真(まこと)の名をよぶ

ゆかりさん(仮名)との初回のカウンセリングがはじまった。

まず、私のことをなんと呼べばいいかを聞かれた。
私は、下の名前でカメさん(仮名)と呼んでほしいとお願いした。

そして、私は「ゆかり先生」と呼んだ。
すると私の言葉をさえぎってゆかりさんは言った。
「先生、はやめましょう。もっと普通でいいです」

「え? では、なんと呼べば…? ゆかりさん、とか?」
「そうですそうです」

このやりとりで、私はもう涙が止まらなくなってしまった。
最初はなぜこんなに涙がでるのかわからなかった。

「今…どんなお気持ちですか?」とゆかりさんは静かに聞く。
私は泣きながら「…拒まれなかったから」とつぶやいた。
その瞬間、自分が「拒まれていたのだ」と知った。

私はもっと親密になりたいけれど、相手はそう思っていない。
「距離を保ってね、ここから入ってこないでね」と離れたところから言われている感覚がずっとあった。そんなことを話した。

前回、ゲド戦記のカラスノエンドウのことを書いたけれど、ゆかりさんは私に真(まこと)の名を教えてくれたのだなと思う。(もちろん、ご本人にそんなつもりはなかったと思うけど)やはりゆかりさんは、私にとってのカラスノエンドウだ。

ゆかりさんのカウンセリングは、できごとを聞かない。悩みも聞かない。
今、身体に起こっていることにフォーカスしていく。
私はそれに身をゆだねて、身体で起きていることに耳を傾けていく。
私が発する言葉は、とぎれとぎれだ。でもゆかりさんはそれを丁寧に拾ってくれて「その感じをもう少し、ゆっくりと、感じてみませんか?」「それはどんな感覚ですか?」と促してくれる。

言葉は身体の感覚をサポートする役割だ。説明よりも、今感じていることを味わうために言葉がある。そんな感じだった。

初回からかなり深い体験をすることになった。
涙が止まらなすぎて、ぐったりしてしまった。
そんな私を見て、ゆかりさんは様子を気遣いつつ「とても上手に深いところに入っていかれたと思います。これまでのカウンセリング体験が効いていますね」と言ってくれた。

あっというまに50分のカウンセリングは終了した。



カウンセリングを終えて、「拒まれなかった」という体験は、私にとって希望に満ちているものだと気付いた。
私が悲しみを感じていた「拒まれる」ということ。でもこれは過去に形成された認知だなと思う。だって、本当に拒まれているかどうかは、確かめないとわからないことのほうが実は多いから。けっこう自己完結してしまっていることを、私は知っている。100%拒まれるなんてことはありえないことを知っている。1%かもしれないけど、こちらがオープンでいれば拒まずにいてくれる人がいることを知っている。拒まれたとしてもそれに傷つく必要はないことを知っている。そして、最低限拒まれないように(というわけでもないけど)礼節を持って関わる作法は、ちゃんと身につけることができる。

幼い頃の私は、その手段や、言語化、ずぶとさは持ち合わせていなかったけど、この年齢になったら、そこはもうあまり怖がらなくても良さそうだなと思った。

むしろ拒まれることを恐れて関わりを避けてしまうことのほうが、今の私にとっては悲しいことだと、はっきり自覚できる。だから、拒まれることに対しての恐怖は、今の自分にならクリアできるなと思った。
「だいじょうぶ。そこは心配しなくていいよ」私は、私にそう伝えた。

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