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vol.5 すき焼きとフードペアリング理論

美味しさを追求するための科学的アプローチとして、AIの普及によって実践的な発展をみせているフードペアリング理論というものがある。

美味しさは食材の組み合わせによって引き出されるというもので、食材の味や香りの類似性や対称性などで食材を組み合わせることでこれまでに食べたことのない新しい風味を発見することが出来るという理論らしい。

ある論文によると、この食材の組み合わせというのは食べる順番が大切とのことだ。混ぜ合わせて食べるのではなく個別に舌に感じる風味の順序によって味の感じ方を変化させる、つまり味の認識における時間的順序に重要性があるというわけだ。

わかりやすい例として、歯磨きをしたあとにオレンジジュースを飲むと苦味を強く感じるらしい。これは舌にある甘みを受け取る部分を歯磨き粉に含まれるラウリル硫酸ナトリウムなる成分が遮断することで苦味しか感じられなくなるからだ。他の面白い例として、それほど馴染みはないがアーティチョークを食べたあとでは水が甘く感じるらしい。

上の例だけ聞くと実験的な感じがして美味しい料理とは縁遠い感じがするがこの理論を実践している料理が多く誕生していて、その中でも味覚の順番をうまくコントロールしているなと思ったのは、スプーンの一匙の中に料理のすべてを盛り付ける料理技法だ。これは大皿料理をスプーン一口分というわけではなく、フルコース料理をスプーン一匙におさめるなんとも不思議な料理なのである。

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スイスのとあるレストランで出されるスプーン料理は、最初はワサビの辛味が口にあたり、次はマグロの柔らかい食感、そして最後にホワイトチョコレートのゆっくりとしたとろける食感が口の中に広がるという。

ひとくちで食べるとしても辛味とマグロとチョコレートの味が同時に口に広がったらマズイに違いないがこのスプーン料理は時間経過とともに風味を変化させているのであろう。

この時間経過による風味の変化を可能にしているのが分子ガストロノミーと呼ばれる料理技法だ。食材をカプセルに封入したり、液体窒素で瞬間冷却してキューブにしたり、泡状にして提供したりすることで知られているが、これら特殊な提供方法が食材が口中で味を感じさせるアプローチに幅を生み、それが時間経過による風味の変化を可能にしているのだろう。

またスプーンという限定的な食べ方しか出来ない道具を使うことで、まずどの食材が舌に触れ、さらに咀嚼することで次の味が展開されるといった緻密な食事客の味覚の制御が可能になっているように思う。

分子ガストロノミーの研究分野では味覚体験の正確なコントロールが重要だと言われている。とはいえ、すべての料理をスプーンで提供するのは味気ない。しかしお皿にのった食材をどの順番で食べるかは食事客に委ねられているので一般的な料理ではフードペアリング理論が使えないではないか。

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しかし、すき焼きはどうだろう。ここでいうすき焼きはフルサーブをしてくれるすき焼き屋を想定した話になるが、はじめから最後まですべて仲居さんが食材をお皿に取り分けてくれるこの状況は、味覚体験の正確なコントロールが出来ているのではないか。

またフードペアリング理論では味覚体験において嗅覚が与える影響が大きいことを科学的に証明しており、すき焼きのように目の前で調理することで時間経過に沿った香りが楽しめる提供形式はフードペアリングを実験するのに最適なプラットフォームと言えるだろう。

出張などで海外に行った際に現地にすき焼きを提供する店があればできる限りチャレンジするようにしてきたが、その大半がすき焼きとはいえないオリジナルフュージョン料理ばかりだった。要因として考えられるのはそもそもすき焼きを知らないことが大きいが、それ以外にも現地の食材での再現が難しいのもあるだろう。

また東欧へしばらく住んでいた際に持参した鉄鍋ですき焼きを試みたことがあるが驚いたことに豆腐や白滝も容易に手に入ったのだが、むしろ牛肉やネギの風味が日本のものと大きく違っていて、普段の調味料配分では見た目はすき焼きでも味はほとんど違う料理になってしまった。

フードペアリング理論を応用することで、例えばすき焼きの中でのネギの位置づけを数値的に分析し、現地でその数値に近い食材を選択することですき焼きのバランスを再現出来るのではないだろうか。もしこの考えが正しければ、世界のあらゆる国でその国の食材を使って、日本の老舗すき焼き屋のように完成した味が楽しめるようになるだろう。


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