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卒/おわる・おえる・ついに

 菫ちゃんが、私より二歳年上のお姉さんでよかったなあ……と、華々しく飾られた壇上で卒業証書を受け取る、しゃんと伸びた細い背中を見ながら、私はそう思った。

 菫ちゃん。

 他の卒業生の顔がナスやじゃがいもに見えちゃうくらい、菫ちゃんの美しさは圧倒的だった。冬用の黒いセーラー服も、右側だけ耳にかけた、形のきれいなショートボブも、長くて濃いまつげと、くるみのように大きな目も。ぜんぶぜんぶ、何か特別なものに愛されているみたいに光り輝いて見えたのだ。
 私が菫ちゃんと、同じ中学校の生徒でいられるのは、今日がもう最後だ。
 菫ちゃんは、県内でも有名な進学校(なんと、偏差値が七十四もある。ひえー)に見事合格を果たした。この春からはそこへ通うことになる。
 対して私は、成績は中の中。生活態度は、可もなく不可もなく。良いこともしなければ悪いこともしない。つまり、日本中どこにでもいる女子生徒Aといったかんじである。そんな私が今から必死で勉強したとて、どう転んでも同じ学校に合格することはできないだろう。
 私とは、違う世界を生きる女の子。
 それが、菫ちゃんなのだ。
 そして私は、そんな菫ちゃんのことが、ちょっと自分でもびっくりするくらい好きだったのだ。
 
 あれは去年の、夏休み前のことだった。

 その日、私は給食を食べ終わって片づけが住むなりサッと立ち上がって、逃げるように教室を出た。逃げるように、というか、実際逃げていた。誰にも話しかけられたくなかったから。
「おい、純。愛しの彼女が逃げちゃうぞ」
 背後から、野球部の佐野くんという男子の楽し気な声が聞こえてきて、カッと顔に熱が集まった。そして同時に、胸の内側にどうしようもない感情――こういう時にふつうは浮かべるべきであろう、照れとか戸惑いとかそういうものではなく、泣きだしたくなるような嫌悪感が湧き上がってくるのをひしひしと感じた。
「あ、牧田さ、」
 続けて聞こえてきた私を呼ぶ声を聞こえないふりして振り切る。それから、ずんずんと大股で歩みを進める。
 図書室に転がり込んで、ようやく深く息を吐く。厳しいことで有名な司書の先生がじろっとこちらを見たので、慌てて本棚の間へ逃げ込んだ。
 学校の図書室は、あまり大きいものではない。だいたい、教室ふたつ分くらいだ。手持無沙汰を誤魔化すように日本人作家の棚をうろうろとさ迷っていると、聞きたくない声が聞こえてきた。
「絶対ここでしょ! おーい、牧田さあん!」
 びっくりした。心臓が破けちゃうんじゃないかと思った。
 思わず、サッと身を屈める。本棚の隙間から声のした方を見ると、佐野くんと上田くん――先ほど私を呼び止めようとしてきた二人組が、そこにいた。サッ、と体温が抜けてゆく。どうして? 今までは、こんなところまで追いかけてきたりはしなかったのに――
「さ、佐野、もういいよ。嫌がられてるみたいだし……」
「はあ!? 純のこと嫌がる女子なんていねーだろ。絶対照れてるだけだって!」
 ちがう、ちがう。照れてなんかない。
 本当に、本当に嫌なのに。けれど、そういうことが上手く言葉にできない。言っても無駄なように思えてしまう。
 私は、なんとか逃げなくてはと思って、そろりそろりと静かに図書室を歩いた。そしてその先でたどり着いた、本棚を抜けた先にある、読書のできる丸いテーブルの席に――女の子が座っていた。
 視線を落として、薄い文庫本を手にしている。今より少し長かった髪が頬に垂れて、白い肌に影を作っていた。薄暗い図書室のその一角だけに、まるで天使が梯子をかけたかのように光が差し込む光景は、思わず呼吸が一瞬止まってしまうくらいきれいだった。
 それが菫ちゃんだったわけだけれど、この段階ではまだ、見知らぬ少女に過ぎない。
「牧田さん、いるー!?」
 背後から、無遠慮なガラガラ声が聞こえてきて、私はびくっと肩を揺らす。野球部の佐野くんの声は、普段練習で大きな声を出しまくっているせいか常にちょっとしゃがれていて、それが私はほんの少し怖い。
 もはや逃げ場をなくしてうろたえる私に気づき、菫ちゃんはふっと顔を上げた。

