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花束みたいな恋をした~これは、恋愛映画ではない~

 賛否両論あるようなので、ほとんど予備知識なしで「花束みたいな恋をした」を観てきた。こういった動機で映画を観に行ったのは「ドラゴンクエスト ユアストーリー」以来である。ドラクエユアストーリーはドラクエをやったことのない私にも楽しめる作りになっており個人的には好きだった。「花束みたいな恋をした」にはきっと様々なメッセージが内包されているんだろうなと感じたが、イライラしたり心をざわつかせたりするようなポイントも多く、あまり観た後の感触はよいものではなかった。

・これは、恋愛映画ではない。

 恋愛映画だと思って観に行ったが、そんな単純にカテゴライズできる物語ではなかった。たしかに、主人公カップルであるむぎ君ときぬちゃんの恋愛模様が描かれているのだが、周辺情報が詰め込まれすぎである。意図的に作り出した情報過多なのだろう。

 むぎ君ときぬちゃんはいわゆるサブカル男子とサブカル女子(と呼んでいいのかわからないが)で、とても感性の合う二人が運命的に知り合い、3回目のデートで付き合って、4年付き合って同棲までした末に価値観の不一致から別れを選択する、というのが物語の骨子になる。別れた二人が街中でお互い別の彼氏彼女を伴った状態で偶然再会するところから始まり、観客はこの2人がどういう経緯で付き合い、別れたのかの一部始終を見せられる。そのシンプルそうな物語に、固有名詞が嫌というほど登場する。二人の好きな音楽、映画、漫画、作家、イベント等がこれでもかというほど作中にちりばめられる。2人はとにかく気が合うんだよ、最高のカップルだよ!と主張する以外にこうした情報に何の意味があるんだろうとうんざりしながら見ているが、後半に生きてくる情報だ。

・サブカル好きによる無意識な見下し

 序盤に押井守のことを認知していない大人たちを2人がディスる描写がある。2人だけがわかる高尚な世界!みたいな視点を感じる。

 この視点は、この後の場面でも登場する。まず、きぬちゃんが就活失敗続きで圧迫面接がつらく、スーツのまま泣いているシーン。むぎ家に帰宅後、むぎ君はきぬちゃんに、「こういうシステム(就活のこと)がまかり通っている社会がおかしいよ。人事の人たちは今村夏子(二人の好きな作家)のピクニック(小説のタイトル)を読んでも心が動かない人なんだよ」という趣旨のセリフを言う。そして、むぎ君はきぬちゃんに自分の家に住むことを勧め、2人は同棲を始める。

 あとは、むぎ君が就職し、2人の心がどんどんすれ違っていく場面。むぎ君が上司のひどいエピソードと自分がいかに耐えているのかを話すと、きぬちゃんは「その上司、人としておかしいよ。その人は今村夏子のピクニックを読んでも心が動かない人なんだよ」と、むぎ君の言ったセリフを引いてくる。

 サブカル好きの2人は好きなことを追い求め、モラトリアムを謳歌していた。趣味の合致もさることながら、そのフラフラした(と世間からは言われるであろう)生き方も合致していたから付き合い始めは楽しいことしかなかったのだ。それが、親の圧力や社会の価値観に巻かれ、仕送りを打ち切られて初めて2人は社会に出て働き始め、現実を知って価値観が合わなくなり、すれ違っていくのだ。この、自分の好きなものをわからない人はクズだという無意識な見下しの視線を、序盤は2人の秘密のように共有していたものが、きぬちゃんが就活をする(=社会に近づく)段階ではその時点の2人にとっては社会の代表である人事に向けられ(そしてこの時点では社会に対する敵対意識が共有されている。)、むぎ君の就職後にはきぬちゃんの目線で、意識高い系のビジネスマンになってしまったむぎ君に向けられるというのがなんとも残酷である。

・男女の格差

 就活の結果、2人ともが就職できる。だが、進路は全く異なっている。先に就職の決まったきぬちゃんは簿記2級を取得して医療事務になり、アフター5はコリドー街で名刺集めをするような腰掛のような仕事。対するむぎ君はベンチャーの物流会社に所属し、やりがいのある仕事も任され世界をどんどん広げていく(ように見える)。どう考えてもむぎ君の仕事のほうが年収も多そうだしやりがいもありそうだ。

