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ジョゼおばさんのピアノ

 ジョゼおばさんは、むかし、姉が通っていたピアノ教室にいた先生だ。

 わたしは小学生の頃、毎週火曜と金曜の週に二度、母に連れられ、姉の迎えのためにジョゼおばさんのピアノ教室を訪ねた。
   そこは白いモルタル壁に赤い三角屋根が特徴的な小さな一軒家で、玄関口から二メートルほど離れた門のところに「辻本」の表札と、その下に「辻本ピアノ教室」と書かれた控えめな看板がささやかにぶら下がっていた。わかりやすく大きな看板を掲げているわけでも、ホームページを持っているわけでも、町中にチラシを張り回っているわけでもないので、生徒数はそんなに多くなく、しかしわたしは、そういうことにまったく焦りを感じたりしていなさそうなのんびりした空気感が、ピアノ教室の生徒でもないくせに好きだった。

 ジョゼおばさんの、ジョゼ、というのは、本名ではない。ていうかまあそもそも、ジョゼおばさんをジョゼおばさんと呼び出した張本人は、他でもないこのわたしだ。本当の名前は、辻本静歌というらしい。ピアノを教える人なのに、静かな歌で静歌って、なんかちょっとズレてて面白い。いかにも人柄の良さそうなたれ目がちな瞳と、柔らかな物腰、片耳にだけ髪をかけた栗色のショートボブが特徴的な、たぶん四十代くらいだったであろうジョゼおばさんには、同居している家族や恋人はおらず、金魚を二匹飼っていた。
 居住地と教室をいっしょくたにしているジョゼおばさんのその家には、大きな本棚があった。姉のレッスンが終わるのを母と共に待たされていた私は、猫が鍵盤の上を跳ねるかのようにめちゃくちゃな演奏を聞くのに時折辟易とし(残念ながら、我が姉にはピアノのセンスが絶望的なほどなかった)、その本棚に納まる本たちの背表紙をじぃっと眺めて過ごしたものだ。
 ジョゼおばさんの読書の趣味は、かなり偏っていたように思う。海外作家の本は一冊もなく、その全てが日本人作家、それも女性作家の作品ばかりだった。ミステリーやサスペンスなどはあまり好まないようで、日常を切り取った作風の、いわゆる純文学といわれるジャンルのものが多かった。大きな出来事や事件が起こるわけでもない、ありふれた誰かの日常をほんの一時を切り取ったようなその本たちの魅力が、正直、当時の私にはサッパリわからなかった。もっとこう、わかりやすく起承転結のある派手な本を読めばいいのにと、そんな風に、余計なお世話にもほどがあるようなことを思ったくらいだ。
 しかし、そんな私がその本棚の中で唯一、おや、と興味を示した本があった。

『ジョゼと虎と魚たち』

「それ、読んでみる? 面白いわよ」
 薄い文庫本を本棚からそっと抜き出し眺めていると、ジョゼおばさんがどこか嬉しそうに私にそう言った。姉と母は先に外に出て、お手洗いを借りた帰りのわたしだけがその部屋に居た。ジョゼおばさんと二人きりで話したのは、今思えばそれがはじめてだったように思う。
   手に取ったそれは、淡いブルーの表紙にボールペンで描いたような細い線の魚たちが群を成して泳ぐ、美しい装丁の本だった。当時小学四年生だった私はその本を手に持ち、じっと眺め、「ジョゼって、人の名前?」と、そんな変な質問をした。
「うん、そうよ。物語に登場する女の子の名前。っていっても、本当はクミ子っていうの」
「じゃあ、どうしてジョゼなの?」
「ええと……確か、好きな小説に出てくる登場人物の名前からとったの。自分のことはそう呼ぶようにって、周りに言ってるのよ」
「じゃあ、虎と魚たちは? 何者?」
「さあ。気になるならどうぞ、お貸ししますわよ、お嬢さん」
 わざとふざけて改まった口調で、ジョゼおばさんはそう言った。わたしは笑って、それから「なんか、ジョゼって名前、辻本先生っぽい」と言った。
「ええ。そう?」
「うん。ねえ、ジョゼ先生って呼んでいい? うわあ、ぴったり」
 言いながら、その響きの美しさが我ながら嬉しくて、わたしは瞳を輝かせた。しかし、そんなわたしに対して、ジョゼおばさんはわかりやすく困った顔を返してきた。
「うーん……なんかそれ、荷が重いっていうか、やんごとない感じがするっていうか……」
「やんごとない? って、何?」
「そうだ、ジョゼおばさんっていうのはどう? うん、それならいいかも。かわいいし」
 私の質問を無視して、ジョゼ先生……もとい、ジョゼおばさんはそう言った。ていうか、おばさんて。「ジョゼ先生」の方がずっといいのに。そう思いながらも、「うん、そうしましょ。あだ名をつけられるなんて、いつ以来かしら?」とはしゃぐジョゼおばさんを見ていたら、まあそれでいいかという気になって、それ以上何も言わなかった。
   そしてその日を境に、わたしは姉のレッスンのない日でも、ジョゼおばさんの家になんとなく顔を出すようになった。
 
