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「なんでこんなの、一人でやってんの?」
 
 両手に分厚い図鑑を三冊も抱えた紺(こん)が、不思議そうな顔でそう訊いて来た時、私は思わず大きな声で泣いてしまいそうになった。けれど泣けなかった。紺の前で泣くなんて、そんなみっともないことはしたくなかった。
「なんか、委員の仕事でさ」
 口から出た自分の声は、もうごまかしようがないほど震えている。ぎゅ、と手を握る。ツンと鼻が痛くなる。誤魔化すように下を向き、ただひたすらに『南中体育祭のしおり』の角を揃えてホッチキスで留める。がしょん、がしょん。放課後の静かな教室に、無機質な音がただ響く。
 不意に、ががが、という、椅子が床を擦る耳に痛い音が聞こえたかと思うと、紺が私の正面に座って紙の束に手を伸ばし始めた。
 手伝うよ、とも、一緒にやろう、とも言わない。ただそれが当たり前のことだとでも言うように、黙々と作業をしはじめる。紺にはこういうところがある。普段はぼうっとして空気の読めないことばかりを言うのに、本当に大切な時はきゅっと口を閉ざしてただそこにいてくれる。
「紺」
「ん」
「……ありがとう」
「ん」
 西日が教室に差し込んで、彼の薄茶色の髪を染めている。おざなりにしか角を揃えずにさっさと綴じてゆくその手際に、いつもだったら「もっとちゃんとしなよ」とか「雑すぎでしょ」とか言うところだけど、今日はむしろその雑さに胸がすっとする。つられて、私も少し雑になる。そうしてさっさと作業を進めていると、段々と心持が落ち着いていった。
 
 私と紺は、家が近所だということもあって、幼稚園の頃からの付き合いだ。
 紺は昔から、ちょっとヘンなやつだった。
 
 あちこち跳ねて、もはや収拾のつかなくなった癖だらけの髪に、のびたくんがかけているみたいな分厚いめがね。開いているんだか閉じているんだかわからないほど小さな瞳。低い背。おしゃれというものにまったくといっていいほど頓着しない、言ってしまえばちょっと“ださい”男の子。それが紺だ。
 幼稚園のおままごとでは、誰も紺をお父さん役にも、お兄ちゃん役にも、弟役にもしたがらなかった。たまに、ペットの犬の役で仕方なく仲間にいれてもらうことがあったけれど、当の本人は遊びの趣旨をいまいち理解しておらず、お姫様気質の女の子に「お手!」と言われても「はあ」みたいな顔をして、しょっちゅう泣かれたり叩かれたりしていた。
 小学校のドッジボールでは、誰も紺を自分のチームに入れたがらなかった。紺は絶望的に運動神経が悪い。走ろうとすれば足がもつれて派手に転び、泳ごうとすれば手足をばたつかせたまま水底へ沈んでゆく(なぜ?)。
 だから、遊びやスポーツの時のチーム決めで、各チームのリーダーが順番に欲しい子を選んでゆく、というあの残酷な選別が行われる時、紺は必ず最後まで取り残された。
 見た目に気を遣わない、空気が読めない、運動もてんでできない。ついでにいえば、勉強もそんなに得意ではない。
 しかし、紺の不思議なところは、これだけ周囲から疎まれそうな条件が揃っているというのに、なぜかみんなに好かれているということだ。
 みんなが紺のことを、しっかりしろよとかバカじゃないのとか言いながら、それでもなんとなく構ってしまう。チーム決めで最後に残った紺のことを、ババ抜きでババが回ってきたみたいに扱うんじゃなく、「しかたないな~」とか言いながら、それでもどこか嬉しそうに招き入れる。
 
