ゆうきまさみはオタクのライフスタイルで、新海誠は鳥坂先輩や内海課長の「オタクの全能感」を実現してしまったキモさだと思う。

まあ、ゆうきまさみは全く読まないですね。オタクは二種類いる。ゆうきまさみが好きなオタクと嫌いなオタク。そして自分は後者です。
『究極超人あ~る』のオタク・ライフスタイルを受け売りする(真似する)オタクたちが本当に嫌だった。キライだった。

「やあ。R・田中一郎くんだよ」「やあ。ロボットじゃないよ、アンドロイドだよ」「ごはんが食べられないと、おなかがすくじゃないか」、この芝居がかったやり取りをまんま彼らはリアルに持ち込む。
「やあ。◯◯くんだよ」「ぬお~!そういう君は◯◯ではないか~!敬礼!」「敬礼!出た!敬礼出た!得意技!敬礼出た!敬礼キタコレ!敬礼出たヨ~~!」、俺は限界だと思った。
代官山蔦屋のヲサレ・ライフスタイルの受け売りはバカにしてdisる癖に、自分たちの『究極超人あ~る』のオタク・ライフスタイルの受け売りは平気で許す、そんなダブスタだ。

オタクは当初は渋カジみたくパリピなカルチャーだった。

(ややソースに不安がある)岡田斗司夫氏が言うには、オタク黎明期のシーンを牽引していたのは慶應義塾の付属に通うアーバンなオタクたちだった。イケてる彼らが「オタク」と仲間同士で呼び合うのを真似て使い出したのがオタクの語源らしい。
そういう都会のスノッビズムな文化への憧れとして消費された、当初オタクはカッコイイ文化だった。新しいナウな消費スタイルの提案。それがカジュアル化していくことでダサくなった。これは「トレンドの一生」と同じサイクルである。

ゆうきまさみはカッコ悪いオタクのスノッビズム。
ゆうきまさみと同じオタクサークルにいた永野護はオタクでもオシャレでロックなど音楽への造詣も深いのでイケてるサブカル世界でも通用するが、ゆうきまさみはサブカルでは通用しないので、オタクのお山の大将なスノッビズムをする。
そんなイケてないグループ内ではそこそこイケてる、そのほどほど感が(自分にも手が届きそうな)読者モデルみたく去勢されたオタクらには支持される。
ゆうきまさみとは、そういったコンテンツ。

『究極超人あ~る』の鳥坂先輩が『機動警察パトレイバー』で内海課長となり、鳥坂先輩に仮託してたもののツケを払わされた。
ゆうきまさみが『究極超人あ〜る』を経てやや賢くなり、鳥坂に仮託してたオタクの全能感な願望の痛さというのを理解して恥ずかしくなり、それを(鳥坂のバリエーションな)内海を殺す事で晴らそうとする。自分の中二病と決別するイニシエーションにした。
でもそれは鳥坂では全肯定(中二病)だったものを、内海では殺されて落とし前をつけさせること(高二病)へと、よりレベルアップしただけで。
等身大なオタクのキモさというのは等身大で裁くべきで、より巨大犯罪なガジェット仕立てでドラマチックに殺してあげるのはヒロイズムであり、おそらく覚めたようでまだ覚め切っていない。
オタクは政治ごっこが好き、学園ものな『あ〜る』なら生徒会と光画部との確執とかで。それをスケールアップした(警察とイリーガルな多国籍企業シャフトという)リアル政治ごっこに拡大したのがパトレイバー。よりリアル(に向き合う)風味にして、より夢の続きをしている。理論武装しただけだ。

新海誠はリアルで実現した鳥坂先輩や内海課長のキモさでしょ。
あのいつも小鼻をおっぴろげたムッツリスケベなたくらみ顔は、思わずはっ倒したくなる。こまっしゃくれた中学生根性がいつまでも抜けきらない、そういうアレです、新海誠の顔は。
『君の名は。』で売れたからイキリオタク、子供のまま全能感をかなえる権力を持ってしまったという意味です。
だから今の新海誠は…すごく…鳥坂先輩や内海課長ぽいです。
でも現実にはあんなフィクションみたいにではなく、オタクの全能感をリアルで実現するととても見られたものではない、あの新海誠の表情のように、てことが分かる。
その内面性が露骨に不快感として表出する。ゆうきまさみの漫画に描かれてるオタクの全能感なキャラ、鳥坂や内海はファンタジーで、(多少はキモさを自覚して自嘲気味にリアリティを込めてるつもりでも)実はまだ足りない、身贔屓なファーブリーズをして美化していたのだ。

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