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ヒプマイが消えた日

私の好きだった二次元ラップコンテンツである『ヒプノシスマイク』が消えた。
コンテンツ自体がなくなったわけではない。
あくまで『私が好きだった』ヒプマイは、コンテンツ初のEP(Extended Play の略 )2タイトルを同時リリースした、8月23日を境に消えてしまったのだ。

そもそもヒプマイは武器の使用が禁止された世界で、ヒプノシスマイクと呼ばれる人の精神に干渉する特殊なマイクを用いて、文字通りのラップでバトルをすることが可能になった、という設定だ。

ヒプノシスマイク公式サイト
https://hypnosismic.com/about/

さらに詳しい設定はさておき、とにかくヒプマイはラップが要となるコンテンツであり、私はその楽曲に惹かれた。

学生時代にBUDDHABRANDやキングギドラ、餓鬼レンジャーやラッパ狩リヤにKICK THE KAN CREWといった日本語ラップにハマっていた私にとって、それらのアーティストが楽曲提供をしているのも好きになった要因としては大きかった。
まさかラッパ狩リヤがアニメ雑誌に載るとは、当時の私が聞いたら絶対に信じないだろう。
そんな、いわゆるオタク文化が広く認知された今だからこそ、可能となった楽曲の数々、当時では考えられなかった対極とも言える文化が見事に合致した。いい意味でとんでもない時代になってしまった。
ちなみに私がHIPHOPにハマっていた時代のアニメは、serial experiments lainやカウボーイビバップ、カードキャプターさくらなどで、二次元とラップ、この二つの文化が手を取るなど想像しようにもあまりに距離がある時代だった。なんせ、カウボーイビバップのおしゃれな音楽ですら衝撃だった。

そんな時代を経ているので、はじめは正直「声優がラップ~?」なんて鼻で笑い、どれどれお手並み拝見といった具合で、おまえ何様スタンスで聴いてみた。端から耳にすることを無碍にしなかったのは、はやりラップが好きだった昔の血が騒いだからだろう。ゆえにどこかで「こんなのラップじゃねぇよ」と、こき下ろしてやる気持ちさえあった。むしろ聴いた上で否定してやりたかった。
だがひとりだけ、異常にうまい声優がいた。あきらかにひとりだけレベルが違う。誰なんだこの声優は。
否定する気満々だった私をラップの力で殴ってきた声優が誰なのかについて、俄然興味が湧いた。
さっそくフォロワーの中にすでにいるであろうヒプマイオタクに、このバースを担当しているのは誰なのかとツイートを投げたところ、数人から口を揃えて「ジャイアンの人」と返答があった。
調べてみると「ジャイアンの人」こと木村昴さんは、高校生の時にエミネムに憧れてラップをやっていたらしい。
どうりで、と合点がいった。
しかし木村さんは経験者であっても、ほかの声優がいきなりラップなんて、しかもおいおい速水さんにまでやらせてんのかよ、藍染様の詠唱じゃないか。などと、半ば面白半分で聴いていたのだが、いつのまにか「あれ、これふつうにかっこよくね?」となり、まんまとハマってしまったのだった。
正直、木村さん以外は拙さはあるものの(今ではそれが完全に払拭されているのも声優のすごいところだ)トラックやリリックが本気でHIPHOPの様相を呈している。
これは二次元キャラの中の人である声優に歌わせた、キャラソンに毛が生えたものではなく、本気でラップを主体としたコンテンツだと、野次を飛ばそうと乗り込んだ私は見事にカウンターパンチを食らったのであった。

それもそのはず、前途した学生時代に親しんだラッパーからの楽曲提供など、単なるオタクコンテンツとは思えない「ガチでHIPHOPをやりにきてる」感に、改めてラップの良さ、なによりそれぞれのキャラやディビジョンのカラーを踏まえてのリリックに度肝を抜かれたのであった。
ラップと言えば、いかついラッパーが「マザーファッカー」とか言ってるイメージがあった。…とまではいかずとも、そもそもはアンダーグラウンドの音楽だ。なんせヒプマイも主体としているラップバトルは、言葉でお互いをディスる文化だ。
それが二次元の、いわば現実には存在しえないような見た目でタイプの異なる顔のいい男たちが、それぞれの個性的な立ち位置、生い立ちをきちんと落とし込んでリリックに仕上げている。これがなんかもう異色の文化をぶつけ合って生まれたエネルギー、核爆発のような衝撃となって私を虜にしてしまったのだ。

中でも『Glory or Dust』は、トラックに頭を殴られた感覚だった。
オーケストラを用いた荘厳なトラックをラップに使うというのがまず斬新だったし、何よりドラムマーチがかっこいい。ラップでドラムマーチってそんなんアリかよ!やられた!
何かの記事で読んだのだが、ドラムマーチの手数が多いと感じていたのは、スネアを重ね撮りしていたかららしい。そんなのかっこいいに決まってんじゃねぇか馬鹿野郎!
それに加えて背後で安定したリズムを刻むバスドラム。
これがラスサビになるとテンポが速くなるのが荘厳さに拍車をかけてきてたまらない。RPG終盤のボス戦のようなボルテージの高まり、一斉攻撃を仕掛けるような連帯感。栄光か塵になるかを賭けた彼らの戦いに相応しいトラックである。
さらにオーケストラ(実際には打ち込みだろうけど)だけあって、軽快なキャラのバースはビオラのような軽めの弦楽器で、クールなキャラのバースではユーフォニアムやチェロのような低めの楽器が使用されていたりと(詳細が書かれた記事が見つからなかったので、あくまで私の拙い知識からの使用楽器の予想)これもまた、オーケストラとラップという文化の対極であるにも関わらず見事にマッチさせてきたのだ。
なんなんだヒプマイ、とんでもねーな。
だって真夏に外を歩きながら聴いてても鳥肌が立つくらいだ。ほんとになんなんだ、ヒプマイ。

