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社会主義化と自動運転とノマド化社会とAI:その9

無政府型ベーシックインカムから社会参加強制社会の是正へ

①将来ベーシックインカムが実現したとして、その時の社会はどんな形を目指すのだろうか?

②人間は生まれながらに老化がプログラムされており、死は不可避だ。同様に、資本主義社会の原理である格差拡大はいわば宿命で、人間にとっての老化であり、資本主義社会は停滞という死へ向かっていく。停滞へ向かう中で人は、あらゆるものを手放さざるを得ず、その行き着く先の非所有社会が現れたとき、資本主義社会は末期を迎える。この末期の資本主義社会は富を生み出す装置ではなく、富を奪い合うゲームと化しており、このゲームは富める者が有利なルールとなっている。そのため多くの“持たざる者”にとって資本主義社会から得られる日々の糧は、生活するうえで必要な最低限となり、理想とする人生設計を実現するために必要なレベルを大きく下回る。このギャップを埋めるのは政治や行政といった民主主義的なものとなり、やがて多くの人々が日々の糧を資本主義社会からではなく民主主義的なものから得るようになる。現代社会においてもその片鱗はそこかしこに見てとれる。そうなると人々の社会への依存もより強固なものとなり、この依存状態を見る視点を180度変えれば、そこに社会参加強制社会の姿が現れてくる。では社会参加強制社会の姿はどのようなものなのか。

③例えば昨今、巷でしきりに叫ばれている“多様性”や“持続可能性”そして“自由”。これらの価値観は誰もが重要と認めるものだ。しかし、これらは“社会参加の強制”という枠内での”自由”、”多様性”、“持続可能性”を事実上意味している。

④この“社会参加の強制”とは、端的に言えば「社会に関わらざる者食うべからず」(就学児童なら「学舎に馴染まざるもの学ぶべからず」か?)だ。ここで言う社会とは個と個、個と多、多と多の関係が集まってできる関係の集合体で、人は日々の糧をほぼ100%この社会から得ている。そのため社会への完全依存状態となっており、その関係性としての立場の弱さから参加強制状態が立ち現れてくる。

⑤強制参加した社会には様々な参加条件としてのルールが存在し、当然その遵守が強制され、このルールの中での自由となる。このルールを遵守できない者は社会から除外されるため、この多様性が意味するところは、このルールを遵守できた者の中での多様性となる。

⑥ルールと聞いて一般に想起される法律などの明文化されたものは、ここで言うルールを構成するもののうちのほんの一部に過ぎない。このような明文化されたルールは民主的過程など、人の目にさらされるが故、良くも悪くもお行儀が良く、個人が尊重された内容になる。むしろ危険で問題なのは、ここで言うルールを構成するものの大多数を占める、常識・偏見・文化・道徳・共感・伝統といった明文化されておらず、空気のように見えないのに社会全体を満たし、支配するルールのことである。

⑦例えば昨今の多様性を反映するものとしてLGBTの人権への配慮が挙げられるが、別に彼らの人権が最近になって突如出現したわけではない。当たり前だが昔から彼らにも人権はあった。彼らを苦しめてきたのは常識・偏見・文化・道徳・共感・伝統といった明文化されていないルールだ。この明文化されていないルールからの逸脱も、社会から除外されることを意味していたから苦しんでいたのだ。

⑧持続可能性の意味するところは、「社会が持続すること」で、その主体は社会だ。そのため持続可能行動の実施が強制される新しいルールと言える。それゆえこれに従い貢献することが個々人に求められる。このルールにはレジ袋の有料化、自然エネルギーへの転換、食品ロスの削減、一昔前なら経済を停滞させると批判を受けたであろうことが並ぶ。そのルールに従って負った負担と等価の見返りがあるのかと社会に問うても、「このままでは社会の存続が困難なのです」と薄ぼんやりした危機感が提示されるだけだ。まるで社会参加の見返りとして豊かさを提供することさえ放棄したかのようだ。負担を課すのならその負担の分配は平等であってはならない。でなければ“持たざる者”は持ちこたえられない。もう差し出せるものなどないのだから。

⑨進撃の巨人でたとえるなら、壁の中での自由や多様性は、”壁の中のことが世界の全てと思っている人”にとっての自由や多様性に過ぎず、そして壁の維持そのものが壁内社会存続のための唯一の手段と思い込んでいる状態だ。

