見出し画像

第3子出産

Where there is a will, there is a way - 意志あるところに道は開ける。
アメリカ合衆国第16代大統領、エイブラハム・リンカーンの言葉です。
リンカーンというと日本では「人民の、人民による. . . 」の演説が有名ですが、本国ではこちらのほうが有名で、ブートキャンプのビリー隊長とかもよく引用しています。
自分の意志で人生を切り開くのを良しとするアメリカ人を力強く励ます言葉なのでしょう。
 
あたしは15歳から20歳までの5年半、アメリカで育ちました。
父の仕事の関係で、家族4人で赴任し、最後の2年間は家族が帰国してしまったので一人残って大学に通い美術を学んでいました。
ですから日本では義務教育まで、高等教育はアメリカで受けたので、善悪や好き嫌いの価値観、判断基準は結構アメリカンなところがあります。
働いて貯金してまた大学に戻る、なんてことを当たり前のように考えていたように、こどもができても働くのは当たり前、興味があることはこどもを預けてでも勉強するのも当たり前、と思っていました。
でも20世紀の日本ではまだまだそんなことは当たり前ではなく、あたしはどんどん本来の自分を見失い、しょんぼりしていきました。
今ではそれも自分の選択であったことは理解していますが、帰国直後は(日本に馴染もう、悪目立ちしてはいけない、日本を乗りこなすのが大人の対応ってもんだ。)と自分に言い聞かし、人一倍礼儀や言葉使いに気を付けていました。
それは母親となってからも変わらず、自分というものを持たないためにこどもに振り回され、公園に行ってもよそのこどもや母親たちに振り回されて疲れるだけでした。

1995年という1年が分岐点となり、あたしは意識的に自分を変えることにしました。
自分のことを見つめ直し、自分を大切にする時間を持つことで母親としても少し余裕と自信が出てきました。
そんななか、第3子を授かりました。
最初の子を27歳で産んでいたので本当は4~5人こどもは欲しかったのですが、結局この子があたしの最後のベイビーとなりました。
この子も第2子の出産時にお世話になった助産院で出産することにしました。
上の2人はすでに認可保育園に通っていましたので心配はなかったのですが、送迎する人がいなくなるので同じマンションに住む友人にお願いすることにしました。
食事は入院中と退院後の食事は独居高齢者向けにお弁当を宅配していたところに頼み込んで1か月だけ夕食用弁当を届けてもらえるようにしました。
掃除や買い物は有償ボランティアさんに1か月来ていただきました。
保育園の仲間やご近所さんにもいっぱい助けていただきました。
またあたし自身もそのころから図々しくなり、人に甘えることにも抵抗が薄れてきていたとはいえ、三児の母は強し、です。


末っ子は予定日3週間前のとある天気の良い金曜日にやってきました。
理由は覚えていませんが、なぜかその日は上の2人は保育園はお休みしていっしょにお出かけしていました。
おなかが大きくて運転が辛かったのでバスで出かけていたのですが、帰りに4歳の長女が眠ってしまい、バス停から自宅まで抱っこしました。
そのせいかなんだか、おなかが痛くなってしまったのです。
すぐに「陣痛が始まったようなので急いで帰って。」と相方に電話しました。
上の子たちをお隣さんに頼んでタクシーで産院に行くべきか、ちょっと悩みましたが、まだ大丈夫そうなのでいざという時にそなえて風呂を掃除して相方を待ちました。
慌てて帰ってきた相方の運転で家族そろって産院に出発しました。
その間も今回は3回目ということもあり、胎児がどの辺に来ているのか自分でもわかり、「急いで!出てくるかもわからん!」と車中で叫んでいました。
焦りまくって通いなれた道を間違える可哀そうな相方を怒鳴りつけながらなんとか到着。
3人のうち1番大きな胎児で、とにかく出てくる勢いが強く、いままでになく大声でうなっていました。
夕飯がまだだったのでこどもたちは相方と外のコンビニにおにぎりを買いに行き、廊下で食べようとしていたようですが、「ああ、早いわね。すぐ生まれるわ。ご主人、もうお子さん連れて入っていてください。」と助産師さんに呼ばれて病室に入ってきました。
不思議なもので、こどもの顔を見るとうなったり苦しんだりしてる所見せられんわ!って一瞬で冷静になりました。 
(ちなみにこの産院では夫だけでなく上のこどもの立ち合いを勧めていて、家族は産婦の頭側に立って出産を見守ることになっています。)
たぶん産院に入って1時間もしないで生まれたと思います。
まるで断髪式のようにちょっとずつおにいちゃんとおねえちゃんにへその緒を切ってもらい、末っ子は家族の仲間入りをしました。

あたしが夫ならあまり妻の出産に立ち会いたいとは思わないかもしれないけど、こどもは立ち会わせて良かったと思っています。
本人たちは何も覚えていないそうですが、少なくとも彼らが小さいときに「赤ちゃんはどこから来るの」「赤ちゃんはどうやって生まれるの」といった質問を受けることはありませんでしたし、(だってもう彼らは見てましたから)性教育の導入はしやすかったと思います。
退院してからも上の子が赤ちゃん返りするようなことはなかったと思いますし、かいがいしく下の子を世話をしてくれ、新入りを優しく家族に迎え入れてくれたと思います。

そんなわけで、我が家は3人の子宝に恵まれました。
難産で苦しんだ皆さんには本当に申し訳ないくらい安産で、母や姉が難産だったことを思うと安産体質というのは遺伝ではないのだろうと思います。
姉は1人目が3日、2人目が1日がかりだったといっていましたが、あたしは3人産んでも分娩所要時間が24時間にならない計算で、姉にはめっちゃ嫌われました(笑)。
赤ん坊は皆3,000g前後で特別小さかったわけではありませんが、皆健康で、自分の力でスルスル出てきてくれたのであたしはあまりいきんだ覚えがありません。
個人的には股関節が柔らかいのがよかったのかなあと思っています。
50歳くらいになるまでは180度開脚できました。
(まあ、だからといって新体操選手が全員安産なのかどうかはわかりませんがね。)
あといずれの子も直前まで水泳をやって体力をつけていたのもよかったのかもしれません。
第1子と第3子のときはマタニティ・スイミング、第2子の時はおにいちゃんと一緒にベビー・スイミングのクラスに通っていました。
(ちなみに妊娠中はおなかに浮袋があるので水泳上達しますよ。バタフライなんかめちゃくちゃうまくなりました!)
そんな流れで我が家の3兄弟は赤ちゃんの頃から(生まれる前から?)プールに通っているので水泳だけは全員得意です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?