好きなもの 田中達也③

2004年に悲劇がおこる。
達也が足を骨折した。
骨折の瞬間の写真は、達也の足の向きは明らかにおかしく、
誰の目から見ても折れていた。
とんでもない大怪我だった。

その後、怪我から復帰し、活躍は続いた。
しかし、2012年、わたしの中の最大の悲劇が起きた。
浦和からの戦力外通告だ。

わたしはそれをネットニュースでみた。
仕事が始まった時間にyahooのトップページで天気予報や時事ネタを見ているときに、見出しが目に入った。
仕事中にもかかわらず、そのニュースのページを開き、いったんトイレにかけこんで、トイレの個室でもう一度自分のスマホでそのニュースを開いた。
トイレで泣きながら「まだスポーツ誌がスクープとしてとりあげているだけで、公式の発表ではない、まだ本当かわからない」と心を落ち着け、その日の仕事はどうやってこなしたかわからないまま終業の時間を迎えた。

帰宅し、またスマホでネットを開くと、ついに浦和レッズの公式HPから、達也が契約更新をしないという発表をしたのを見た。
職場のトイレで流した涙では足りなかったようだ。とにかく泣いた。
涙が枯れるまで、というが、いつ枯れるのだろうというほど、ひたすら涙は流れ、嗚咽は止まらなかった。

翌日目を腫らしながら、浦和のJリーグ最終戦のチケットと、高松‐羽田の往復チケットを買った。埼スタに、浦和のユニフォームを着た達也を見に行こう。

最終戦は12月最初の週末、香川も寒い日だった。
始発の飛行機に乗った。埼スタに行くのも何度目だろう、香川の私鉄の乗り換えもできなかった人間が、1人で飛行機に乗り、何度も電車を乗り換えて埼スタに行っている。人は変わるものだ。
その日、わたしが買ったゴール裏のチケットは完売しており、入場列にはものすごい人の列ができていた。1人並んでいると、ひょうが降ってきた。香川も寒かったが、埼玉はもっと寒かった。話し相手もいなくて気を紛らわすことができない分、寒さが体に刺さってきた。

ようやく入場が始まったが、わたしが席のエリアに到達するころにはすでに席がほとんど埋まっていた。なんとかグループとグループの間に1席見つけ、座ることができた。隣のグループは高校生か大学生の若いグループで、途中、お菓子をグループ内でシェアしはじめて、わたしにもチョコを分けてくれた。逆の隣の男性はわたしが荷物を座席下に置こうとしたときに、「下が濡れているからこれを使って」と大きなビニール袋をくれた。なんてみんな優しいのだ。香川から来た1人で座っている得体のしれない女に気遣いをしてくれる。浦和サポーターは過激でよくニュースを騒がせているが、少なくともわたしが出会った浦和サポは全員いい人だ。

試合が始まる。あれだけ寒かったのに、試合中は寒さを感じない。ずっと立ちっぱなしで、のどを開いて声をだし、ときには感情的な言葉を発して自分の思いを口にする。改めて思う。応援するって楽しい。この楽しさに出会えたのは達也のおかげだ。

達也は試合に出なかった。試合は浦和の勝利で終わり、年間順位は3位、来シーズンのACL出場権を獲得した。最高に盛り上がった中、選手が観客席にあいさつをするため、並んで歩いてくる。

みんな、背番号11のユニフォームを着ている。達也のユニだ。
五輪の会見で達也がしたことを、今度はみんながしているのだ。

そして、選手がゴール裏に並んだとき、達也がマイクをもった。
サポーターに達也の口からお別れのあいさつをするのだ。

達也の言葉は家族、チーム、サポーター、関係者すべての人への感謝の思いが溢れていた。これが達也の人柄だ。
観客席は涙に包まれていた。浦和の選手も、何人も泣いていた。これほど達也との別れは人を泣かせるのだ。

この瞬間、この場所に立ち会えたことは、自分の人生観を変えた。
観客席で一緒に涙を流し、届くかわからないけど届けたかった「ありがとう」の声をその場で発することができた。
今の時代、テレビやネットでいくらでも疑似体験できる。
でも、その空間にいないとできないことがあるし、受け取れない感情がある。今しかできないことがあるならすればいい。場所が離れているならそこへ行けばいい。それだけのことだ。

達也、たくさんの出会いをありがとう。人生観を変えてくれてありがとう。
あなたを好きになれて本当によかった。
サッカー選手でなくなった今も、ずっと応援しています。

#田中達也 #浦和レッズ

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