「――追っ手がいるの?」

 それは、心臓の奥がぎゅうっとなるくらい、きれいで、澄んだ声だった。
 追っ手。
 日常生活であまり聞かない、その刑事ドラマのような――もっと言えば西部劇のようなその言葉に、私は一瞬ぽかんとしてしまった。けれど、ああそうだ、私は追われていて、それはつまり追ってくる人――追っ手がいるから成り立つ状況なのだ、と、妙に冷静にそう考え、それからこくんと頷いた。
「そう。じゃあ、もう大丈夫」
 菫ちゃんはそっと立ち上がり、自分が読んでいた文庫本を私にそっと預けた。「このページ、開いたままにしていてね」と言い残して。私は手のひらに『可愛いエミリー』という小説を開いた状態で、ただ頷くことしかできなかった。
「あ、ほらやっぱいた! 牧田さ――」
「あなたたち、悪いけれど、図書室では静かにしてくれる?」
 しん、とその場に静寂が流れる。本棚の間から顔を出した佐野くんと、その後ろにいた上田くんが、びっくりしたように表情を固める。二人は私の方を見て何か言いたそうにしたが、それを遮るように、
「私、図書委員なの。だから、あなたたちみたいな人には注意をしなくちゃいけないの。ほら見て。本を読んでいる人もいるのよ。お願いね」
 と、菫ちゃんに念を押すような口調でそう言われてしまい、「あ、す、すいません」「失礼しました! ほら、行こう」と気まずそうに去って行った。
 二人が慌てて去ってゆくのを見て、私は心底ホッとした。ホッとしすぎて、いっそ泣きだしそうになった。それから、助けてくれたこの謎の美少女にお礼を言わなくては、と口を開こうとしてぎょっとした。
「ふ、ふ……くくく、」
「え」
「ふふふ……あははは!」
 美少女は、突然お腹を抱えて笑い出したのだ。意味がわからない。呆気に取られていると、美少女――菫ちゃんは尚も可笑しそうに頬を緩めたままこう言った。
「私、図書委員なんかじゃないの。くく、んふふ……嘘ついちゃった!」
 思えばこの時点で私は、菫ちゃんのことを完全に好きになっていたように思う。
 楽しそうに笑う菫ちゃんの横顔を、魂をピンセットで抜かれたかのように心ここにあらずで見つめていると、流石の騒がしさに司書の先生が近寄ってきて、「図書室では静かに」と釘を刺されてしまった。「す、すみませんっ」と二人して慌てて謝って、静かに椅子に座る。さっきあの二人に言ったことをそっくりそのまま返されて、私はそこで少し笑った。
 席に座るとすぐ、菫ちゃんは囁くような声で話しかけてきた。
「私、糸井菫。三年二組」
「あ……せ、先輩、です、ね。ええと、一年一組の牧田です。牧田花。さっきはありがとうございました」
「敬語なんて使わなくていいよ。花ね。私のことも、菫って呼んで」
「え、でも、」
「いいから。それより、どうして追われていたの?」
 小説なんかでよく、鈴の音が転がるような声、という表現が出てくるけれど、菫ちゃんの声は本当に鈴が転がるようにころころと愛らしくて、そしてささやかだった。
 私は、制服のりぼんをぎゅっと握って、胸の内でずっと抱えていた言葉をなんとか絞り出した。不思議なことに、もう誰に言ってもわかってもらえないだろうと諦めていたことだったのに、菫ちゃんを前にすると、つるんと言葉が飛び出してきた。
「なんか、あの……同じクラスの男子から、急にしょっちゅうラインがくるようになって」
「ふんふん」
「その、それで、あの……当たり障りのない返事をするようにしていたら、なんか、周りの人たちから、両想いだけどまだ付き合ってない状態、みたいな、そんな扱いをされるようになって、全然違うのに」
「あ~」
「仲の良い友達からも、『リア充でうらやましい』とか『早く付き合いなよ』とか言われて。否定しても、照れてるだけみたいになって。なんか、しんどくて。ものすごく遠くにいる人たちに、大きな声で話してるけど、相手には全然届いてない、みたいな、そんなかんじがして」
 ――上田くんからはじめて連絡がきたのは、六月の頭の、ある金曜日ことだった。
 