 私は、紺とは真逆のタイプの人間だ。
 
 人に好かれよう好かれようと思って行動をして、空回りをしてしまう。いや、空滑りといった方がいいかもしれない。
 おままごとではいつも、誰も率先してやろうとはしないおじいちゃんの役をした。本当は、お母さんやお姉さんの役をやりたかったけれど、その二役はいつも幼稚園でも目立って可愛い女の子たちのものだった。
 それでもなんとか楽しさの輪のようなものに入りたくて、お母さん役やお姉さん役の女の子を必要以上に持ち上げようと「〇〇ちゃんってほんとおしゃれ!」とか言っていたら、「おじいちゃんはそんなこと言わないよ。変なの~」と白けた顔をされてしまった。思えばあれが、人生ではじめて感じた「しまった、間違えた」という感覚だったように思う。
 体育祭委員に入ったのだって、そうだ。
 決定的な「しまった」で「間違えた」だった。
「ね、紗良。一緒に体育祭委員入ろうよ。お願い!」
 中学に入学してすぐできた友達の彩音は、栗色に染めた髪を持っていた。
 染めているかいないかぎりぎりわからないってレベルのその自然なかんじが、私にはとても格好よく見えたし、厳しいことで有名な生徒指導の安西先生に「本当に地毛なんだろうな?」と凄まれたってどこ吹く風で「はい、ほんとーに地毛です」と言ってのけちゃう度胸があるところも、素敵だった。
 だから、入学式が終わってそれぞれの教室に戻ったあの時、後ろの席からつんつんと背中を叩かれて、「ね、どこ小出身? あたし西小。仲良くしてね~」と言われた時は、胸がぎゅっとなるくらい嬉しかったものだ。
 彩音には、雪音ちゃんという小学校時代からの仲の良い友達がいた。
  雪音ちゃんは名前の通り、雪のように白い肌とくりくりした大きな瞳を持った愛らしい女の子だ。彩音と雪音ちゃん。姉妹みたいに揃ったこの名前と、そしてやはり揃ってとても可愛らしい顔立ちをしていたことから、二人は校内でちょっとした有名人だった。
 三人で歩いていても、周囲の人は二人にだけ声をかけてきた。「彩音に雪音。やっほ~」「相変わらず仲良いね」「双子の姉妹みたい」なんていう風に。なにより辛かったのが、そうやって声をかけてくる人たちは皆、悪意を持って私を無視しているわけではない、ということだ。
 みんな、私のことなどまるで眼中になかったのだ。
 けれど、二人と一緒にいると、自分も物語の中心人物になれたような気持になれて、私はそれだけで嬉しかった。
 もういつの日かおままごとをした時みたいに、必死で皆の輪に入ろうとして空滑りをしなくたっていい。私は今、脇役なんかじゃなくて、クラスの中心人物なのだ。きらきらしていて、皆の方が私たちの輪に入りたいと思うような、そんな立ち位置にいる人物なのだ。
 そんな折で、彩音に「同じ委員会に入ろう」と頼まれて、断る理由なんて全くなかった。
 面倒臭がり屋の彩音が自分から委員に入るなんて、と最初は不思議に思ったが、どうやら体育祭委員に好きな先輩が入るらしく、お近づきになりたいらしい。そんな理由一つをとっても、いかにも青春っぽくて胸が躍った。
「うん、いいよ。一緒入ろ」
「やったぁ~っ! 紗良、マジラブ! 愛してる!」
 大げさなくらい大きな声で、彩音が言う。クラスメートの何人かが、ちら、とこちらを見る。周囲の視線を集めている、ということに、私はふふんと誇らしくなる。
 するとその時、不意に雪音ちゃんと目が合った。その視線がとても冷ややかだったので、私はドキッとしてしまった。
 私は雪音ちゃんが苦手だ。
 いつも一歩引いたところからこちらを俯瞰して見てるってかんじがして、なんとなく後ろめたいような気持になるから。みんなは雪音ちゃんを「小動物みたい」とか「守ってあげたくなる」とか言うけれど、私はむしろ、彼女のことが氷の王女様のように思えるときがある。
 それに、雪音ちゃんさえいなかったら、私が彩音と二人で仲良しコンビになれたかもしれないのに……と、そんな風にも思ってしまう。
 三人で歩いている時、二人の会話に必死でついていこうとしたり、いないものみたいに扱われて傷ついたりすることだって、なかったかもしれないのに。周囲から一目置かれるきらきらした存在に、今なんかよりもっと、なれたかもしれないのに。
 なんて考えていると、雪音ちゃんが不意に口を開いた。
 それはとても冷たく、軽蔑するような声だった。
「――ほんと、便利屋だよね」
 私は一瞬、自分が何を言われているのかよくわからなくて、ぽかんとしてしまった。
 けれどすぐに彩音が、「ちょっと、雪音~! それ本人に言う~!?」と笑いだしたことにより、今のは自分がそう言われたのだと言うことと、この二人が陰で自分をそんな風に言っていたのだということを理解した。
「紗良、マジごめんね~。うちらべつに、悪気があるわけじゃないから。ただ、紗良ってうちらのお願いなんでも聞いてくれるよねって話しててさ。ね、雪音」
「あーね」
「おい、雑かよ」
 あはは、とまた笑い声。私は、自分の顔にボッと火が付いたみたいに熱くなるのを、確かに感じた。恥ずかしくて消えてしまいたかった。けれどそんなことはできなくて、「ちょ、ちょっと。酷いんですけど~」と、明らかに動揺しているのがまるわかりな、間抜けな言葉を絞り出すことしかできなかった。
 二人が、私のいないところで、私の話を……。その場のことを想像すると、不安が胸に満ちて泣きだしてしまいそうになった。他には? 他にはどんな話をしたの? うざいとかきもいとか、悪口を言ったりは? 聞きたかったけれど、聞く勇気は私にはなかった。
 
