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狐の画廊

   ある晴れた秋の日のことでした。

 一人の年若い娘が、おっかなびっくり町を歩いていました。この娘は普段、外へ出歩くことなどほとんどないような、たいへん大人しい性質の持ち主でしたが、たった一人の家族であるおばあさんにお遣いを頼まれてしまったのです。

「私の古い友人が、自分の所有している画廊で個展を開くらしい。とはいえ私はこの通り目が悪くて、絵の鑑賞なんてとてもできやしないし、そもそも町まで歩いてゆける体力もない。お前、ちょっと行って、あいさつをしてきておくれ」

 おばあさんはそう言って、娘に和紙で包んだ花束をわたしました。
 ハナミズキ、サクラコマチ、アカツメグサ、ナデシコ、ワスレナグサ……どれもこれも、おばあさんが庭先で摘んだ花や野草ばかりです。いかにも急ごしらえといった様のその花束を抱えているのが恥ずかしく、娘は町を速足で歩きました。
 いたるところに背の高い建物が並ぶその町は、どこを見ても鏡のように磨かれたショーウィンドウがでんと構えています。そこに反射する自分の姿の情けなさに、娘の胸はつきつきと痛みました。

(ああ、いやだ。だから町へなんて出たくなかったのに。はやく花束を渡して、かえってしまおう)

 速足で歩いたおかげで、画廊へは思いのほか早く到着することができました。
 そこは、ずいぶん年季の入ったコンクリート造の建物で、両開き式の扉のドアノブ部分は、輝くような黄金色でした。ようく見ると、こじゃれた文様のようなものが入っています。娘は思わず、ジーンズのポケットのあたりでごしごしと汗を拭ってから、そのドアノブに触れました。
 扉を開くと、中は薄暗く、何の音もしませんでした。場所を間違えたのかしら、とわずかに不安になる娘でしたが、やたらと天井の高いその空間の壁沿いには、いくつもの絵が飾られており、その様子を見るに、どうやらここで間違いはないようです。
「こんにちは。ご芳名をちょうだいしても?」
 立ちすくんでいると、出入り口のすぐ横から、そんな声が聞こえてきて、娘は驚いてわずかに飛び上がりました。振り向くとそこには、いかにも気品のある佇まいの、若い男が立っていました。
「こ、こんにちは。あのう、わたくし、遣いの者です。この花束を渡すようにと、祖母から言い含められておりまして」
「ああ、これはどうも、ご丁寧に。生憎とオーナーは今席を外しているのですが、お伝えしておきましょう」
「その、あの、それで……ご芳名って?」
「そこの台帳に名を記してほしいのです。あなたが来てくだすったということが、絵描きたちの励みになります」
「は、はあ」
   言われた通り、娘は台帳に名を記しました。それから、もう一刻も早くこの場を去りたい気持ちは山々でしたが、画廊に来たというのに何も見ず帰るというのも失礼な話です。
「あのう、中を見ても?」
「ええ、もちろんです」
 娘の言葉に、男はにこにこ笑ってうなずきました。
 飾られている絵は、さまざまでした。祖母から事前に訊いていた話によると、祖母の古い友人はこうして時折自分の所有する画廊を用いては、年若い画家たちの絵を展示しているらしいのです。そうしてもし、画廊に来た人の中で絵を買いたいという者が現れれば、画家とお客の間を取り持つ、仲介人になる。人と関わるのが一等苦手な娘からしたら、途方もないほどむつかしそうな仕事に思えました。
  『音信』というタイトルの、巨大で不気味な少女の絵を前にしながら、娘はそわそわと腕時計に目をやりました。画廊って、どれくらい滞在するのが普通なのでしょう。そもそも、出たい時はどうしたらいいのでしょう。あいさつをしてから出た方が良いのでしょうか。そんなことをしては、むしろ不自然でしょうか。
 そうこうと思案していると、新しく客がやってきました。上品そうな佇まいの、若い夫婦です。男の方は皺ひとつないスーツに身を包み、女の方は、つばの広い帽子を被っています。
 その夫婦は、娘の方を見ると、わずかに驚いたような顔をしました。それから、男性のスタッフに、なにやらひそひそと、耳打ちをしています。
 ああっ、と、娘は思わず小さな悲鳴を上げました。あの夫婦に比べて、自分の姿の、なんとみずぼらしいことでしょう。くたくたのジーンズに、しわしわのTシャツ。泥のついたスニーカー。娘はもう恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうでした。
 一刻も早く夫婦の視界から消えたくて、娘は隠れるように部屋の奥へ進みました。するとどうでしょう。画廊の端の端に、下へと続く、薄暗い階段が、ぽっかりと口を開けているではありませんか。
 美しいこの部屋に到底似合わない、古びた木製の看板で、『常設展示はこちら』と記されたその階段を、娘は迷わず駆け下りました。
 降りた先に広がっていたのは、上の階の半分もないほど狭いスペースの、小さな小さな画廊でした。壁一面に、みっちりと絵が飾られていますが、そのどれにも、タイトルはつけられていません。人間の絵、動物の絵、風景の絵、幾何学的な絵……。絵の種類はさまざまでした。
 中央に、ワイン色をしたビロードのソファがあったので、娘はおそるおそるそこへ腰かけました。ほう、と息を吐いて、上を見上げると、いくつもの絵が娘を見下ろして、おそろしいくらいでした。
 十分、二十分、三十分……。どれくらいそうしていたでしょう。今朝からずっと、緊張し通しですっかりくたびれていた娘は、ソファに座っている間にうとうとと意識を手放してしまいました。