『牧田さん、突然ごめん! おれ、明日試合なんだよね。よかったら、応援メッセージみたいなのくれないかな?』
 
 ほとんど話したことがないような間柄だったので、なぜ急にそんなことを言われたのかわからず、私は戸惑った。送信先を間違えたのだろうかと思った。けれど、しっかり『牧田さん』と添えられているし、間違いなんかではなさそうだ。
 上田くんはサッカー部で、言わずもがな運動ができる。頭も良いし、顔もけっこうかっこいい。正確は明るく陽気で、先生たちからの信頼も厚い。つまるところいつもクラスの中心にいるような人物で、それが私のような目立たない女子にこうしてわざわざ連絡をしてくるなんて、心底不思議だった。
 けれど、無視をするのも感じが悪いし、私は『頑張ってね! 応援してます』という一文と、うさぎが「ファイト!」と言っている無料ダウンロードのスタンプを送って、そこで私たちのやり取りは終了した。
 ところが、次の月曜日。
「花って上田くんと付き合ってんの!?」
 通学路で出くわした仲の良い友達にそう問われ、私は「は? なにそれ、なんで?」と頭上にいくつもクエスチョンマークを浮かべてそう返した。すると友達は、まるで必殺技を出すみたいにスマホの画面を私に見せつけた。
 それは、上田くんのSNSのアカウントだった。私は親に禁止されているからやっていなけれど、うちのクラスはほとんどの生徒がSNSのアカウントを持っているらしい。
 そしてそこには、金曜の夜私が送ったトーク画面のスクショと共に、『この一言でがんばれる(きらきらマーク)』という一文が添えられていた。送信者の名前が表示されるところはスタンプで隠されているけれど、白い毛並みの猫が大あくびをしているアイコン――私のアカウントのアイコンは、隠されていない。
 ……そう、そして、クラス全員が加入しているグループラインの写真を一枚ずつ見ていけば、上田くんがトークをしていた相手が誰なのか、簡単に割り出させるというわけなのだ。
「え、な、なにこれ」
「この前の上田くんの投稿。うち、びっくりしたよ! ていうか、そういう仲だったんなら教えてよ、水臭いな~」
「え、そういう仲って!? 全然違うけど!?」
「だって、試合の前にわざわざ応援のメッセージ送るなんて、カレカノのやり取りじゃん。いいなーうらやましいなー」
 はあ、と肩を落として友達が呟く。私は、ぞぞぞ、と背中に悪寒が走るのを確かに感じた。
 何かの間違い……そう、気の迷いとか、そういうやつだろう。そう思いながら教室へ向かう。窓際の席の方に、人だかりができていた。その人の波のうちの一人が「おい、来たぞ」とからかうように言うと、中心にいた人物――上田くんがパッと顔を上げて、「あ、お、おはよう、牧田さん」と、私に対してはにかんだ。
「お――おはよう」
「あ、この前、ありがとう。その、ライン」
「い、いいえ」
「その、あの、それで、よかったら――」
 もごもごと、上田くんが何かを言いたそうにする。私は自分に向けられたその視線のねちっこさというか、熱量に、なんだか泣きそうになった。あんな気持ちははじめてだった。
「ほら、頑張れよ、純!」
「よかったら俺と――」
「私――その、ごめん、授業の前に、トイレ行きたいから!」
 私は鞄を乱暴に置いて、とうとうその場から駆け出した。大勢の視線が、にたにた歪む表情が、ただ気持ち悪い。怖い。どうすればいいのかわからない。