 私の姉は前述の通り、残念なほど音楽的センスがなく、結果として一年もしないうちにピアノ教室を辞めてしまった。
   まあ元々、わたしたちの母の「女の子が産まれたらどうしても音楽をやらせてみたい」という希望で習わされていただけだから、それも仕方ないことだろう。ちなみに母には、姉が習い始める際私も一緒に習わないかと言われていたが、大人しく椅子に座って何かをするということが心底苦手だったわたしは、断固としてその誘いを拒絶したのだった。
 姉が教室を辞めても、わたしは時折ジョゼおばさんの元を訪ねた。ジョゼおばさんは自分の商売客でもなんでもない、ただの近所の子どもであるわたしを、また来たのとか呆れながらもいつも歓迎してくれた。
「ジョゼおばさんは、好きな人とかいないの」
 ある日、その日のレッスンを終えた時間を見計らって教室を訪ねたわたしは、ジョゼおばさんが出してくれたコーヒーをふうふうと冷ましながら、そう訊いてみた。わたしのそのいきなりの質問に対し、ジョゼおばさんはぱちくりと瞳を瞬かせた後、
「それは」
 と言い、自分のマグカップをテーブルに置いて、
「恋バナというやつね?」
 と。
   当時現役女子中学生だったわたしよりも、よっぽど現役女子中学生みたいな表情で、そう言った。わたしは自分で質問しておきながら、なんだか圧倒されてしまい、「う、うーん。そう、かな」なんて煮え切らない返事をするしかなかった。
「好きな人。好きな人ねえ。おほほ、そりゃ昔はいたわよ」
 おほほ、なんて笑い方をする人を、はじめて見た。ジョゼおばさんは時折、小説や映画の中の登場人物みたいなことを言う癖があった。
「へえ、そうなんだ。どんな人?」
「背が高くて、ぽっちゃりしていて、笑顔が可愛らしくて、体温はいつも子どもむたいに高くて、オムライスが大好物で、スニーカーを集めるのが趣味で、それから、お母さまやお父さまをそれは大切になさっていて、」
「うんうん」
 ずいぶん具体的だ。
「私より五歳年上で、いつも私のことを一番に考えてくれて、まるでお姫様のように扱ってくれる人で――それで、その人、ある日一万円をくれたの」
「うん……はっ?」
 ぽわん、と頭に、ジョゼおばさんが好きだった男性の姿を思い浮かべていた私の思考を、“一万円”という言葉が一気に塗り替える。
   一万円。一万円? それって、あの、お札の?
「な、なに。どういうこと? 誕生日のプレゼントとかでくれたの?」
「ううん、違うの。別れ際、急にくれたの。いらないって突っぱねる私のポケットに、いいからいいからってねじ込むようにして」
「……なんで?」
「ふっふっふ。……じゃあ、クイズね。さて、彼はどうして私にお金を恵んでくれたでしょうか。あ、先に言っておくけれど、私たちの関係はお金で成り立っていたとか、そういうわけじゃないわよ。むしろ、とても平凡な出会いをして、平凡に恋をして、そしてきっとこのまま、この人と平凡に結婚するんだろうなあって思っていたの」
 髪を耳にかけながらそう言うジョゼおばさんの横顔は、なんだかちょっと寂しそうだった。そういう未来もあったのになあ、とでもいうような、そんな昔を思う大人の人の表情だった。
 わたしは、あーでもないこーでもない、としばらく考えを巡らせたが、結果としてその答えは全然わからなかった。わかるはずがないのだ。そんな、大人同士の、大人のやり取りのことなんて。だから正直に、
「……わかんない」
 と言うと、ジョゼおばさんはふっと柔らかく笑った。ばかにしたかんじではなく、しょうがないなあ、というような笑みだった。
「じゃあ、答えね。沙穂ちゃんにだけ教えてあげる。他の誰にも言っちゃだめよ」
「う、うん」
 その前置きに、なんだか、ものすごい秘密が待ち受けているという気がして、心臓がドキドキいった。ごくんと生唾を飲み込むわたしに、ジョゼおばさんは短くこう告げる。
「当時の私、家を出たばかりだったの。引っ越しに何かとお金がかかって、大変な時期で、それで彼、気を利かせて私を援助しようとしてくれたの」
「…………は。それだけ?」
「うん、それだけ」
「な……なああんだ! もう、全然大したことないじゃん!」
 脱力して、思わず大きな声を出してしまう。そんなわたしに対して、ジョゼおばさんは「あはは」と笑い声を上げた。
「もう、あんまりもったいぶるから、とんでもない秘密があるのかと思った。ていうか、良い人じゃん、その人」
「うん、そうかもねえ。でも私、それが嫌で……どうしても、どうしても嫌で。結局、その日を境に彼とは別れてしまったのよ」
「え。なんでっ!?」
「そうねえ」
 こくんと一口、コーヒーを飲んでから、ジョゼおばさんはそっと口を開く。どこか遠くの景色を思うような眼差しで。
「私、当時は自分がやっと家を出て、一人で生活をするようになって……そんな折で、誰かに恵まれたりするのが嫌だったの。みじめだとすら思ったわ。それで、彼が私にお金をくれようとした時、どうして私の気持ちをわかってくれないのって、そう思ったの」
「え、ええ……?」
「今思えば、なんて意地っ張りなのかしらって、そう思うけど、でも当時は真剣だったのよ。あはは」
 その“あはは”に、この話おわり、とでも言いたげな意味合いが含まれている気がしたので、わたしは黙った。
 家を出たばかりで大変な恋人を支えてあげたいと思った、いつかのジョゼおばさんの恋人は、一体どう思っただろう? 自分の厚意を突っぱねられて、その上別れまで告げられて。わたしだったらきっと、わけがわからずポカンとしてしまうだろう。
「大人って、むつかしいんだね」
 わたしはなんだか何も言えず、唇を尖らせてそう言う他なかった。
   そんなわたしにジョゼおばさんはやはりあははと笑い、その場の空気を清浄するかのように、ポロン、と鍵盤を鳴らした。

