7/17 2024

行為は行為になった時点で行為主体を離れる。そこに主体の意図はもはや介在しているのかは甚だ怪しい。行為は既に進行しているからである。

冴えない男が女と仲良くなりたいと思い、話しかける機会を伺っていたら警察に取り囲まれているということはあり得る。本人はそれがストーキングとさえわからない。自身が加害性そのものであるということは彼にはわからなかった。

トルーマンは原爆の投下を指示をしたが、それで亡くなった全ての命の全貌を知ることはできない。原爆が戦争を終わらせた、ということはなく裕仁があの時代に世界が侵されていた帝国主義という熱病に浮かされることなく毅然として平和という幻想に舵をとっていたら、全く別の方向に世界は進んでいたのかもしれない。

責任は行為というプロセスの中で発生しうる。行為主体が負うのは主体の意図が行為を方向づけるところによる。主体が全く思っても見なかった結果が発生したとして、それが過失なのか意図によるのかで罪状が変わるのは、そのためである。

行為は現実を全く変えてしまう契機を孕んでいる。意図は現実には及ばないが、行為の方向づけに役立つ。

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