【ゴッホと静物画〜伝統から革新へ〜】inSOMPO美術館レポート
直向きに絵画に向き合ったゴッホの探求を追う美術展
東京・新宿のSOMPO美術館にて、開催(2023年10月17日〜2024年1月21日)している「ゴッホと静物画〜伝統から革新へ〜」展にようやく見に行くことができました。
日本では、モネやルノワールと並んで人気の印象派時代の画家であるフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ。(実はファン・ゴッホまでが名字らしいです)
今回の美術展は、「静物画」を主題に、ゴッホの絵画の変化や他画家の作品と比較してゴッホの特徴を味わえる美術展です。
私はゴッホが好きなので、とても楽しめました!本記事ではゴッホの人生に迫りながら本展を振り返ります。
このnoteを読むと下記が分かります。
目次は下記です。
そもそもゴッホってどんな人?
ゴッホはセンセーショナルなエピソードが多い画家です。
銃で自殺したという説や、自分の耳の下部を剃刀で切り落としたエピソードが有名ですね。一方で、どんな人生を歩んでいたのか知らない方も多いのではないでしょうか。まずはゴッホの画家になるまでの半生をまとめました。
27歳、画家として生きると決めるまで
1853年オランダにて。牧師(当時の一級職業)を輩出するエリート一家の長男としてゴッホは生まれます。ある日、ゴッホは、「自分が生まれる1年前の日付で、同じ名前が刻まれている墓石があること」を知ります。実はゴッホが生まれる1年前の同じ日に彼の兄が生まれて、すぐに亡くなっていたのです。
彼は、兄の名前が同名である事から 「私は兄の代わりなのか?私の存在意義は何か?」と悩んだそうです。また、子供の頃から癇癪持ちで怒りっぽく、親や家政婦にも問題児扱いされていました。
16歳で叔父が経営していたグーピル商会で、画商の仕事につきます。しかし、対人関係のトラブルや娼館通いの習慣のために、ハーグ支店を追い出され、ロンドン支店を経て、パリ本店に異動になります。しかし、そこでも無断欠勤や仕事放棄をしてしまい、23歳で解雇されます。(弟のテオも後に同じ商会に入りますが、彼は順当に活躍します)
職を失ったゴッホは、教師や書店店員を経験し、「貧乏な人たちの助けになりたい」と考え、貧民街で牧師の手伝いを始め、1877年の24歳のときに、聖職者になるため神学部の勉強をします。しかし、その難しさに挫折します。その後も諦めきれずに伝道師を目指し、一時期は伝道師の仮免許と給与をもらって活動できましたが、貧困街の住民と同じような見すぼらしい身なりで生活を続けるゴッホに対して伝道委員会は「常軌を逸した自罰的行動は伝道師の威厳を損なうものだ」とし、伝道師の仮免許をゴッホから剥奪します。
再び無職となった26歳のゴッホは、別の伝道師と共に鉱夫の家(ベルギーのクウェム)に住み、両親から支援を受けてデッサンを続けます。この状態を両親から「ニート状態」と認定され非難されます。
1880年、27歳のゴッホは絶望し、無銭状態で北フランスに放浪の旅に出ます。ようやく実家に戻ってきたときに、異常行動を問題視した父親に精神病院に入れられそうになり、再びクェエムの家に行きます。その頃からずっと文通をしていた弟テオがゴッホの生活費の援助をして、「画家になったらどうか」と薦め、ゴッホは画家を志します。
ここまで見ると、「ゴッホ≒社会不適合者」な印象が強いですね。しかし、貧民街での活動を見ていると「世に貢献したい」と思うゴッホの志はまともで純粋さを感じますし、彼の迷える姿は現代においては多くの人の共感を呼ぶのではないでしょうか。対人関係が苦手で感情もうまくコントロールできなかったゴッホ。
画商として満足に働くことができず、進学も挫折し、夢への道を閉ざされるところから画家としての人生は始まったといえます。
この可能性が閉ざされたという経験が、精神的にタフでない彼に「画家としての可能性を信じ続けること」への直向きさをもたらしたのかもしれません。
画家としてのゴッホの人生
ゴッホの画家としての人生は37歳で逝去するまでの10年間です。
この10年で彼は2,000の作品(油彩画860点、水彩画150点、素描1030点)を描きました。この油彩画860点のうち、190点が静物画です。
10年=3650日なので、油彩画だけでも4日に1枚書いている計算。彼がいかに絵画にのめり込んでいたのかが分かりますね。
「ゴッホと静物画」展の展示作品
今回のSOMPO美術館の展示では、エリアが3つに別れていて、「伝統」「花の静物画」「革新」と銘打っていました。画風や描く対象物で区切っていて、それはそれで比較しながら観ていくと味わい深いんですが、この記事ではあえて、時系列で記載していきます。
展示会に近い形で作品を見比べて振り返りたい方は Le yuseeさんの記事がわかりやすいです。
ハーグ期:1881年11月〜1886年2月
1881年、義理の従兄弟のアントン・マウフェから絵画を学ぶため、ゴッホはハーグ(オランダの都市)に滞在しました。オランダのハーグでこの頃描いていた画家たちをハーグ派と呼称し、「見たものの”印象”をそのまま書く」という特徴を持っています。ざっくりした傾向で言うと、全体的にやや薄暗い風景画などが多く描かれています。
アントン・マウフェはゴッホの基礎を作った師匠と言える存在でした。
