【シンエヴァ:||/ネタバレ】孤独を愛したふりをしていた大人たちへ

当時シンジたちと同じ14歳だった私は、テレビシリーズの最終回を楽しみにしていた。

部活をさぼって意気揚々と居間のテレビの前に正座し最後を見届けた。アニメの最終回というものは、おしなべて腑に落ちる内容であると思っていた。このわけのわからない使途なるものの正体もはっきりし、シンジたちは報われる。もしくは名誉の戦死を遂げて世界は平和になる。

バッドエンドでもハッピーエンドでも、とにかく「いいラストだったな」と納得ができるのが最終回だと思っていた。

だが私は放送終了時間になってもまだ腹に異物が残っていた。「最終回は特別に一時間構成なのだろうか」そんなことを自分に言い聞かせ、姿勢を崩さずテレビ画面を眺めていた。

余談だが私の住む地域ではテレビ東京が放送されていなかった。たしか数週間遅れで夕方4:30からの放送だった。そのあとはこれまた再放送の笑っていいともが始まる。

「これが最終回のはずはない」とCMがあけるのを待った。しかし画面に映ったのは陽気にあの歌をうたうタモさんだった。エヴァの最終回は私に「こんな終わり方をしてもいいのか?」と衝撃を与えたのだった。


あれから二十五年。間延びしながらも進化し続いていったエヴァがとうとう最後を迎えた。

例のウイルスの影響で公開がかなり延期されたが、私はなんとなくそうやってエヴァに終わりがあることを実感できずにいた。公開日が急に発表され「ああほんとうに終わってしまうんだ」と終わりを突き付けられた。

二十五年。言ってしまえば四半世紀。そんな長い時間をゆるゆると共に過ごしてきた作品がついに終わる。終わるのだ。もうこの先には新しいストーリーは紡がれることはないのだ。

決着をつけるだとか、そんな意気込みは私にはなかった。ただ、二十五年連れ添ってきた家族を看取るような気持ちで劇場に足を運んだ。


何から話せばいいのだろうか。

冒頭はとにかく「かっこいい」の連続だった。マリが搭乗する8号機のディティールがとにかく斬新だった。従来のロボットアニメには見られないレバーを握って操作するタイプではなく、車のハンドルを思わせる操縦システム。そして腕がないという戦闘ロボットにとって致命的なハンデを機体の周りに装着された大きなリングに重心を置き、胸から下を反動で動かす。体操の鞍馬を思わせる動きは、この令和になってもまだ固定概念をぶち壊しにくるのかと驚いた。戦艦が宇宙を走るどころか、縦に並んで装甲の役割を担っているとか、何を食べたらそんなこと思いつくんだ。え~ん、古いと新しいのいいとこどりがいっぱい詰まって感性をぶん殴ってくるよ~。

序盤からこんなかっこいいものを見せられて、このアニメはどこまで進化し続けるつもりなのだ。1995年の時点ですでにアニメの最先端を走っていたエヴァンゲリオンは、まだアニメ界を独走していた。

パリの街が一部再生され、日本にもセカンドインパクト以前の懐かしい景色が広がっていた。Qで失語症になっていたシンジを待っていたのはしっかり年を重ねていたトウジやケンスケ、ヒカリ。てっきりQでトウジのシャツに蒼白していたシンジの描写から、死んだものと思っていたが生きていた。そして彼らは当たり前に年をとって家庭を持ったり、自分の新しい役割をまっとうしていた。

懐かしいけどはじめまして。そんな不思議な感覚はシンジも同じだったかもしれない。そこにはニアサードインパクトを乗り越え、それでも生きることを諦めてはいない人たちがいた。Qの緊迫感と不穏な雰囲気から一転した穏やかな光景に涙が出た。それは平和に尊さを感じたからではなく、彼ら彼女らの生きることを手放さない強さに心を打たれたからだ。

