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志村けんさん…

私が一緒に共演したとか、そういうことは当たり前だが無い。けれども、まさか昨今の新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなるとは誰も想像していなかったことだろう。

今日お昼に訃報を知った。正直何も考えることはできなかったが、1ドリフヲタである私の思い出をここに記しておきたいと思う。実際私はこのnoteを書いている時もバックでドリフの曲を聴きながら書いている。

私がドリフにはまったのは小学校高学年の頃。私の小学生時代は、親が非常に教育にうるさくテレビで視聴できる番組はNHKか民放のニュース番組がほとんどだった。いわゆる勉強に時間を費やせという親だった(これを大人になってから強圧的環境だったと回想している)。実際この統治は大学入試付近まで続き、高校時代は親のシャトル(送迎)で登下校していた(登下校時に寄り道をして帰りが遅くなるのを防ぐためとそもそも登下校時間ほど無駄な時間はないという親の判断から)。

そんな平日を暮らしていたが、どうにもこうにもストレスが溜まってしまって息抜きすらできなかった。そこでピアノ講師である母がレッスンの時に私を母の実家に土曜日に預けるようになったため、母の実家で過ごす時間はテレビ見放題だった。私の実家はスカパー未加入の家(今でもそうだが)で母の実家はスカパーに加入しているという違いがあったため、チャンネル数が言わずもがな多く、暇な私にとってテレビ見放題は最高の天国だった。

そんなある土曜日、ファミリー劇場チャンネルでやっていた「ドリフ大爆笑」に目が釘付けに。こんなに面白い番組があるんだと思い、番組表を見ると毎週この時間にやっているんだと興味を持った。その後、このファミリー劇場が楽しみになり、ドリフワールドにのめりこんでいった。

ドリフメンバーの中で一番私のお気に入りは高木ブーさんである。正直コントの中の立ち位置は私の当時の立ち位置(義務教育期間のほとんどをいじめられて過ごしたので)とかぶる部分が多く、高木さんのようにどれだけいじられようとも、立ち上がる所は何度も勇気づけられた。因みに好きな順にすると、高木ブーさん→加藤茶さん→いかりや長介さん・仲本工事さん(ここは入れ替わることがある)→志村けんさんだった。

こう見ると志村さんはメンバーの中ではそんなに好きだという意識はなかったように感じるが、実は最近だいぶんこの順位があやふやになってきていた。志村さんの若い笑いについていけない(バカ殿様のような)自分がいたので、正直ハマった初期は好きにはなれなかったのかなと思っている。高木さんが1番好きと言う時点で私の好みはどちらかというとシュールな笑いの方だったのである。

中学生の時だったか、いかりやさんの著書「だめだこりゃ」を読み、ドリフの裏側を知るようになりそれでもっと興味を持ったが、大爆笑以外のコントは日常的に見られるものが近くになく、ちょっと頭の隅に置いておくことしかできなかった。そして、ドリフがコントグループではなく、バンドであるということも同時に知り、その後ドリフのCDを借りて聴いた(それがいまや私のカラオケの十八番になっている曲も多い)。

大学入学後、私は1人の時間が多くなり、ドリフコントも普通に見られるようになった。そして大爆笑だけでなく全員集合のコントや、カトケン、いかがでしょう、だいじょうぶだぁといった違う番組のものにも手を出し始めた。ネット上には色んな映像があったのでストレス発散のためにコントや曲を視聴するようになった(その時に出会った1曲に「ドリフのほろよい小唄」があり、フジテレビで放送されている「ダウンタウンなう」の「本音ではしご酒」で流れている)。そんな時にドリフ大爆笑DVDが発売されることになり、その初日に渋谷のタワレコまで購入しに行った。東京在住ではない私がそこに購入するためだけに発売初日に行った理由は、東京と大阪(だったかな)の数店舗限定でトップ画像にした4人のサインが1枚の色紙に掲載されている、このレア色紙を貰うためだった。確か当日開店前だったが、店舗の外ではドリフ大爆笑オープニングとエンディングがリピートされていてそれは異様だったと思う。このサイン色紙は今では私の家宝として自宅に飾っている。

卒業研究をしていた2015年、私は母からある連絡を受けた。それは、「誕生日の翌日(誕生日:7月13日)である14日のNHKのスタジオパークからこんにちは(当時は平日やっていた)にゲストとして志村けんさんが出るよ」というものでした。誕生日は大学で研究をし、翌日NHKに向かうことにしました。

昔の番組は知っていたのですが、当時の番組は知らなかった。私が見ていた時はオープニングを奥で撮影し、スタジオまでの距離をカメラで撮影するそんなものと思っていた。当日そのスタジオの外に行ってみると、パーティションポールがあった。恐らくそれより内側で観覧しちゃいけないと思い、このポールギリギリに立った。そして、恐らく少しの時間映るかな、と思っていました。しかし本番の少し前にスタッフが、「ここにMCが来て、この場所にゲストの志村さんが来ます」と話されて驚いた。いわゆる私が立っていた目の前でオープニングを撮影することになり、スタジオ内にいる方々より至近距離で見ることができた、そんな体験だった。本番では、私のすぐ隣にいる小さい子どもさんが志村さんのキャラクターの描かれたタオルを持っておられたので、その方に志村さんが近寄ってみえた。もう手が届きそうなところでのこの体験は良い思い出になりました。後日放送を録画したものを前述の母の実家で視聴したが、バッチリ私の身体は映っていた。顔はと言うとLIVEの文字と重なっていた。

そのスタジオパークでは「となりのシムラ」の番宣でゲスト出演されていた。そこでの志村さんの立ち位置は、民放で見せる若者の笑いとは違う、どこか高木さんのようなシュールな笑いだったため、私としてもだいぶん受け入れて来ていた。だから舞台、それこそ本領であるコントを観劇したいとずっと思っていたのだが遂には叶わなかった。それは残念だった。

私の教育環境、そこからドリフの思い出をここにまとめてみた。私が好きになった時は、いかりやさんが亡くなった後(が中心であったが、見始めたのはもう少し前だった)で、ドリフの中の立ち位置(リーダー)でいかりやさんは私の中では過去のものと化していた。だからこそ好みの中では常に真ん中付近だった。そして最近志村さんが伸びてきたところだったのに、残念だった。

驚いたエピソードを紹介したいと思う。小学生当時、月に1度(だったかな?)土曜日の午前にPTAが主催で開催された、地域の大人たちが先生替わりとしていろんな教室を開く行事があり、学校の視聴覚室(パソコンの部屋)では、電気屋さんの店主がインターネットを使わせてくれた。そして印刷も何枚(指定があったはず)かOKだったはずだ。その際、私はもちろんドリフが好きだったのでその時間中ずっとウィキペディアでドリフのことを調べていた。そして印刷しようとした瞬間驚いてしまった。それは他のメンバーのページより志村けんさんのページの数が半端なく多く、その理由が持ち芸の多さだった。このキャラクターの多さがここまで人を惹きつける所以だったのかもしれない。これらがすべて引き継がれるのか、もしくはそのまま廃れてしまうのか心配である。

最後に、志村さんが築き上げたコント番組の数々によって、この笑いが少なくなっている今笑いを起こしてくれる気がする。病は気からと昔の人は言っていたが、どんな状況下でも笑顔は絶やさずに実行していけたらと思っている。私にとって志村さんは喜劇役者ではなく、笑いの「殿様」なのだから。

あくまで個人の主張として受け取ってください。故人のご冥福をお祈りします。長々と書いてしまいましたが、ここまで長いのは今後そんなに無い気がします。「スキ」や「フォロー」お待ちしています。

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