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母のいない母の日に思うこと

今日は母の日だ。母を亡くして以来、母の日にはいつも、なんだか手持ち無沙汰な気持ちになる。遺影に花を添えればいいのだろうとはわかっていながら、そうすることもなく、1日が終わってしまった。

今日は母の日でもあり、連休モードの最終日でもある。
いや私にとってはこの日々は溜め込んでいる宿題を進める期間でもあったのだが、容赦無く時間は過ぎ、とにかく10日間出勤しない日々が終わり、明日からまた出勤が始まろうとしている。休日というのはえてしてこういうものなのだろう。私の連休最終日は、大好きなhuluドラマ『住住』の最新回がとても面白かったし、はんこ日記も彫れたから、なかなかよかったなと思うことにする。

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さて、実は急用があり、GW前半に少しだけ東京を訪れた。細心の注意を払いながらの帰京となり、実質は東京の実家にほとんど引きこもっており、岩手に戻ってからも数日間の軟禁を自分に課すことになったけれど。岩手・紫波町に移住してはじめての帰京だった。

東京に降り立った感想

いやーー本当に空気が汚いね!!!
人がゴミゴミして落ち着かない!!

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…みたいな感想を抱くことはまったくなかった。

東京駅のホームへ降り立ち、馴染みある高円寺駅に戻っても、そこには私が長年親しんだ東京があるだけで、懐かしさも嫌悪もなく、すっと体に馴染んだ。あまりに普通すぎて拍子抜けするくらい。東京駅のホームに降り立った瞬間の感想はといえば、「東京、あったけぇ〜!」だった。まあ2ヶ月なんてそんなもんか。

数ヶ月ぶりに戻った実家、今は弟が暮らすその家で、私の部屋もかわらず私の部屋だった。かつて母の寝室でもあった和室は、引越し前に断捨離大会を行ったおかげで、以前よりも物が減って日当たりもよく風通しもよく感じた。滞在中は、その部屋で寝泊まりした。

       ◇        ◇        ◇

私の人生において、「岩手県に移住した」という事実以上に、実は「長年暮らした実家を出た」ことが大きかったなとつくづく思う。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人、その後一人暮らしをしてまた戻ってきて。ゆうに20年以上は暮らしてきたこの家にはあまりにも色々な感情がありすぎた。家族で暮らし続けた家。父と母が元気だった頃、大人になっても心配され続ける情けない娘として出入りしていた、その思い出が染み付いた家。

ここ数年、母を思い出すときはどうしても哀愁を引き連れてきてしまっていた。切ない気持ちと細かい後悔がミキシングされて、自分の行動にいつもついて回る感覚。時間が経つにつれその感傷の度合いは少なくなっていたけれど、どうしたって「母がいない」という事実はいつも唐突に私に押し寄せてきて、泣くほどでもない小さな悲しさがいつも背中につきまとっている感覚があった。

必ずしも悪い意味ではないのだけれど、母がいたという象徴そのものであった、あの家にいるだけで、私はなんだかいつも寂しかった。父が施設に入所した後の数ヶ月は一人で暮らしていたが、コロナ禍の事情が重なり昨年は弟と一緒にそこに暮らすことになった。お互いの生活の事情は常に変化するし、この家でまたひとりになったら、私は押しつぶされてしまいそうだとも確信していたからこその移住だった。私にとっての岩手行きは、そんな意味を持っていた。

岩手よりも温暖な気候が手伝ってか、以前この家で感じていた重苦しさは、今は感じなかった。それは、もしかしたらこの先一生この家や、感傷とともにいるのかもしれないという、あの時の自分の思い込み、呪縛から解き放たれたからかもしれない。

東京の滞在は、本当にあっという間だった。外出も極限まで減らしつつ、施設に入所中の父には貴重な30分という面会時間も確保できた。
(その貴重さをわかっていない父は、その30分の中でもうたた寝しそうだったので、私は起こすのに必死だった)

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そして弟や大切な人たちに誕生日まで祝ってもらうことができて、本当にありがたく、あっという間に時間は過ぎた。

そして紫波町へ帰る

今の私にとっての「復路」は、東京を離れる新幹線。東京を離れるにつれ、窓の外の長めに緑が増え、山が見えるようになり、田んぼには水がはられているのが見えた。ああ、都会から離れていく。

新幹線に乗る前の自分って、どうしてあんなに自分に期待してしまうのだろう。あの本を読もうと分厚い本を持ちながら、駅で思いつきで買ってしまった本も詰め込み、途中で何かを書きたくなるかもしれないとノートPCも持ち込み、どえらい荷物を抱えながら、結局寝る。電車で寝るのが、昔から大好きだ。

目を開いたら、妙に都会だ…!と思ったら仙台あたり。仙台を過ぎるとまた密集が途切れ、山と田園風景が出てきて、もう少し行けば盛岡。私は今、ここに「帰ろう」としているのだ。

東京の友達にLINEをしながら、「岩手に帰るね」と宣言する私はまだぎこちない。
だけど私はまた、この東根山のお膝元、紫波町に帰ってきた。

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母と私の距離感について

つくづく、母が今でも健在なら、私が今岩手にいることはなかったなと思う。父の介護に追われ続ける母を横目に東京を離れることなど、私にはきっとできなかった。

便利な暮らしをしつつも、自然がすぐそばにあるこの素晴らしい環境を、母が元気だったら連れてきて見せたかった。だけど暮らすことは現実的ではなかっただろうなと思うと、今でも不思議でしょうがない気持ちになる。

母を亡くした後、東京に足場を置いた状態で旅をしていたとき、美しい風景を見たら、まず母に見せたかったな、と直感で思っていた。
今の暮らしの中では不思議と、いつか父に見せたいなとか、姪や甥、兄家族は、夏頃には遊びに来れるだろうか…という、現実的なスケジュールを含めた願望を持つようになった。
なんの違いなのだろう。別に母が消滅したわけでは決してない。

東京という文脈から離れて、全く違うところにきたいま、母の存在が宙に浮いたのだろうか。
妙に現実的な脳を持っているらしい私は、「どこかで元気にしているのだろう」という空想が、どうしても微妙に描けない。
遠くに暮らしている感覚もあまりないし、どこにいても母が空から見てるよ、みたいな感覚もない。

どちらかというと、母がどこかにいるというよりは、私の中に母が入ってしまったのかもしれない。もしかして同化した?だから今、切なくないのだろうか?
まだこの感覚は整理しきれないのだけれど。

今日は母の日。
母はカーネーションが好きじゃなかったから、違う花を贈りたいなと思うけれど。母の日に間に合うように花を買って来れていない私に、ため息混じりで母は呆れているだろうか。「なんかすんません」と心で思いながら、私は今でも母との距離感を考えている。


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