 それから数日して行われた、委員のはじめての集まり。
 そこで私は、どうして彩音が雪音ちゃんじゃなく私を委員に誘ったのかを思い知った。
 彩音と彩音の憧れの先輩は、傍目にもわかるほど良いかんじだった。いつになくしおらしい態度で先輩に擦り寄る彩音と、擦り寄られていかにも気分良さそうにする先輩。
 私はそんな二人を横目に、たった一歳しか違わないというのに、「先輩」なんて呼ばなきゃいけないって、なんかバカみたいだな……とか考えていた。各クラスに配られたプリントの山を眺めながら。そんな矢先、彩音が私にこう言った。
「あのさ、紗良ってこのあと、用事ある?」
 え、と思った。
 彩音の背後では、彩音の意中の先輩とその友達であろう男子生徒が、ちら、とこちらを見ている。二人は前髪だけをちょっと伸ばした爽やかな短髪に、すっと通った目鼻立ちをしていて、良く見るとすごくかっこよかった。
 さっきまでバカみたいだと思っていたというのに、彩音に誘われて私はその時、信じられないくらいどきどきした。彩音と、この二人の先輩たちと、少女漫画みたいにダブルデートとかして、それぞれがいいかんじになっちゃったりして、それで、校内でも有名な仲良し四人組になったりして……。
「う、ううん。何もないよ。なんで? みんなで、どっか行く?」
 ――前のめりで、あんな風に聞いたりしなければよかった。
 私の言葉に、彩音は「え」と言った後表情を固め、心底気まずそうにしながらも、「あ~……じゃあ、紗良も行く? あ、でも、プリントが、」と言った。その煮え切らない態度に、流石の私でも察しがついた。
「彩音、遅い! まだあ?」
 どこからか、雪音ちゃんの声が聞こえてきて、そこで全てを理解する。と、同時に、顔が熱くなる。条件反射みたいに、鼻がツンとなる。恥ずかしい。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
「あ……あ~っ! そういうことね、はいはい、わかった!」
 だから私は、努めて明るい声を出し、全然気にしていませんよ、むしろあなたたちの関係を面白がる余裕がありますよ、みたいな顔を作って、四人に言った。大きな声を出した私を先輩二人が「うお、びっくりした」「声でか」とくすくす笑い、それがいかにも嘲るような笑い方だったので、私はいよいよ涙が出てしまいそうになった。
「い、いいよいいよ。こっちはやっておくから、楽しんできてっ」
「……マジ? いいの?」
「いいって! ほら、行った行った! そのかわり、明日話聞かせてよね~っ」
 ぐいぐいと背中を押すと、彩音は「あ、ありがと」と戸惑ったように言い、雪音ちゃんは私のことなんて見えてないみたいに「ほら、行くよ」と彩音の手を引いて歩き出す。男子の先輩二人は若干気まずそうにしながら、しかし私にごめんもありがとうも言うことなく、その場を去っていった。
 私は。
 私は、皆がいなくなった教室で、本来なら四人がかりでやるプリントの山を前に蹲り、
「…………あぁああああ」
 と。膝に向って自分の声を押し付けた。すっぱいような汗のにおいがして、そこでようやくほろりと涙がこぼれた。
 しかし、委員が招集されていた部屋は三年生の教室だったこともあり、泣いてばかりもいられない。なんとかしてプリントを自分の教室へ運ぶ。それから、机を四つくっつけて作業スペースを確保し、ため息をついてから作業に取り掛かった。紙の束をホチキスで留めてゆく。ただそれだけの単純作業が、しかしかえって私を考え事の渦へといざなった。
 
