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【雑文】ずっと、痛くない文を書けない

文章が上手い人に憧れる。でも、「文章が上手くなる方法〇選!」みたいな記事は、嫌い。


もうこの時点で、打っては消して、打っては消してを繰り返しているほど、自分の書く「文章」にコンプレックスを抱えています。


「文章が上手い人」になりたいと思うのは、ごくごく当たり前な事です。だから、人と同じじゃあつまんないなと、ガキの感性を捨てきれずにいる自分の部分にタイピングを任せて、その欲求の根元を、書きながら探してみたいと思います。

最近は、一つの事を考えようとすると、「必要そう」な知識が一気に網目状に広がっていて、うわ、無理だわこれは、表面だけ舐めとるしかない、としり込みすることばかりだと気づきました。

加えて、思考や発言に保険をかけすぎていることもわかってきました。そのせいで、とある原稿を教授にチェックしてもらったとき、「文学的すぎる」と言われました。工学博士が言う「文学的」とか、自分にとっては嘲笑にしか聞こえないので、ムッとしながらもそれなりに落ち込みました。


ひょっとしたら、そういうことを繰り返していくのが大人なのかもしれません。

表現の凹凸をなくして、書く・話すときにはTPOをわきまえまくる。相手の思考のノイズになることは、コミュニケーションを取る上で表に出さない。大学からレポートや論文を書く場面が増えてきて、昔からそれなりに(量を)書けてしまう自分にとっては、専門的な知識や技術が全然蓄積されていないのにもかかわらず、そういうことが出来るようになってしまって、気付いたら大学院に籍を置きつつ、ただぽけっとしている。例の原稿からもちゃっかり逃げているからこそ、これを書いています。


恥ずかしながらほんとうに、中身がからっぽ、です。

だから、叩かれたらものすごい音が出るし、すぐにひびが入ります。そしてすぐ、別の立場に跳んで逃げる。それがきっとなんとなくわかってきたので、たたかないで!のテレパシーを言葉に差し込みながら、しゃべったり書いたりしています。いつも。

特に書くときは、顕著です。というか文章って、表現する人の表情とか声とか環境とか、そういうものからの影響を受けにくいし、読者にいくらでも考える時間を与えてしまうから、良くも悪くもその人の内面が濃縮されちゃいます。だから、よけいテレパシーを盛り込んでしまう。


私の憧れるような文章には、それがない。

客観的に自分を見て、適切な言葉を選んで、過度な保険をかけず、端的に軽快に爽快に書く。ねとねとと書く人もいる。知識がない(ように見える)のに、思いっきり気持ちよく、書いている人もいる。それも憧れる。読んでいて全然、痛くないんです。

仮にその人の言ってることが自分の思想とズレていても、イライラしたり、恥ずかしくなったりしない。言葉を派手に飾ったりしていることもあるし、何が言いたいかわからなくてジュクジュクしていることもあるけど、どちらもまぶしい。
きっと、日々たくさんたくさん考えぬいて、考えることがあたりまえで、推敲して、消して、それでも考えまくって書きまくって、そのうちの多くは世に出さず潰れて、氷山の一角だけなんとか浮上させた…みたいなことを、気が遠くなるほど何度もやっているんだろうなあ、という勝手な妄想が膨らみます。

こういう文章を褒める言葉が、「痛くない」以外見当たらない時点で、私の文章力はお察しなんですけど、それでもずっと憧れてしまう。今回は意識して「痛くない」文章を書こうとしているんですが、もうすでにうまく行っていないように思います。難しすぎるじゃん、なんなの。


そういう、憧れてしまうような文章を書く人が、同世代にも沢山いる。
著名人は洗練されていて当たり前、と思っている節があるのであまり衝撃を受けないんですけど、今年に入って一番印象深かったのが、同学科の友人のnoteでした。バリバリの実験をする研究室にいて、関西出身で、サークルでお笑いをやっていて、大学1年の時に「ピンどめかわいい!」と話しかけてくれた子。話の内容が当時はかなり刺激的で、今でもめちゃくちゃチャラいなー!と思っているんですけど、先月くらいにツイッターでなんとなくその子のツイートを見ていたら、過去にnoteを投稿していたので「え、文章とか書くの!?」と特大失礼な驚きとともにページに飛んでみたのです。