しかし、ハーグ派の師であるアントン・マウフェと次第に意見が合わなくなったゴッホは、1883年〜1886年まで各地を転遷したり実家に一時帰省するなどして過ごします。
絵画の技術もハーグ派に限らず、様々な知見を吸収し、模索の時期が続きます。
パリ期:1886年3月〜1888年2月
依然、生活に困窮していたゴッホはふらっと弟のテオを頼ってパリへと移住しました。当時のパリは、モネやルノワールなどの旧印象派ではなく、新印象派が流行っており、ゴッホはそれらの絵画に出会います。これによって色彩と筆致が大胆なものに変化します。筆触分割や点描など印象派の技法を取り入れ、試行錯誤を重ねます。
またこの頃に日本の浮世絵を出会い、収集や模写を行っています。
本展とは関係ありませんが、このパリにいる時期にゴッホは、オランダ時代には描かなかった自画像を描き始めています。
推測ですが、「新しい自分のスタイルを確立しないとやばい!」と考えたのではないでしょうか。印象派のスターであるモネは南仏の海岸を歩き回り、ゴーギャンも東フランスのブルゴーニュを開拓していた。ゴッホも「パリ以外」に活路を求める必要性を感じ、新しい境地を模索する中で自画像を描いたのかもしれません。
このあたりから一気に画風が私好みになります。笑
アルル期:1888年3月〜1889年4月
都会になじまない田舎出身のゴッホは自分のスタイルの模索や都会から脱却するため、南フランスのアルルへと移住します。
またこの頃、弟テオの紹介で出会ったゴーギャンと「共同生活をしよう」とゴッホが持ちかけており、ようやく共同生活が叶おうとする頃、ゴーギャンを迎えるために、ひまわりの絵で部屋を飾ることを考えて、ひまわりの制作に着手しました。
この1888年にフランス南部のアルルに滞在しているころに、ゴッホの代表的な絵画で見られる鮮やかな作風に変化します。
一方で、2ヶ月の共同生活の中で互いに二人の関係性が悪化します。それぞれが強い個性を持ち、全く異なる制作習慣を持つ2人はそりが全く合わず、互いが互いをなじるような関係性に。ゴッホの絵の耳の形をゴーギャンが皮肉ったことがきっかけで口論になり、ゴッホは耳の下部を剃刀で切ってしまいます。
しかも、その耳を娼婦に「この品を大事にとっておいてくれ」と渡したこともあり、ゴッホは近隣の住民から異常者として忌避されるようになります。
サン=レミ・ド・プロヴァンス期:1889年5月〜1890年5月
1889年2月に近隣の住民30名から「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」と市長に請願書が提出されてしまいます。これをうけて、アルルの精神病院に強制入院し、1ヶ月間独房に閉じ込められたりします。その後、退院できることになりましたが、1人で生活することに不安を覚えたゴッホは、アルルから20km北東のサン=レミにある修道院の療養所に入所します。
異常行動を取っているゴッホを忌避する住民の気持ちはわかりますが、彼の人生はいつも人に非難されていて、めっちゃきついですね。
ちなみに、この頃からさらに独自の画風で、数々の名作――《アイリス》《星月夜》《二本の糸杉》《花咲くアーモンドの木の枝》《糸杉と星の見える道》を描きあげています。
オーヴェル・シュル・オワーズ期:1890年5~7月
体調が回復したゴッホは、美術愛好家でもあるガシェ医師を印象派画家のピサロに紹介され、オーヴェル・シュルの農村に移り、療養生活を送ることになります。
ここでは穏やかな日々を送るものの7月27日に自身の胸を銃で撃ち、自殺を図ったとされています。その後、2日後に逝去。短い生涯を閉じました。
彼の生涯について詳しく知りたい方は下記も御覧ください
その他の作品
最後に、私のお気に入り3作品の紹介。
美術展に行ったら必ず行う「最も気に入った絵画はどれか?」シリーズ。
今回は3作品を厳選しました。
1つ目、《皿とタマネギのある静物》
絵画の雰囲気がとても穏やかでゴッホらしくて好きです。好きなものを卓上に集めて、自分らしい筆致で描く彼の絵画に胸を打たれました。そのストーリーを知らずとも心に迫ってくる温かさがあります。
2つ目、《ひまわり》。
ロンドン・ナショナル・ギャラリーの「ひまわり」ほどの衝撃はありませんでしたが、やはり圧倒的な存在感です。机から瓶の描き方と花の描き方のコントラストが素晴らしく、まさに「ゴッホの絵」と言うにふさわしい絵です。ひまわりの持つ生命力を「黄色づくし」でここまで表現できているのは本当に素晴らしいと思います。
「皿とタマネギのある静物」と全く同時期に描かれているのは偶然でしょうか。
3つ目、《野牡丹とばらのある静物》
3つ目は正直かなり迷いました。あえて、この作品を選びます。最初は、正直「ゴッホなのか?」と思いましたが、牡丹と薔薇の存在感と色のコントラストが素晴らしく。惹きつけられました。マネや他の画家の花瓶の絵も大変すばらしいんですが、ゴッホがパリ移住までに描き続けた薄暗い絵の要素と、パリで研鑽した大胆な色使いと筆致の融合が見られ、才能が開花する直前のゴッホの躍動を感じます。
例によって今回も長くなりましたが通読いただいてありがとうございました。ではまた。
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