 先輩が亡くなってお葬式に参列するシーンもありそうだ。むぎ君は、先輩は酔うと海に行こうとする人だった……と感傷に浸り、その夜はきぬちゃんと一晩中先輩の思い出を語りたがった。しかしきぬちゃんから見れば、先輩は酔うと女の子を口説くし恋人に手を挙げるという許せない側面を持っていた。同じ人間に対しても見え方が男と女で全然違うし、女にしかわからない男女差別があるということを示唆しているのだろう。

 むぎ君がきぬちゃんにケンカの勢いでプロポーズする場面にも男尊女卑が内包されている。まずイラストレーターの夢をあきらめて就職することに決めた段階で「俺の夢はきぬちゃんとの現状維持です!」と言い放ったところから2人の齟齬は始まっているのだが、このプロポーズの場面になるころにはそれが決定的な溝となっている。きぬちゃんは好きなことを好きだと思えなくなって社会に巻かれているむぎ君に納得できないし、むぎ君はむぎ君でいつまでも好きなものばかり追って、夢みたいなことばかり言っているきぬちゃんを許せなくなっている。そんな中でむぎ君は言うのだ。「じゃあもう仕事辞めちゃいなよ。結婚しよう。家事もしなくていいよ。きぬちゃんはきぬちゃんの好きなことをずっとやってればいいよ。俺が稼ぐからさ」と。

 稼いだうえに家事もやってくれるというのは夢のような話ではあるが、これはすなわちきぬちゃんを俺のものとして囲うよ、という宣言に思えた。独占欲というかただの執着である。この時点のむぎ君は個人としてのきぬちゃんや、きぬちゃんの生き方を全く理解していないし認めていない。それなのにこんなことを言って束縛しようとするのだ。

・好きだったものを楽しめなくなるということ

 就職しきぬちゃんとの夢のようなモラトリアムを抜け出してしまったむぎ君は、あんなに好きだった本や音楽や映画を楽しめなくなり、パズドラしかできなくなる。これは非常に共感できる。仕事が忙しいと、思考停止状態に陥りスマホを見る以外の動作ができなくなるときはあるからだ。多分むぎ君も、忙しすぎて感性が死んでいるのだ。

 サブカル男子時代にあんなに見下していた(であろう)社会でふつうに働いている人、意識高い系のビジネスマンにむぎ君はなってしまった。そして、大好きだった彼女から蔑みの目を向けられるのだ。自分が蔑んでいた「ふつうの」人に自分がなる。そして自分と同じだったサブカル女子の絹ちゃんのことを今度は蔑み始める。というかこの映画、サブカル好きな人を社会不適合者みたいに描きすぎじゃないだろうか。そこにも何か違和感を覚える。

 むぎ君はイラストレーターの夢をあきらめ、就職して稼いできぬちゃんとずっと一緒にいる選択肢を取った。それによって成長した部分もあるが、サブカル趣味を失い、きぬちゃんをも失った。好きなものが変わってしまったことによって、きぬちゃんを好きな気持ちも失ってしまったのだろう。

 社会人になって、すれ違うことしかなくなっても、それでもきぬちゃんと一緒にいたいから、「結婚」「家族」という形にこだわるようになった。それならやっていける気がした。でも、そうじゃなかった。もともとそういう形にとらわれることは大嫌いな、はみ出した2人だったはずだった。社会の決めた形に迎合した幸せが、叶うはずもなかった。

・……と、いうことが、描きたかったのだろうが

 そもそもむぎ君ときぬちゃんが社会が勝手に決めたルールに従いたいのか従いたくないのかがはっきりしない。3回目のデートで告白しないと、友達になっちゃうってとか言ってきっちり3回目のデートで告白して付き合っている時点でかなりテンプレートに従った恋愛をしているのではなかろうか。

 花束みたいな恋、と銘打っているが、作中に花束を買うシーンもあるが、そんなきれいなキャッチフレーズでまとめられるような恋に思えなかった。お互いがクリスマスに贈りあったイヤホンをしているとかいう未練タラタラな終わり方をするが、そんな未練を感じさせるほどこの2人は分かり合っていただろうか。若さゆえとはいえ、好きなものについては饒舌なくせにいつも肝心なところでケンカを中断し話し合いを放棄し、コミュニケーションをさぼってきたのではないだろうか。

  そんな思いを抱えながら映画館を後にした。複雑な感情がわいてくるという意味ではよい作品だと思った。

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