⑩この”自由”、”多様性”、“持続可能性”のような様々な社会的価値観は、その社会参加の強制という枠組みが偏狭で不寛容になればなるほど、全体の調整が利きやすくなるため実現しやすくなる。偏狭で不寛容の例を挙げるなら、極端な例ではあるが北朝鮮や中国がそうだ。このような国だとトップが掲げた社会的価値観はすぐに実現できてしまう。ただ、実現できるとは言っても中国政府による「我が国の国民は自由である」との声明には、日本人から見ると首をかしげてしまうだろう。

⑪一方で枠内の参加人数の少なさは正当性を失わせ、実現を目指す価値観が有名無実化する恐れを生む。こうなってしまうのを避けるために、“個々人のために社会がある”のではなく、“社会のために個々人がある”といった優先順位が転倒したものへと社会が変容し、容赦なく社会参加を強制する“巨人”のようなものが現れ、その正当性の維持を図り始める。社会参加を拒否した者や社会参加に難のある者を壁の外に追いやり、巨人に食われる様を壁内の者に見せ、「壁の外に出るとこうなるぞ!」と自らの価値観の正当性を根拠づける。

⑫この“巨人”とはどのようなものなのか?社会は個にとってあまりに強大であるため、いわば神のような存在となり、そのご利益に授かる熱心な信者によって、守られ、絶対化され、神聖化され、巨大なカルト宗教のようなものとなる。熱心な信者にとっては、信仰心の薄い者が満たされ幸福のうちにある様は不快で甘受できない。そのため願望の自己実現化により、信仰心の薄い者たちが満たされず不幸になるように振舞い始める。そうして、それがうまい具合に作用し不幸な状態が実現すると、満たされず不幸のうちにあるのは社会への信仰心が薄いからだと確信し、信仰心が強化される。この信仰心の強化が行き過ぎると社会参加を強制する”巨人”となるのだ。

⑬社会は自ら掲げた理想を実現しようとするあまり、偏狭で不寛容になり、そんな自分を正当化するために社会参加の強制を強化していく。このような社会参加強制社会のグロテスクな様を少しでも軽減するためには、まず個人の生存を無条件に保証する必要がある。ある人が貧困や不自由あるいは差別的な状況に置かれ、その生存の“質”が脅かされているとき、「あの人は障害者だから」、「あの人は元受刑者だから」、「あの人はレズビアンだから」、「あの人は低学歴だから」、「あの人は外国人だから」と社会は多様性や包摂を説く割に、理由付けではしっかり人を分類し、多くの場合で納得し是認する。しかし、この生存の“質”が脅かされるような状況が生まれたのは、社会が生み出したしょーもない“分類”のルールが原因だ。この分類のルールに正当性はなく、正当性がないのなら先に述べた理由付けは根拠がなく、理由付けができないのなら、「生存の“質”が脅かされてもしかたがない」などという条件も存在しない。人間を分類する上で“人間”以外の分類区分は不要で、ゆえに生存の保証は無条件なのだ。生存を無条件に保証された個人は、社会参加を強制されることなく自らの意思で参加の度合いを調整・選択することができるようになる。

⑭例えば世の中では、ハンコ社会の非合理性や女性の社会進出といったことがしきりに叫ばれ、叫んでもなかなか変わらない世の中への恨み節や呆れ、怒り、ときには諦めといった反応が見られる。これを見て私は思う「なぜ、社会みたいなバカでかいものが、そんなすんなり変わると思ってるんだ? どうせ簡単には変わりゃしないんだから、そんなに嫌なら社会から距離を置けばエエやん」と。そうするとすかさず「でも生活するためには関わるほか無いだろっ! 社会が変わりにくいことなんて百も承知だバカヤロウ!」と言われる。そうなのだ、全くその通りで生活があるから関わり続けるしかなく、関わり続けるしかないから叫び続けるのだ。それに叫べるだけまだいい。やむにやまれぬ理由から風俗産業で働いている女性など、不満や支援を叫びたくても叫べない人は世の中にごまんといる。

⑮ならば、ベーシックインカムなどの方法で、無条件に生存を保証すればいい。そうすれば、今いる社会に関わる価値はないと思ったら、好きなように距離をとることができる。叫ぶことができない、つまり社会を変える力が弱い人達(障害者や児童など)も、その場から逃げられる。

