも増して心を揺さぶられた「猗窩座(あかざ)」についての物語です。(※以下、ネタバレが含まれます)



鬼滅の世界観において、強い鬼であればあるほど血の気が無く機械的に私は感じるのですが、そういった意味で「猗窩座」に関しては、強い鬼トップ3であるにも関わらず、最初の登場シーンから鬼としての最期まで、どこか人間臭さを隠しきれないところに私は魅力を感じていました。


私が、他のどのキャラより彼の生き様を壮絶に感じて同情したくなるのは、「もう誰にも自分の本心を否定して欲しくない」という私の思いに、どこか通ずるものがあったからなのかもしれません。



人間だった頃の名は「狛治(はくじ)」。
彼が生前、とにかく圧倒的な「強さ」を求めたのには、彼が11歳の時に自殺で亡くしてしまった父のことに始まります。

貧しさの中、病床に伏せる父をなんとか治したい一心で、盗みや暴力などの犯罪を繰り返した狛治でしたが、そんな息子に迷惑をかけたくなかった父は「真っ当に生きて欲しい」という言葉を遺し自ら命を絶ってしまいました。

そのことで、自分の不甲斐なさや悲しみを覆い隠すかのように、どんどん自暴自棄になっていった狛治でしたが、「師範」との出会いをきっかけに、その病弱な娘の世話と道場の稽古に明け暮れる中で再び、自分が本当に守りたいと思う目の前の大事な存在に気付くこととなります。


師範の教えと道場を受け継ぎ、そしてその娘と夫婦の契りを花火の下に誓った矢先、彼に嫉妬した隣の道場の跡取り息子によって、師範と娘は毒殺されてしまいます。


その時の彼の怒りや悲しみは、隣接する道場の人間の大量殺戮という形で描かれ、こうして鬼としての「猗窩座」が誕生するわけです。

この、自分が心から欲しかったものに「あと一歩で手が届くところで全てを失う」という破壊的な悲しみは、余りにも残酷で想像を絶するものがありますが、漫画だけの話に留まらずどこか身近に感じてしまうのは、少なからずとも私達の大抵が人生のどこか(過去世含め)で、似たようなことを一度は経験した事があるからなのでは?と、ふと思いました。


"弱者には虫酸が走る
反吐が出る
淘汰されるのは自然の摂理に他ならない”


そう、猗窩座が放つ言葉に対し


"強い者は弱い者を助け守る
そして弱い者は強くなり また
自分より弱い者を助け守る
これが自然の摂理だ”


と、正義感いっぱいに炭治郎が応えるシーン。


この時、瞬時に殺気立ち嫌悪感をむき出しにする猗窩座から私が感じたのは、自分が一番やりたかったこと、なのに出来なくて、散々悔やんでも悔やみきれなかったことを、あたかも当然のように目の前に突きつけられたことへの「腸が煮えくり返るほどの怒り」と同時に、心の底から守りたいものを守れなかった「弱い自分」を何よりも受け入れられなかったこと。

そして本当は、その大事なものを「ただ守りたかっただけなのに」という彼の本心に触れたような気がしたら、私はやり切れない思いで胸が締め付けられるようでした。


猗窩座は全体的に、喧嘩っ早くどこかいっぱしで子供っぽい印象がつきまとうイメージがありましたが、初めて師範に出会ってボコボコにされた時そんな自分のことをずっと誰かに「止めて欲しかった」のと同時に、「鬼」とは、自分のエゴに負け「一番やりたかったことを否定し続けた方の自分」に私には思え、まるで自分自身を見ているようでもありました。


「自分のせいで大事な人を守れなかった」


原作とは関係の無い別のところで、猗窩座が「鬼」に成らずに済むのなら、自分の黒さ、その一番見たくなかった「弱い自分」、すぐ自暴自棄になったり、力で相手をねじ伏せようとも欲しいものは手に入らないことを、まずは受け止めることからなのでしょう。(言うのは簡単ですが、実行するとなると本当に難しい…)

彼が本当に欲しかった、自分の大事なものを守るための「真の強さ」を手に入れて、その本心に素直になるために。

尚、原作で猗窩座は、炭治郎との闘いの中で「弱い自分が嫌いだった」ことに気付き、最期は「自分の意思」で、鬼であった自分を終わらせました。


私にはその姿こそ、潔の良い強さを感じ、鬼の中ではダントツ猗窩座が好きな理由も、そのひとつです。




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