そしたら、もう、衝撃。
文章が超うまい。話の内容、ノリツッコミ、心地いいテンポが相まって、すごくすごくおもしろい。いいないいないいな。特大失礼な驚きから特大嫉妬になりそうだったので、なんとか抑えつつ「いいね」だけして、すぐ閉じました。あんなチャラい子が、こんな最高な文章書いてるって、もう最強でしょ。この文章だけで、彼女の過去を想像してしまう。「学科だと理系しかいないし、それっぽい文章で目立つの余裕!w」という、狭い世界で生きる私の中の、情けなーーーい思い込みが、粉々になりました。ダサさ、ここに極まれり。


そして、身近かつそういう文章を書く人たちを見て更に盛り上がってきた「文章が上手くなる方法〇選!」イヤイヤ期ですが

これ系記事が嫌なわけは、そんな小手先の技術で上手くなったって、味なんて全然出ないだろ!という反発の感情と、そういう文章がもし、記事の提唱する法則に則っていたことが分かってしまったら、自分の目をもう信じられない!という恐れの感情が掛け合わさっているからだろうと思っています。というか、今、思いました。

あとは、そういう文章を求める記事じゃなくて、単純に日常生活において必要な文章力を発信しているものも多いですね。正直なところ、メールだったり論文だったり、作業としていくらでも落とし込めるような文章作成は、情報収集がある程度できる人なら誰でも「上手く」できると思っています。
「~〇選!」アンチをしているけれど、「目上の人へのお礼メール」とか日々せっせと検索して、テンプレもよく使わせてもらっています。だから、まあ日常生活でそういう記事が必要になることがあるってことはわかっているし、前に述べたネタバレ云々の懸念がされる記事とは別物だっていうのは理解しているんですけど、どこに「私を惹きつける文章」のネタバレを含んでいるかわからないからこわい、っていうのがあるのかもなあって、今、思いました。ありえないほど処女厨っぽい思考だなあ。
こんなに薄っぺらい。こういうところが嫌いなんだ。保険かけまくり、熟考できてなさすぎ、しょうもない。そしてこういう自虐を入れることで更に保険をかける。うーん。最悪なループ、うーーーーーん。



とかいって、ループなんて全然抜けられるんですけどね。あーあ、原稿やらないと。その前にまずは、セブンで買ってきたラーメンでも食べようかな。

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おいしそう。はやくたべたい。そのためにこの文章も、はやく終わらせないと。


「文章が上手い人」になりたいと思うのは、ごくごく当たり前な事です。だから、人と同じじゃあつまんないなと、ガキの感性を捨てきれずにいる自分の部分にタイピングを任せて、その欲求の根元を、書きながら探してみたいと思います。

・・・どうでもいいですが「引用」っていう機能初めて使いました。偉人の言葉っぽく見えてかっこいいな。

さておき。

はじめにこんなこと言ってましたね。結局、原稿から逃げている精神状態では、まだまだ全然たどり着けませんでした。もしかしたら、ここで言っている事そのまんますぎて、もうこれ以上掘ることが出来ないのかも。「人と同じじゃあつまんない」、~〇選!系記事にも提唱されなていないような、特別な文章が書ける人間でありたいだけ?

ちなみにこのnote書き始めてもう2時間弱経つんですけど、さすがに現実逃避から戻らないとヤバいので、急ですが戻ります。ごめんなさい。いつも、どんな文章でも、圧倒的に推敲時間が足りないし、読んでくださる方の目線に立つ時間も足りないし、不完全燃焼で終わらなかったことがない。逆に、短時間しかとれないって分かっているのに文章を書き始めているんだから、当たり前ですね。だからといって数日に分けたりすると、熱量が完全に冷め切ってしまうからむずかしい。次回こういう雑文を書くときは、せめて一日、時間を取ろう。自分の限界への挑戦、「上手い文章」の実現に向けて、書いてみたい。でもそのときもきっと、最後には同じ保険をかけるだろうな。大好きなセカオワの歌詞に「本気なんか出して負けたらどうする?」っていう言葉があるんだけど、本当にそうなんですよ。その言葉を本気にするくらい、どこまでも弱い人間が、果たして「上手い文章」を書ける日を迎えられるだろうか。


お目汚し、失礼いたしました。
拙すぎる「痛い」文章を、ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。

次はもっとマシな文章を書こうと思うので、よかったら見捨てずにいてね。


スキー










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