ちなみに私は宗教上の理由からドラマパートを聞けない人間なので、キャラの背景やそれにまつわる物語についてはほとんど知らない。
だがリリックから知るキャラクター性だけで充分だった。
なんせ私はヒプマイの楽曲がとにかく好きだったのだから。

そんなものだから、実際のキャラと声優自身のギャップに耐えられないのではと、ライブにも触れずにいた。
しかし8thライブのあたりになると、なんかそういったこともどうでもよくなり、ステージに立っているのがキャラの見た目とはかけ離れた声優であってもライブ音源で楽曲が聴きたくなっていた。
そんな折りにちょうどAbemaTVでのライブ配信があると知り、特に好きなディビジョンであるFlingPosseのライブ視聴チケットを購入した。
たしか4000円近かったと思うが、昔好きだったKREVAも出演するのだ。KREVAに4000円近く払ったと考えてもお得だ。というか、KREVAが楽曲提供してるってなんなんだ。こちとら二次元コンテンツだぞ?よくやったヒプマイ。

そのライブでまんまと感極まってしまった私はもちろん9thライブの視聴チケットも購入した。
コンテンツ始動当初、あんなになめてかかっていたヒプマイに、私は涙していた。
360℃のステージ、隙のない視界すべてに届けようとするキャストのエネルギー。ゲストであるAwichさんが一曲目に歌った『Queendom』は、銃殺された旦那さんの曲だった。武器の使用が禁止された世界観であるヒプマイへのリスペクトを感じた。
とにかくキャストである声優陣が楽しそうだった。
MC然り、全体曲然り、いがみ合っている設定の彼らが皆、一眼となってライブを楽しんでいるように見えて、それが画面を通しても充分に伝わってきた。

もうバトルなんかしなくったっていいじゃないか。
個性豊かな各ディビジョンの色を生かしつつ、とにかくみんなでラップを楽しめばいいじゃないか。

おそらくそう思ったのは私だけではないだろう。
いや、以前からバトル形式で勝者と敗者が明確に分けられ、推しディビジョンが敗退する姿に深く悲しむファンを見てきた。
もうバトルなんてやめてという声もちらほら聞こえた。
その結果なのだろうか。

ライブの終盤。
重大発表という言葉にざわめく会場中央のスクリーンには、ヒプノシスマイクに二重線が引かれ『OFF』の文字が表示されていた。
ライブ後、ファンの間ではこの意味についての考察が繰り広げられたが、それまでのディビジョンカラーを意識した衣装とは一転、黒で統一されていたことからも、私はラップの力でもって各ディビジョンが一致団結し、ラスボスのような存在である『東方天乙統女』に挑むのかと、ぼんやりと考えていた。
そしてしばらくぶりの新曲が発売される8月23日を心待ちにした。


しかし、新曲トレーラーが発表されたときに、あの『OFF』の意味を知ったのだ。
つまり、精神に干渉することのできるヒプノシスマイクが『OFF』になったということは、ラップ本来の言葉で相手をディスる、つまり攻撃することが不可能になったわけだ。
これはもう彼らは不思議なマイクを通して、相手に精神攻撃を食らわせる必要がなくなったということなのだろう。もう彼らは、互いのディビジョンのために争う理由がなくなったのだ。
だからもう、相手を攻撃することに長けたラップに固執しなくてもいいわけだ。
どんなスタイルの音楽でもいい。
ヒプノシスマイクが『OFF』になった。
それはもう、ラップに縛られない。そういうことだったのだ。

でも彼らは、ことあるごとに「ラップってたのし~」と言っていたじゃないか。
相手を蔑むだけではないリリックだってあったじゃないか。
それぞれの想いをライムに乗せていたじゃないか。
『精神に干渉することのできるマイク』が『ヒプノシスマイク』であって、それがドラパで(状況がわからずその部分だけは聞いてしまった)「ヒプノシスマイクはすべて回収した」とあっても、ヒプマイは、ラップをいちばんの表現方法として紡いできたんじゃないのか。

好きだったあの曲もこの曲も、いつかは現場で聴きたいと思っていた「私が好きだったヒプマイ」は、もう二度と体感することが叶わなくなってしまった。
あの、キャラの方言を用いた絶妙な韻に「こんな韻の踏み方あるのかよ!」と、一節だけで心が沸き立つことも「こんなトラックでラップできるんだ!」と肌が粟立つことも、これから先、新たに体験することはできないのだ。

私は新しい感動がこの先にはないと知り、前に向けた爪先は立ち止まったまま、繰り返しくりかえし過去の楽曲を絞るように聴くのだろう。
背後に伸びる影を愛でることしかできなくなってしまった。
ヒプマイは私の前から消えた。


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