野田と星野の解像度
2022/09/08(木) #121:hiko
昨日今日と家から出ず、23時にKNがインスタライブをしていたから入ってみた。
今回の日記は、時刻にして残り1時間の時点から始まる。
インスタライブに入ると、KNから参加招待が送られてきた。
イヤホンを装着して参加のボタンを押下する。
少ししてsukeも現れ、参加し、3人で話していた。
遊びの計画を軽めに立てる。
どこ行くとか、車はどうするとか。
ある程度まで話し終わったところで、sukeの画面に俺の家が映った。
sukeは用事終わりで、駅から直接来たらしい。
驚きはしたけど、話すのは吝かではない。
電話越しよりも話しやすいし。
合流してしばらくすると、インスタライブの参加が終了した。
そもそも時間が終わったのか、KNがキックしたのかのどちらか。もともと話はそこそこ片付いていたし、ちょうど良かった。
少し話して、sukeの家に行くことになった。
ていうか、俺が行きたいって言ったんだけど。
日曜日に飲んだ時、ずっと将棋してたから、ほかのゲームもやりたいっていう建前だった。
sukeの家に着いて思い出したんだけど、したい話があったんだった。
それが今回のタイトルになるわけだが。
2日前に行ったカラオケで考えたこと〜歌詞の解像度に焦点を当てて〜。
みんなは音楽を聴いていて、歌詞がいいなと思ったことはあるだろうか。
俺はめちゃくちゃある。
というより、曲を大好きになるには俺にとって大事なファクターである。
そんな俺が、この人の歌詞が凄いなと思ってるのは例えば、野田洋次郎や星野源があげられる。
この2人の歌詞を聴いていると、「良さ」のベクトルが正反対であることに気がついた。
正反対というのは、「良さ」をある観点において一直線上で捉えているということで、その観点というのが「解像度」だ。
解像度ってのは、ここでは「ある文が描きたい世界が詳細に描かれていること」と理解してほしい。
そのうえで、野田洋次郎は歌詞の解像度が低くて、星野源は高い。
例をいくつかあげていこう。
君を見つけ出した時の感情が
今も骨の髄まで動かしてんだ
君のいない世界など
夏休みのない8月のよう
君のいない世界など
笑うことないサンタのよう
何回か先の世でまた逢うかな
その時ぶきっちょな顔はよしてよ
僕はまた一から君に恋を
どう逆らってもしてしまうだろう
そしたら人生またぎで特大の
いつもの憎まれ口を聞かせて
どう?
これ、すんなり理解出来るかな?
全部知ってたとしたら、最初っからできたかな?
俺はできなかった。
あ、『君と羊と青』は読めたよ。
あと、これらが「好き」の翻訳であることも。
けど、「夏休みのない8月のよう」とか「笑うことないサンタのよう」とか、「何年か先の世」とかって言われてもピンと来ないんだよね。
こういう大袈裟な比喩を使うことで、「好き」っていう言葉を超えた想いを表現しているところがRADWIMPSのいいところだなぁって思う。
この大袈裟な部分を「解像度が低い」って言ってるんだけど、伝わったかな。
これに対して星野源の曲は、
幼い頃の記憶
今夜食べたいもの
何もかもが違う
なのになぜ側に居たいの
(中略)
"好き"を持ったことで
仮の笑みで
日々を踏みしめて
歩けるようにさ
いつも夢の中で痛みから逃げてる
あの娘の裸とか
単純な温もりだけを
思い出す
零れ落ちた先で出会った
ただ秘密を抱え
普通のフリをした
あなたと
どう?解像度高くね?
星野源はめちゃめちゃ凄いけど、どこまでいってもただの人間で、すごい奴らもすごくない俺らもただの人間で、みんな一緒なんだけど、みんな違う。
そういうことを歌ってるんだよね。
そう考えた時に、もう星野源の歌がこれを言いたいようにしか聴こえなくなる。
それくらいに一貫してる。ってのはまた別の話。
とにかく、めちゃめちゃリアルじゃない?
リアルすぎて現実味がないくらいにリアル。
これが星野源の良さだと思ってる。
さて、ここまで概観してきたわけだけど、俺が言いたい「歌詞の解像度」は伝わったかな。
少しでも伝わってたら、これからは曲を聴く尺度のひとつとして持ってもらいたい。
それで、その曲の感想を教えてほしい。
尺度で思い出したけど、読んでてわかる通りまじでただの俺の独断の感想です。
野田洋次郎は普通に解像度高いと思う歌詞がいくつもあるし。両立が凄い。
2人とも音作りも好きだし。
あと、解像度だけが歌詞を聴く指標でもない。
めちゃめちゃ複合的な認知のなかの、考えてみたら面白かったもののひとつに過ぎない。
ただ好きな曲を語りたかっただけ。
みんなの好きな曲も聞かせてよ。
あー、楽しかった。満足満足。
By hiko
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