「牧田さんは照れ屋だなあ!」
 背後から聞こえてきたそんな声に、大きな声で否定したくて、けれどできなくて、私はよろよろとトイレへ駆けこんだ。
 その日以来、私は授業の時間を除いて、教室にいることを避けるようになった。
『クラスの人気者男子が、地味で目立たない女子を好きになる』
 みんなはそういうシチュエーションが大好きみたいで、それが良いものだと信じて疑わない、恋をしている者は正義なのだという眼差しを私に向け、時に慈しむように見てくるけれど、そういうすべてが私にはただ押しつけがましくて、そして気持ち悪くて仕方がなかった。
「なるほどねえ」
 話を聞き終わると、菫ちゃんはうんうんと頷いて、それから「それは大変だったね」とやはり美しい声で私に言った。
「……みんな、私が照れてるだけって、そう言うの。でも、照れてなんかない。本当に嫌なの」
「うん」
「……恋って、そんなに良いものなのかな。私には全然わからない。むしろ、みんなが人が変わっちゃうみたいに夢中になっているところを見ると、怖いしキモイって思う」
『可愛いエミリー』の表紙を撫でながら、私は言った。図書室の扉がからからと開いて、何人かの足音が入ってくる。廊下から滑るように話し声や笑い声が響いてきて、ここが学校なのだということを思い出す。
「じゃ、こうしようよ」
 良いことを思いついた、というように、菫ちゃんが言った。
「私、これからちょくちょく、昼休みと放課後にあなたの教室に行ってあげる」
「へ」
「それで、手を繋いで校舎を歩くの。仲良し姉妹みたいに。それで、例えばその彼――上野くん? だっけ」
「え、いや、上田くん」
「ああそう、そっか。上田くんに、『僕と付き合ってください!』って言われたら、あなたはこう答えるの。いかにも憂いを帯びた表情で、『ごめんなさい。好きな人がいるから。きっと相手は私を妹としか見ていないと思うんだけど、でも諦められないの』って」
「……なにそれ」
「私が上田くんだったら、色々察して、もうそれ以上何も言えないだろうなあ。もちろん、周囲に言いふらしたりもできないだろうし。それに、私ってばもうあと半年で卒業じゃない? だから、あなたも楽でしょ。もう会えない人を、それでもずっと思い続けているふりをしていればいいんだもの」
 名案だ、とでもいうように、菫ちゃんは言った。この人は何を言っているんだろう、と私は思った。けれど、呆気にとられる私のことを置いてけぼりにして、彼女は「よし、決まり、じゃ、明日から早速実行してあげる」と言った。
 その翌日から、菫ちゃんは私のクラスに本当に来るようになった。
 こんな風にはじまる人間関係があるのか、中学生ってすごいな……と、つい半年ほど前まで小学生だった私は単純に驚いた。
 菫ちゃんと過ごす時間はとても穏やかだった。図書室で菫ちゃんに勧められた本を読んだり、冷房を求めて音楽室へ行って音楽の先生に呆れられたり、渡り廊下からグラウンドを見下ろして昨日見たテレビの話をしたりするだけだったけれど、その平穏さが、何気なさが、私にはとてもありがたいものだった。
 そしてそんな折、あれ?  と思った。
 私ってもしかして、あれだけ怖くて気持ち悪いと思っていた、恋する人間ってやつに、今まさに、なっているのではないか?
 そうだ、間違いない。
   私、菫ちゃんのことが好きなんだ。
 