 ……今頃あの四人、どんな話してるんだろう。
 がしょん。
 私のこと、何か言ってるかな。いや、きっと言ってる。
 がしょん。
 きっと、変な奴、きもいってバカにしてる。
 がしょん。
 ものまねなんかも、されてたりして。
 がしょん。
 ……あの時私、どうしてどっか行く? なんて言っちゃったんだろう。
 がしょん。
 期待してるって思われた。ばかみたい。本当に、ばかみたい。
 がしょん。
 ――死んじゃいたい。

「――なんでこんなの、一人でやってんの?」 

 意地悪さのかけらも感じられない紺のその声が、その表情が、私には本当にものすごくきれいなものに感じられた。紺のことをきれいだ、なんて思っている自分がいることに驚いたし、不思議だった。それでもやっぱり、その時の紺は私には光り輝いて見えた。
「なんか、委員の仕事でさ」
 情けなく震えた声で言う。紺が寄ってきて、作業を手伝ってくれる。二人して、ただ静かにプリントの束を片付けてゆく。
「紺」
「ん」
「……ありがと」
「ん」
「紺」
「ん」
「……こんな時間まで、なにしてたの?」
 私が訊くと、紺はパッと顔を上げた。あの先輩たちみたいにきれいに切りそろえられているわけでもない、ぼさぼさ頭。細い目。低い鼻。丸くて大きな眼鏡。
「図書室の、リユース市に行ってた」
「は? ……なにそれ」
「近隣の図書館がたまに、いらなくなった本をうちの図書室に寄贈してくれるんだ。で、その本たちは、生徒が自由に持って帰っていいことになっててさ」
「……へえ」
「星の本をもらったんだ」
「そう」
「あと、海の本も」
「うん」
「それから、花の本」
「そっか」
 紺と話していると、確かに傷ついて痛んでいた心がどんどんと癒されてゆくようだった。すう、と息を吐いて顔を上げ、窓の外を見る。するとそこには、とんでもないくらいに濃い光を放つ夕陽があった。

 それは幻のような景色だった。

 そしてそれを目にした途端、すとん、と何かが自分の中に落ちてきた気がした。
 みんなが、呆れながらも、バカみたいって言いながらも、紺を好きになる理由。
 紺は、確かにかっこよくないけど、運動も勉強もできないし、空気だって読めないけど、でも、誰かにいじわるなことをしたりは絶対にしないのだ。優しい、というのとはまた少し違う。誰かを傷つけるということを、それが意識的にでも、無意識的にでも、絶対にしない。だからみんな、紺の傍にいるとほっとするのだろう。
 そんな紺の、深爪しているんじゃないかってくらい短く切られた爪の先を見ていたら、私は急に、入学してから今日に至るまでの自分の行いがバカらしく思えてきた。騒がしくて楽しそうな二人に、無理して擦り寄ったこと。周囲の人たちを下に見ていたこと。その結果空滑りして、こんな結果になったこと。
「……あーあぁ。私、中一にして躓いちゃった。どうすればいい?」
「躓くって、何に?」
「人生に」
「あはは」
「……笑うなよぉ~っ」
 言いながら、私もちょっと笑うことができた。夕日に照らされて光るプリントたちは、後半のスピードアップのおかげかなんだかんだでもうすっかりすべて片付いた。
 私はちょっと迷ってから、角もよれよれ、ずれまくりのものたちを(つまり紺が処理したものたちを)集めてひとまとめにし、二年生の教室へ持っていくことにした。改めて見てもかなりひどい。きっと先輩たちは明日、クラスメートたちから「なにこれ、きたな!」「ちゃんと仕事しろよ」とやじられることだろう。そして、まさか後輩の女子に押し付けた結果こうなったなんて言うことができるはずもなく、その非難を受け止めることになるだろう。そう想像すると、悪いと思いつつもふふ、と笑みが漏れる。ふふ、ふふふ。
「……よしっ」

 私は、気合を入れるように息を大きく吐き、いつもより少し大股で、夕暮れに輝く廊下へと一歩を踏み出した。

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