「もし、もし、お嬢さん」

 次に娘が目を覚ますと、そこには、白いひげを生やした老人がおりました。
 娘は驚いて飛び上がり、それから、「すみませんっ、ああ、すみません!」と、その勢いのまま頭を下げました。ああ、私ってば、眠ってしまっていたのだわ。ここへは遣いできたというのに! つくづく自分が嫌になりながら、頭を下げ続けていると、老人は穏やかに笑いました。
「いや、いや、いいんだよ。それより、あなたはここへ、どうやって入ったのですか」
「え……か、看板に導かれて、階段を下りました。常設展示はこちら、と書いてあったものですから。いけませんでしたか?」
「看板!」
 老人は娘の話を聞くと、大きな声で笑いだしました。
「お嬢さん、看板なんてあるはずはないんだよ。それに、ここが常設展示だって? とんでもない」
「え……」
「ここは、事情があって表に出せない絵を保管している場所なんだ。まあ、そういう意味では常設展示といってもいいかもしれないが。どれ、みてごらん」
 老人はそう言って、一枚の大きな大きな絵の前に娘を導きました。それは、鮮やかな緑を基調とした、美しい森の絵でした。青々とした葉の間に木漏れ日が差し込む様子は、見ているだけでなんだか胸が暖かくなるようですし、耳をすませば、飛び回る虫たちの羽音が聞こえてくる気さえします。
「この絵は、一度売れはしたんだよ。それも、とんでもないほど高額な値でね」
「そうですか……ならば、なぜここに?」
「うん。大金を手にしたこの絵の作者が、罪悪感から薄情したんだ。この絵は自分が描いたものではない、この金はお返しいたしますし、心から謝罪申し上げますと」
「盗作だったのですか?」
「いいや。その絵描き曰く、この絵は幾匹もの狐たちが描いたのだそうだ」
「は、」
 なんと突飛な話なのでしょう。娘は思わず、ぱちくりと瞳を瞬かせました。自分はからかわれているのかしらとさえ訝しみましたが、老人の瞳は嘘を言っているようには見えません。
「その絵描きは、日夜森に通って筆を走らせていた。森が好きな絵描きだったんだね。けれど、どれだけ枚数を重ねても、美しい木々のざわめきや、歌うような鳥たちの神秘的な声や、胸を貫くような木漏れ日の眩しさを描ききることができない。ある日、相変わらず森にこもりきりの絵描きの元に、幾匹もの狐が現れてこう言った。『あの、あの、絵描きさん。ぼくらに絵の具を貸してはくれませんか』。絵描きは狐たちに言われるまま、筆を貸してやった。するとどうだろう、狐たちは尻尾の先で器用に絵を描き始めた。いかにも楽しそうに、そう、まるで盆踊りでも踊るような具合でね」
「それが、この絵、なのですか」
「ああ。それが、この絵だよ。そしてここにある絵たちだよ」
 老人の言葉に、娘ははっとしてあたりを見回します。ここにあるすべての絵を、狐が描いたというのでしょうか。本当に、そんなことが可能なのでしょうか。
「不思議なことに、この森の絵をここでひっそりと飾りだしてからというものの、気づかぬうちに一枚また一枚と絵が増えていくんだ。あっというまに、こんな数になっていた」
「狐が夜な夜な、ここへ絵を飾りにきているとでも?」
「うん。そうかもしれない」
 にっこり笑って、老人は言いました。
 それから娘は、まさに狐につままれたような気持で老人と共に階段を上がりました。老人の言う通り、階段の入り口には看板なんてものはなく、それどころか人が立ち入らぬように柵が設けられているではありませんか。娘には、この柵を乗り越えるような度胸なんて、とてもありません。
 画廊の受付部分には、娘がここへ来た時とはまた違う、若い女性のスタッフが座っています。そういうのを横目に見ながら、娘は老人にこう言いました。
「今日はとんだご無礼を。申し訳ございませんでした。あの、それで、祖母から預かった花束を、男性のスタッフに渡したのです。気持ちばかりではありますが、祖母があなたによろしくと」