 それから少し時間が経ち、ジョゼおばさんはわたしが高校生になったばかりの時、ぱたんと教室を畳んで、どこか遠くへ越して行ってしまった。確か、静岡の方へ行く、とか言っていたように思う。いや、千葉だったか? とにかく、海が見える町に住んでみたかったのだと言っていた。その頃にはわたしは既に、彼女の元へ足を運ぶことはほとんどなくなっていた。仲違いをしたとかそういうわけではもちろんなく、単純に、勉強や部活やアルバイトで生活が忙しくなり、時間が取れなくなってしまったのだ。
 その去り際の呆気なさや、教室に漂っていた独特の柔らかい空気感、すらりと細く長い指や、なにより美しいピアノの音色がジョゼおばさんへのイメージとしてすっかり染みつき、彼女のことを思い出そうとすると、わたしはなんだか狐につままれたような気持になるのだ。
 わたしは今では社会人になり、勤め先の近くのアパートに部屋を借りて、一人で生活をはじめた。大人になれば、ジョゼおばさんと同じように家を出てみれば、どうして彼女が恋人に経済的な支援をしてもらうことを嫌がったのかわかるだろうと思っていたのだが、その全てを理解したとまでは到底言えないのが現実だ。
 そしてその代わりに(と言っては何だが)、当時はなんとも思わなかったが、彼女はきっと、実家を出た際、何かとても辛い気持ちを抱えていたのだろうということだけは、うっすら理解できるようになった。  
   あの小さな家でささやかに一人暮らしていたジョゼおばさん。今頃どこか、海の見える美しい町で、変わらずピアノを弾いているだろうか? そうだといい。そうであってくれたら、とても嬉しい。
 わたしは今頃になってようやく、あの時、あのピアノ教室で薦められた小説に手を出した。
 当時はものすごく長く、難しいような気がしたその話は、大人になって読んでみたら存外短く、読みやすく、そして物語の中でジョゼと名乗る女性が幸せそうに笑っていて、そういうことに、なんだか救われたような気持になった。
 
 あの小さな部屋に、やはりとても小さく響いた、ポロン、というピアノの音を、わたしは今でも時折思い出す。

 頭の中で響くそれはとても、とても美しい音だ。

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