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言葉を正しく使うとは、正しく畏れること

言葉への反省

しばし思うところがあり、自分自身の言語活動について見直していたのですが、どうも近頃、言葉への敬意と謝意、畏怖を失っていたということに思い至りました。
言葉を巧みに操れる、あるいは言葉によってなんでも伝えられると自惚れていましたが、言葉に対してそんな傲慢で失礼な話はありません。
そんな内省を経て、言葉の価値、尊さを久々に考えました。以下は、これまでと昨夜から今まで考えたことたちです。

言葉は消耗品

まず、言葉は消耗品で目減りします。

どういうことか?

少し回り道をします。
コミュニケーションの手段は数あれど、言葉を尽くして理詰めで説得することは、実は下卑で、知性のないものではないかと思うのです。
「知性」のあるコミュニケーションとは、なんとなくの言葉を、なんとなくのまま受け取れることではないでしょうか。

どうも最近は、沢山の言葉を積み重ねて、圧倒させるような多弁が、素晴らしいもののように持て囃されています。かくいう私もその手の言葉の使い方をしていました。(それが冒頭の反省に繋がった契機の一つでした。)
しかし、それは言葉の無駄遣いであり、言葉への畏れを欠いているように思います。

というのも、言葉の力は使えば使うほど目減りしてしまいます。
それは、毎日好きと言っていたら、その有り難みや効果は減ってしまうようにです。
言葉は、ここぞという時に、それ以上でもそれ以下でもなく適切なものを、大切に使う必要がある。
言葉は有限の資源といえるかもしれません。
我々は長い目で見た時に、言葉を「消耗」しているのです。

たとえば、「みんなで一つに」という言葉は、本来強く、尊い意味を持つ言葉です。
しかし、それが乱発されていることで、その言葉の持つ力は失われました。
もし、本当にここぞという時にだけ、「みんなで一つに!」という言葉が発せられたら、もしかしたら、少しだけでも一つになれたかもしれません。

力を持つ優れた言葉

もちろん優れた言葉とは、大袈裟な言葉だけではありません。
自分の経験に照らせば、日々の生活の中でふと出会う素朴な言葉に心を動かれます。
折に会う友人や家族からのささやかな言葉、聖書を大切にされる方の生きた言葉、本を巡って慎重に紡がれたその人だけの感想、詩集に舞うひとひらの言葉など。

この言葉を使うしかなかったんだと感じさせる、選びぬかれた「本当の」言葉に出会った時、幸福を感じます。
それは理屈を柱にした多弁ではなく、なんとなくの、ほんのちょっとした言葉です。
こちらも、そのなんとなくの言葉を、なんとなくのまま受け取る。
そういう言語行為を愛おしく、大切に思うのです。

さて、そんな言語行為を支えるのはなにか。少なくとも語学力ではないでしょう。
今の私の答えでは、それは信頼関係です。(小林秀雄の言葉を借りるなら、人生観ともいえます。)
人間を見る。人間を見て、この人にはこれだけの言葉で伝わると信頼する。そしてそれをそのまま受け取るという相手の信頼。

先に、ある医者の友人と話していた時、昔の医者は大局観でものを言ったという話を聞きました。
お腹を触ってああこれは腸が悪いねとか。極端な場合、触らなくても直観できた。
しかし、今はデータを分析して、部分的に見ることばかりに長けてしまった。
昔の医者は総体として人間を「み(見、観、看、診、視)」ていたと。

言葉を大切に使うために、「人間をみること」。
先の医者の話のように、分解して、分析して、理詰めで言葉を尽くすこと。無論それも大事なことです。
しかし、分解した結果、見えなくなっているもの、失われたものがあるのではないでしょうか。
懇切丁寧に語れば語るほど、失われるものがあるのです。

言葉を自由に使えることへの感謝

そもそもこれだけ多弁でいられることに感謝が必要です。
全ての人の言葉が等価で、識字率も高く、誰もが語れる権利を持つ。
これは無論、尊く、大事なことです。
しかし、誰でも発話できる。歴史的に見れば稀少なことを忘れてはなりません。
その尊さや有り難みを思うと、まるで奇跡のようだとすら思います。