 そう言うと、老人は怪訝そうに瞳を丸めました。
「はあ、受付スタッフに男性なんていたかな。君、どうだい」
「いえ。少なくとも今日の当番は、一日私だけですが」
 ツンとした態度で、女性のスタッフはそう答えます。
「え、いえ、でも、その人に言われて、台帳に名を書いたのです。絵描きの励みになると、そう言っていました」
「そうは言っても君、うちは来館者に名を記してもらうようなことはしていないよ」
 老人は、やさしく諭すように、娘にそう言いました。
 それから娘は、ふらふらと覚束ない足取りで家へ帰りました。自分は、狐に化かされたのでしょうか? しかし、なぜ、自分が? いかにもまぬけそうな風貌をしていたから、からかわれたのでしょうか。そう思うと、なんだかむしょうに情けない気持ちになりました。
 しかしその晩、娘は夢をみました。
 夢の中では、幾匹もの狐が娘を取り囲んでおりました。娘は驚いて、思わずぎゃっと悲鳴をあげます。すると、そんな娘の反応に傷ついたかのように、美しい毛並みの一匹の狐が前に出て、こう言いました。
「お嬢さん、どうか驚かないでいただきたい。僕たちは怪しい狐ではありません。どちらかというと、とても気さくで、良い狐です」
「は、はあ」
「今日は、僕たちの画廊へお越しいただき、ありがとうございました。ちゃんとしたお客さまは、あなたがはじめてだったのです」
 つらつらと話すその狐の声に、どうにも聞き覚えがありました。娘はしばし考えて、それから、ああっ、と悲鳴を上げました。狐の声は、娘から花束を受け取った、あの若い男の声とまったく同じなのです。
「あなた、昼間の?」
「ええ、ええ、そうですとも」
「じゃあ、やっぱり狐だったのね」
「ええ、ええ」
 にこにこと笑みを浮かべ続ける狐に、がっくりと肩の力が抜けてゆくようでした。ちらりとあたりを見回すと、狐の様相は様々です。中でも、一等上品な顔の女狐と、その横に寄り添う尻尾の大きな雄狐の姿に、娘は昼間見た上品な夫婦を思い浮かべました。
「あの、どうして私に構うの? それに、どうやって夢へ入ったの?」
「名前をお聞きしましたから。あなたに、お願いごとがあって」
「お願い?」
「どうか僕らの絵に、素敵な題をつけてほしいのです」
 狐の思わぬ相談ごとに、娘は瞳を瞬かせます。
「僕ら、絵を描くことはできますが、題をつけることはできないのです。だって、そうでしょう? どうして狐が、人間社会の言葉で絵を題せますか? けれど困ったことに絵というのは、題名がないと飾ってもらえないようで」
「そんなことは、ないと思うけれど。ねえ、狐さん。べつに無題でもいいじゃないの」
「いいえ、いけません! どうかあなたの言葉で、僕らの絵を完成させてください。そうしてあわよくば、あの絵たちを日の当たる場所へ飾ってください。ほんの一時だって構わないのです」
 どうか、どうか、と狐たちはふわふわの尻尾を揺らしながら、娘に懇願しました。
「……わ、わかったわ。そこまで言うのなら、が、がんばってみましょう」
「ああ、本当ですか!」
 根負けをするように娘が言うと、ばんざい、ばんざい、と、狐たちは手を取り合って喜びます。その様子は、そう、まさしく盆踊りのよう。娘はなんだか可笑しくて、思わずふふふと笑いました。
 
 それから少しの時が過ぎ、にぎやかな町の片隅にひっそりとある、小さな画廊では、美しく、そしてどこか奇妙な絵たちが飾られるようになりました。絵のひとつひとつには、なんともささやかで、愛らしい題がつけられています。
 画廊のスタッフたちは、やってくる人々が絵に魅入られる様子を見ると、ばんざい、ばんざい、と小さな声で囁き合いました。

 そしてその画廊には時折、緊張した面持ちの若い娘がやってきて、野花でできた花束をそっと置いていくのでした。

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