近代性という「猛獣」を手懐ける―イスラーム的アプローチ(3)精神の隠遁

イスラームの歴史から見てこのような状態は極めて例外的である。例えばムラドはインドネシアのジャワ島のイスラーム化の過程を例に挙げる。インド洋によって南アジアや中東などのムスリム世界から分け隔たれていたため、イスラームは軍隊の遠征を通じてではなく、ムスリム商人によってジャワにもたらされた。それらの中には、神話的要素も含む「9人のイスラーム聖者(ワリ・ソンゴ)」がおり、ジャワ先住民の間でイスラームの普及に貢献した聖人の説教師であった。ムラドは、ワリ・ソンゴがイスラームの核心を見据えていたことに注目する。ワリ・ソンゴは身なりは地域文化に合わせ、服装や名前さえも変えていました。彼らは地域の言葉を用い、ジャワに伝わっていた既存の詩の形を借りながら、イスラームのメッセージを詩に込めた。今日までこれらの詩はジャワのイスラーム教徒によって受け継がれている。ムラドによれば、これは「宣教」の適切な方法であり、最も違和感を与えずにイスラ―ムの本質を伝えることができるという。
 表層的な形式主義への執着は文化的に賢明ではないだけでなく、イスラ―ムの核心的な倫理を理解する機会を奪う形式的な戒律主義を生み出してしまっている。あらゆるものの内面に焦点を当てたイスラームを学ぶことで、イスラーム教徒は現代が提起する新しい倫理的問題を、少なくとも個人のレベルにおいては対処する方法を知ることができると、ムラドは何度も論じている。彼によれば、イスラームとは「そもそも伝統的に異質なものであった」のであり、そして異質なものであることは良いことであり、今日のイスラーム教徒は形式的なものよりも根本に焦点を向けなければならない。
 ムラドは『イスラームの五つの色』という本を書いたフランス人改宗イスラーム教徒のヴァンサン・マンスール・モンテイユを紹介し、イスラームがいかにタウヒード(一神教)という白いプリズムの中に集められた虹色に輝く文化の光であるかを説明している。モンテイユは、「イスラームには適応性はあるが変容性はない」という理解こそが、ヨーロッパのイスラームにとって鍵を握っていると信じていた。彼はまたヨーロッパのイスラーム教徒がこの理解をどのようにしてヨーロッパ社会の中で実現するかについて提言している。最初の移民の世代は、彼らの母国に根付いた土着のイスラ―ム、生のイスラ―ム、そして現代性をジャグリングする輪の中で立ち往生している。それとは対照的に、他のイスラーム教徒たちは、一方では生のイスラ―ム、もう一方では現代性という単純な弁証法の中にいる。ムラドは、このアイデンティティの葛藤は解決できる課題であるというモンテイユの信念を受け、彼がいかに現代世界からの徹底的な退却に反対しているかを論じている


近代性を受け入れることの愚かさ
 
 ムラドは同様に近代性の受容に反対している。近代性という「猛獣を乗りこなす」の難しさの一部は、常に変化することである。現代の道徳について唯一確かなことは、いま認められている価値も20年後には違ったものになっているだろうということであり、それがイスラーム教徒にとって現代的価値を受け入れることを困難にしている。ムラドは、近世エジプトの「改革者」たちが西洋風の大学を最初に開校した際に女性を排除した例を挙げている。実際にはそれはイスラームではなくヨーロッパの規範に沿ったものであった。現代の様々な傾向は西洋から始まったとすると、「近代主義」と呼ばれるイスラーム教徒はヨーロッパ人が自分たちよりも道徳的に優位に立っていると信じて終わることのない猿真似に明け暮れているのである。ムラドは、このような猿真似から脱するためにイスラーム教徒はより原理的な(アラビア語でウス―ルと呼ばれるもの)道徳的規範を築かなければならないと主張する。ムラドは近代性に対する「イスラーム的アプローチ」が過剰に戒律
主義に陥ることや表層的になることを恐れているようだ。そのようなアプローチはカフェで行われるようなスピリチュアルセラピーでしかなく、「これはハラールなのか」とイスラーム法的に大丈夫かどうかを表層的に考えるだけに過ぎないからだ。ムラドは、今日の多くのイスラームに特徴的な近代性に対するこのようなアプローチは心の中に多くの葛藤を生じさせ、劣等感から目を背けているだけだと言う。
 しかし、ムラドは現代におけるイスラーム教徒の状況についてただ悲観的なわけではない。それがエヴォラや伝統主義の思想家たちとは異なっている点である。ムラドは、世界中のイスラーム教徒が現代の状況に惑わされることなく、1日5回の祈りとラマダン断食を続けていることを聴衆に思い出させた。クルアーンは暗唱され続け、イスラーム教徒はモスクを運営し続けている。しかし最も重要なことは、タウヒードは残っていることであり、それは近代の偶像がムスリムの中に生きるタウヒードを歪めることができないことを証明している。どれだけイスラーム教徒がダメであろうと、イスラームは未だ存続しており、イスラムは簡単に信仰生活を再開することができる。

精神の隠遁
 ムラドは、現代社会から退却しようとするイスラーム教徒を評価しながら、彼の分析を締めくくっている。しかしここでの「退却」とは文字通りの意味ではなく、むしろ心の隠遁である。彼はイスラームにおける隠遁主義の否定や預言者ムハンマドの積極的な社会との関わりを例に挙げながら、終末論的な預言者の予言を鵜呑みにして安易に孤立主義に走ろうとするイスラーム教徒達に立ち止まって考えることを勧めている。「社会の中での隠
遁」(ペルシア語でハルヴァト・ダル・アンジュマン)というアプローチを提案している。これはイスラームの実践は損なわずに、現代文化や生活の中で消費されるモノを受け入れることを意味する。
 ムラドはイスラーム教徒にとってのリアリティは内側にある(すなわり、神は内なる静けさの中に見いだされる)ため、私たちは信仰のためより深く心の奥底を探求しなければならないが、この内的探求は私たちが他の方法では経験できないような精神性に満ちた社会生活への扉を逆説的に開くことになると指摘している。表面的には近代性には人間らしさはなく距離を置くことが必要であることを認めているが、私たちのコミュニティを放棄することもまた伝統が求めるものではない。
 ムラドのメッセージは、以下のように要約することができるだろう。近代性がもたらす将来への懸念にもかかわらずイスラームはまだ残っている。イスラームの核となる信念と基本的な実践は歪曲されていない。近代性は脅威であり親しき友とはなり得ないが、それに真っ向から反抗することは賢明ではない。むしろ、私たちはこの猛獣と並んで生きるこ
とを学ばなければならない。

アブドゥルハキーム・ムラド

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?