例えば、古代ギリシアやローマの詩人は、詩を歌い上げる時、詩の女神ムーサに助力を乞います。
自分が語るのではない、語らせてもらう。恥ずべきことだが、神に許されるなら語ろうという恥と畏れが見え隠れします。(一方、近代小説は、俺の語りを聞け!となる。これも好きですが、畏れはない。)

言葉が「貴重品」だった昔には、そんな風に言葉への敬意、謝意、畏怖があったことでしょう。
語ることへの恥じらいを持っていたことでしょう。
そういう言葉に対して持つべき感情を、私はすっかり忘れていました。

自分への懐疑と常に隣り合わせ〜懐疑と感謝と畏怖〜

常に自分は「正しい」言葉を発せているだろうか?という強い懐疑と隣り合わせであろうと思います。
畏れながら喋る。
言葉はナイフです。時に人を傷つけます。だからこそ、その言葉のナイフは常に自分の喉元にも突きつけておく必要がある。私はそのナイフを子供のように振り回していました。

言葉を乱雑に使用していた理由を煎じ詰めると、自分が生かされてきた自然とか歴史とか時間とか人々とか、様々なものへの敬意を忘れていたことに思い到りました。
大切に言葉を尽くすために、人間を見る。そのためには、生半可ではない、優しさと勇気と知性とが必要です。

例えば、芸術について語るとき。
他者への敬いを持ちながら、自分の想いを言葉にする。
その芸術が生まれ落ちた理由、その芸術の持つ力や魅力、そういったものを考え、そしてそれを尊重する。
繊細な優しさと知性とが求められる行為です。

しかし、それと同時に、自分はこう思った。こう感じたという、想いを適切に、真摯に、言葉に託すことも必要です。
そこには優しさと勇気とが必要です。

この他者や歴史への眼差し、己の勇気を欠いた言葉は、愚かにならざるを得ません。

「怒り」

さて、敬意、謝意、畏怖などを強調しましたが、それらと同時に忘れてはならないのは「怒り」です。
これら大切なものが毀損されたときに、怒る必要がある。他者への横暴、言葉の毀損など、いわゆる倫理的に愚かなことへの怒り。

これらは両立せねばなりません。
最近、政治を中心とした不正に対して、怒りが強くなりすぎていたことは私が恥ずべきことの一つです。
しかし、怒り自体は忘れてはならないとも思います。
ただし、敬意の欠いた怒りは、愚かな暴力に過ぎません。
そこから発せられる言葉は限りなく卑しく、言葉にも、人々にも無礼です。

私はこれからも怒ります。許せないことは許せない。
しかし、言葉への敬意、謝意、畏怖。それを支える自分を生かしてくれた自然や歴史、人々への敬意、謝意、畏怖を忘れていました。
言葉を尊ぶ者、言葉に恩のある者の一人として、猛省せねばなりません。

「多弁」のジレンマ

ここまで書いて一つのジレンマがあります。
言葉を尽くすことの難しさを語りながら、言葉を尽くしてしまいました。
もう一度だけその点について、一般論として付言します。
本来は、こういう大切なことや美しいこと、それらについて理由を多弁する必要はないと信じます。

大切なものは大切だ、美しいものは美しい。
本来はそれでいいと思います。
ただし、それは他者や共同体への信頼があればできること。
ひるがえすと、今日、これだけ言葉を尽くすことばかりに日本人が力を傾けている一因は、根本のところで信頼しあってないからではないでしょうか。

だから、言葉を必要以上に浪費し、言葉への敬意を失ってしまう。
そのことに言葉を尽くすことでしか対抗できないならば、私は詩神に助力を乞うような敬虔な気持ちで、言葉にすがるしかありません。
神に頼るとは、自分を生かしてくれた全てのものへの信頼と畏怖に他なりません。

言霊を信ずること

それ故に昔の人は言葉を「言霊」と称したのではないでしょうか。
私は言霊の力を信じます。
そして、改めて言葉への虚心で敬虔な向き合い方をせねばなりません。
それに出会うためには、解釈などの手垢がつくまえの言葉の「すがた」に触れ合うこと。

絢爛で、多弁な言葉を声高に弄する必要はありません。
飾り気のない、素朴な言葉を選び抜く。その際に、歴史や自然、他者へのまなざしや敬意、畏怖を忘れてはなりません。
小林秀雄の以下の言葉の意味を噛み締め直します。

「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」
小林秀雄『無常という事』


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