「花、久しぶり」 

 胸につけたコサージュがかすんでみえるほど美しく笑って、菫ちゃんが私に手を振る。卒業式も終了し、各々が好きに写真を撮ったり色紙を書き合ったりする自由時間。菫ちゃんは、私の元へ来てくれた。
「菫ちゃん、卒業おめでとう」
「うん、ありがとう」
 三月の冷たい風が足元から吹いて、菫ちゃんのさらさらの髪を宙に浮かせる。その光景があんまりにきれいで、私はついに耐え切れず泣きだしてしまった。私が泣くと菫ちゃんはぎょっとした顔になって、「ちょっと、なに、泣いてるの!?」と言いながら、背中を優しくさすってくれた。
「やだもーっ、なんか、先輩と後輩みたいじゃん!」
「せ、先輩と後輩、でしょっ」
「あ、まあ、そうだね」
 あはは、と笑い声が響く。こんなやり取りができるのも、もう本当に今日で最後だ。
「花、私がいなくなってもしっかりね。いやなことはいやって、上原くんにもちゃんと言うんだよ」
「……上田くんね」
「あ、そっか。まあ、なんでもいいでしょ」
「うん。上田くん、彼女できたし」
「え、そうなの!?」
「少し前に。かなりラブラブだよ。毎日、手ぇ繋いで下校してるし、だからもう、私にあれこれ言ってくるようなことはないと思う」
「は~、そう」
「菫ちゃん」
 私は言った。
「わ、わたし、」
 私は言った。
「わたし、」
「うん」
「わたし、」
「うん、うん」
「……菫ちゃんが、大好き、だよ」
 私は。
 私は――やっぱり、言えなかった。
「うん、ありがとう。私も花が大好きよ」
 ああ、伝わらなかった、と思い、いっちょまえに傷ついた。
『好き』より『大好き』の方が、字面を見ると思いのスケールは大きいはずなのに、『大好きだ』は愛の告白にならないのはなぜだろう?『大好き』はなんとなく、おもちゃみたいな響きになる気がする。けれど、『好き』はとても切実で、もうごまかしようがなくなってしまう気がする。
 そしてごまかしようがなくなってしまうのが怖くて、私は逃げた。
 逃げたのだから、伝わらなくて当然だ。
「……菫ちゃん、卒業しても、私と仲良くしてくれる? 面白い動画を見つけたら、送ってもいい? お喋りしたくなったら電話していい? 見たい映画ができたら、誘っていい?」
「当たり前じゃない、バカだなあ!」
 菫ちゃんはそこで、とうとう自分も泣きだしながら、ぎゅうっと私を抱きしめた。ふんわり甘くて良い匂いがして、この匂いを忘れることは一生ないんだろうなと思うとまた泣けてきた。
 きっと私たちは、一緒に映画に行くことはないだろう。
 いや、もしかしたら一回くらいは行くかもしれない。メッセージを送ったら菫ちゃんは絶対に返してくれるだろうし、電話をかければ応じてくれるだろう。
 けれどそんな関係が、何年も、何十年も続いてゆくとは思えない。
 私にはそういうことが、いっそ残酷に思えるくらいはっきりとよくわかった。今この瞬間が最後だ。今この瞬間が、菫ちゃんが私を愛しく思ってくれている気持ちのピークだ。これから先、今以上に菫ちゃんが私を思ってくれることはきっとない。
「菫―っ! 二組みんなで写真撮るって!」
「あ、はーいっ。ごめん、花、私行くね」
「うん」
「そうだ、これあげる」
 言いながら、菫ちゃんは胸につけていたコサージュをとって、私のブレザーの胸ポケットに、とても優しく丁寧な手つきでそっと刺した。
   それは、妙にゆっくりした手つきだった。
   私がこの時間を惜しんでいるように、菫ちゃんもまた、惜しんでくれているのだろうか。せめて、そうであってほしい。そうであってくれたら、どれだけ救われるだろう?
「さようなら」
 じゃあね、でも、またね、でもない。
 今まで一度だって言われたことない、妙にかしこまった、その美しい言葉は、まるで矢のように私の胸にすとんと刺さった。
「……さようなら」
 菫ちゃんは私の返事を聞くと、にこ、と微笑んで、くるんと踵をかえし、真っすぐに歩いていった。美しくしゃんと伸びた背筋で、ぐんぐん、ぐんぐん、前に。 

「さようなら。」

 私は、いつの日か図書室でひそひそ話をした時のことを胸に思い浮かべながらもう一度そう言って、コサージュを外してぎゅっと握りしめ、ポケットの中にしまいこんだ。
   

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