勝手な解釈だが、人類補完計画は「人間って感情があると悲しんだり怒ったりいろいろめんどくさいし、そのせいで傷つくから人から魂を抜き取って統一化しちゃえば苦しみも醜さもない、浄化された世界になるんじゃね?」という、人類をひとつ上のフェーズへと引き揚げるための計画。いわば感情によって発生する障害から心を守るためのゲンドウの願いだと思っている。

傷つくことがなければ穏やかな世界になるだろう。戦争だってなくなるし、誰かが悲しみに涙することだってない。けれどそれは極論で、正しくもあり正しくない面もある。誰だって苦しい生き方は望まない。でも二元論でどちらかを選べばどちらかが失われる。それでいいのだろうか。

エヴァはそんな疑問を投げかけ続けていたと思う。

生きることは残酷だ。でも素晴らしい一面だってある。素敵なことの方がつらいことを圧倒的に下回るかもしれない。それでも頼りない手を繋げば世界に色がついていく。

ゲンドウは孤独を愛したふりをしていた。ひとりが好きだと認めた、と自分を錯覚させることで、人から受け入れられなかった時のダメージを回避した。目を閉じていれば見なくて済む理論だ。けれどそれだと見たかった景色も見えやしない。なにかを完全に拒絶することは、得られた可能性も捨てるということだ。もしかしたら何も得られないかもしれない。だったら目を閉じていた方がましだ。でもその可能性の確立はどんな数学者にも導き出せない。幸せは目を開けていなければ見えない夢なのだ。それも多くを得たいのなら自分で足を進めるしかない。まったくもって対価に値しない、ハイコスト、ハイリスクなのが人生であり人間なのだろう。やっぱめんどくせーな、人間って。

ただ、めんどくさい生き物であろうと、生きることを手放さず目を見開き続けた結果がそこにあった。これまでの胸をえぐられるようなストーリーを大量に飲み込んでも翌朝には爽快な気分で目が覚めた。そんな気分になった。二十五年、共に歩んできた苦渋の先に、人間だからこそ得られた光景がスクリーンの中にあった。

ナウシカの原作を読んだ時、この物語は人間は愚かな生き物であるが、それでも生きていかねばならない。この世界には不要だったとしても、私たちには僅かながらにでも人情というものがある。それは人間が世界を腐敗させる存在だったとしても、それでも生きるに値する、価値あるものだ。そう私は感じた。

たしかに現実でも、人間は愚かだと感じる場面は多い。怒り、恨み、妬み、罵り、暴力・・・。これだけの愚行を働く生き物であっても、それゆえに互いを傷つけあうことがあっても、どんなに理不尽な環境であっても、私たちはより良い明日を目指そうと昨日までを少しだけ清算し塗替えることができるのだ。

赤く染まった街を少しずつ元の色に変えられるように。

退化と進化を繰り返して知らないことを学ぶ。それを誰かに託す。そして時には進むために断ち切る。そうやって泥にまみれても笑うことができる。後悔は次の誰かに渡す希望になる。だから人は人のままでいいのかもしれない。そしてもう、この物語にはエヴァは必要ない。

一緒に悩み続けてくれたエヴァンゲリオンという作品にありがとう。

庵野監督の思いどころか、好きなもの伝えたいもの、何から何までをあますことなく詰め込んだ熱量に「こりゃとんでもない作品ができちまったな」と、人間の可能性の限界には底がない素晴らしさを浴びたようだった。これ、ヤマトだわ。と懐かしさのある戦闘曲もまた、アニメは進化し続けるが昔の良さも越えられない。なんというか、矛盾しているようで「好き」は理屈を越える感情なんだなと、私もずっとエヴァを好きでいてよかったなと思えた。たぶんずっと好きだったからこそ、最後がこんなにも素晴らしいと感じることができたのかもしれない。ほんとうに好きでい続けられてよかった。

さようならエヴァンゲリオン。

さようなら、すべての14歳だった大人たち。


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