⑯現在の民主主義は政治家を選べても、社会は選べない。政治家を選んでも、明文化されたルールしか変わらない。明文化されていないルールは政治ではほとんど変わらないのだ。だから政治に期待できず、国政選挙の投票率が5割を切ったりする。社会において政治が関与できる範囲は案外わずかだ。社会参加強制社会の是正により、社会との関わりの程度を自由に選べるようになれば、政治家だけでなく社会自体もその存在価値を問われるようになり、民主主義がバージョンアップする。これにより社会への参加行動による事実上の投票が行われるようになるため、参加者獲得のための緊張感が社会に生まれ、“個々人のために社会が存在する”という、社会が本来あるべき姿に将来なっていくだろう。

⑰まとめると、資本主義はいずれ行き詰まり停滞する。そうすると社会の個に対する力が相対的に強まり、やがて社会は怪物化する。この怪物は自らを崇めない者に厳しく、社会の空気は閉塞感を強め、窮屈なものとなる。しかし、ベーシックインカムが導入されることでこの閉塞感は緩和される。または、この閉塞感を緩和する手段としてベーシックインカムの導入が待望される。

⑱このような社会参加強制社会の是正を目指す考えや実現方法のアイデアについて、もしかしたらまた記事を書くかもしれない。その時にいちいち「社会参加強制社会~」と書くと文字数が多く何かと面倒なので、以後、このようなことを”神在主義(Kamiarism)”と呼ぶ。


※おまけ
十月の別名を“神無月”と呼ぶが、出雲ではこの時期を “神在月” と呼び、日本中の神様が出雲大社に集まり様々な“縁”について話し合うとされている。この神々は、神の世界にいるのではなく、我々と同じ世界に存在している。ただ、その世界が反転している方に居るためこちらからは見ることはできない。とてもユニークな宗教思想だ。”神在主義(Kamiarism)” の “神在” の由来はこの神在月から来ている。出雲市に住んでいた学生時代、市内に点在する小さな社にお供え物があるのを見て「神様も消費の主体たりえるのかぁ」などと、どうでもいいことを考えていた。その時に「人間以外の生産・消費主体を人工的に作り出せれば、不況はなくなるんじゃね?」などと思いつく。ただ当時のAIは現在のAIほど高度なことはできておらず、仮想空間はまだ構成が粗いもので、仮想通貨やブロックチェーンは影も形もない。ES細胞やiPS細胞で生み出したのでは、それは ”人間” なので論外。そのためこの思いつきの実現手段は皆目見当がつかず眠らせるほかなかった。ただ、時代が進み様々な技術やプラットフォームが登場する中で、「もしかしたら実現できるんじゃね?」と思うようになる。無政府型ベーシックインカムの構造は、ちょうど神道における ”神” と ”人間” の関係性を ”神”→”人間”、”人間”→”AIアバター” に置き換えたものだ。神道では、自然物や自然現象などを擬人化した様々な神々がもたらす恵みによって人間は生きていけると考える。これと同様、無政府型ベーシックインカムの仮想空間では、人間アバターがもたらすヴァーチャルミールという恵みによってAIアバターは生きていける。いわば人間の ”擬神化” なのだ。別に神道という宗教概念を抜きにしても、”自然の恵みによって人間が生きている” という構造が成立していることは、すんなりと受け入れられるだろう。ここで考えなきゃいけないのが、この構造を資本主義社会の原理である格差拡大(資本主義の老化現象)の仕組みにどう作用させるかだ。この格差拡大の問題を論じるとき、莫大な富を占有して手放さない強欲な ”上層” ばかりをやり玉に挙げがちだが、この問題は資本主義が抱える致命的欠陥(矛盾?)によってもたらされるもので、この「致命的欠陥」とは ”どうとでも扱ってよい下層” が存在しないことだ。貧困のうちにある者が ”人間” である以上、当然それは見捨ててはならず、何とか救済の手を差し伸べなければならない。しかし資本主義社会において ”下層” の者は ”上層” の者から一方的に搾取されるシステムになっており ”下層” の者は搾取する先を持たない。それゆえ貧しく、救済してもその場限りになりがちで根治が難しい。そこで搾取先を仮想空間内で生み出し、尚且つそれは ”見捨てて良い存在(AIアバター)” にする。そしてこの仮想空間内の構造を ”人間アバターの恵みによってAIアバターが生きている” というものにし、この状態が持続するよう調整するのだ。このような方法が上手くいくかはわからない。ただ試す価値があると信じている。

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