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アイドルのみぞ知る①

 ぼくのアイドル

 ぼくのめがねのレンズの向こう。ぼくのアイドルが見える。
 ぼくのアイドルは少し背伸びしながら黒板を消している。ぼくはアイドルの背中を見つめる。やわらかそうな長い髪。黒板消しをパンパンしてチョークの粉が舞い、アイドルが顔をしかめる。
 ぼくのアイドルは黒木陽菜。中学一年の秋に転校してきた。意識するより先に、気づけばぼくは黒木陽菜をいつも見ていた。

 美術部の黒木陽菜が四角い小さなバケツにパレットや絵の具や筆を入れて、廊下を歩いていく。ぼくは書道部だけど、月曜と水曜と金曜と土曜は「そろばん教室があるから」と言って帰るので幽霊部員だ。
 廊下に差し込む西日が黒木陽菜をキラキラとオレンジ色に包む。
 もしも、できるならば、黒木陽菜のあのつれない肩をポンっとして「これから部活?ぼくはそろばんなんだ」とか何とか話しかけたい。でも現実はただ歩いて行く後ろ姿を見送るだけだ。
 黒木陽菜と会話らしきものをしたことが一度だけある。
 プラネタリウム見学のとき。暗がりで椅子の脚につまずきつんのめりそうになったぼくの制服を黒木陽菜が意外な力強さでクっと引っぱってくれた。さらに「後藤君、転ばないでよー」と言って、ふわっと笑った。ぼくは、すこぶる早口で「暗くてっ」と返すのが精一杯だった。
 その日は一日中、幸福感で浮かれた。黒木陽菜がぼくの名を知っていたという事実。とっさに制服を引っぱって助けてくれたという事実。それらと、あのふわっと笑った顔を思い返しては、じーんっと感激し、心臓ら辺がドキドキした。助けられたのは情けないが、あの時の幸福感は少しも色褪せぬまま、ぼくの記憶に存在している。きっと黒木陽菜は、とうに忘れているだろう。
 ぼくのアイドルはキラキラとオレンジ色に包まれて、ぼくに気づくことなく、美術室へと廊下の角を曲がって行った。

 そろばん教室は、そろばんの音がする。ザンっサーーっとそろばんをゼロにする音。パシパシパシパシそろばんを弾く音。
 小学校へ入学した頃から通い始め、一日も休んだことがない。今では月曜と水曜と金曜と土曜はそろばん教室へ行くのが当たり前の日常になっている。八年そろばんを弾き続けているのに、ぼくはそろばんが下手だ。カナシイような気もするが、さほどカナシクナイような気もする。ぼくはそろばんの音が好きなのだ。
 そろばん教室の帰り道は『パン屋大福』へ行く。これもかれこれ八年続くぼくの日常で、ぼくは立派な常連客だと思う。
 『パン屋大福』の店内には、店の名の通り、大福のようなパンがズラーっと並んでいる。みんな同じ大福の形。でも、チョコレートパンやクリームパンやつぶあんぱんやこしあんぱんやカマンベールチーズパンや苺ジャムパンやマーマレードパンや色んな味のパンがある。
 パン屋の主人は男の人で、ときどき大福の形のパンからチョコレートやつぶあんがちょっこし出てしぼんでしまったパンをぼくにくれる。白くて長いエプロンをしていて、いつも焼きたてパンの匂いがする。
 ぼくはホワイトチョコレートの入った大福のパンをほおばりながら、夜色が濃くなる道を家へと帰るのだ。

 ぼくのアイドルがあごに小さなばんそうこうをして登校してきた。
 一体どうしたのだろう。気になる。気になるが、きけない。授業中、そろっと見ると、黒木陽菜は小さなばんそうこうを指先で触っては、ウっと渋い顔をしていた。なんだか、ぼくのあごも痛い。
 それから三日間、黒木陽菜は小さなばんそうこうをして登校した。四日目に小さなばんそうこうははがされた。黒木陽菜のあごは小さなばんそうこうの形に赤くただれていた。

 木曜日。そろばん教室が休みなので書道部へ行った。
 すずりに水を入れてスリリスリリと墨を作る。墨がずんずん深い色になるのがおもしろい。
 半紙に『黒い太陽』と書いた。『黒』と『陽』の字がやたらでかい。
 例えば、黒木陽菜がくしゃみをする。その「くしゅん」がぼくには特別に聞こえる。黒木陽菜に関する全部がぼくには特別だ。
 彼女はぼくのアイドルだから。

 ぼくのアイドルが前髪を作った。後ろ髪と同じくらい長かった前髪がまゆげの辺りで真っすぐ切ってある。キリリとしたおでこが隠れてしまった。黒木陽菜が少し幼く見える。なんて、可愛いんだ。大声で叫びたい。
 教室に風が吹いて、黒木陽菜の前髪をふわりと触った。

 冬の朝。夢うつつ目が覚めた。
 授業中の夢を見ていた。担任の前田が妙に感情をたっぷり込めて『源氏物語』を音読していて、ぼくは現実と同じように、黒木陽菜をただ見つめていた。
 ぼくの夢なんだし、大胆に話しかければいいのに。夢の世界でも、黒木陽菜はぼくのアイドルで、めがねのレンズの向こうの存在だった。
 湯たんぽがぬるま湯になっていて、そろそろ起きる時間だと知らせていた。

 空気は透明な色だけど、冬の空気は真っ白な気がする。特に登校時間はシンシンと白い。
 マフラーに顔半分埋めたまま学校に到着した。上履きに履き替える指先の感覚がない。
 授業始まりのチャイムが鳴るまで、教室の後ろにあるストーブで身体を温めた。カチコチだった手の指も足の指もほぐれていく。じんわりじんわり。ぬっくりぬっくり。ぼくは目を閉じた。
 なんだか、眠りそう。と思ったとき
「後藤君のめがね真っ白」
 サックリそう言う黒木陽菜の声が聞こえた。
 とたんに目を開けると、白く曇ったレンズの向こうにぼくのアイドルが見えた。フフフっと笑っている。
 ぼくの身体がホクホク熱くなった。
 黒木陽菜は低い音でフフフっと笑う。すごく、いい。
 ぼくは、そのめったにない一瞬にいた。
 あっ。シアワセだ。そう思った。
 そろばん教室の帰り道『パン屋大福』のきなこクリームパンをほおばりながら空を見上げた。
 群青色の夜空にレモン色の月がキラキラキラキラしていた。
 ぼくは黒木陽菜を想った。
 ぼくのアイドルを想った。
 黒木陽菜もレモン色の月の下のどこかで呼吸しているのだと思うと、ぼくはなんだか、うれしかった。


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