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「病気にならないと休めない」という現代病

吾輩は猫を被ったニンゲンである。名前はぽん乃助という。

私は、旬の過ぎ去ったこのタイミングで、新型コロナ患者になった。

これまで罹ったことがなかったので、「私だけは特別だ」という主人公補正を感じていたものの、無惨にもその幻想は散った。

家から近くのクリニックでPCR検査を受けに行き、騎士のように重装する医者から爆弾を解体するかのような扱いを受け、その後、「あなたは陽性ですので5日間は外に出ないでください」という宣告を電話で受けた。

宣告を受けたその日は、頭の中からハンマーで5箇所くらい叩かれてるくらい頭痛がひどく、言葉どおり布団の中でうなされていた。

そんな瀕死状態が嘘のように、翌日は一般的な家事がこなせるくらいには、体調が回復することになる。

会社には陽性が判明になった直後、瀕死状態の中で連絡を入れて、火曜日から金曜日まで休むことになった。

ゴールデンウィーク・夏休み・年末でもないのに、こんなに連休があるというのは、天然記念物級の逸物である。

とはいっても、コロナによる症状には波がある状態が長びき、体力が50〜85%の間を行き来していた。

当然出かけることはできないし、本を読んだり勉強したりするのが、ギリギリできないくらいの気力であった。

そうすると、基本的には布団で寝て過ごし、起きたら動画を見たりゲームをしたりして、軽くご飯を食べてお風呂に入ったらまた寝る。

こんなに休んだの、何年ぶりだろう。

でも、ちょっと待てよ。普段の休日のとき、しっかり休めていた日などなかったのではないか…?

私は、普段の休日を振り返ることにした。

⚫︎とある金曜日(決戦前夜)

「よし、なんとか今週の仕事が終わった。今日は金曜日…いわゆる華金だ。」

帰途につくと、明日には待望の休日が迫っていることを実感する。

「ダラダラ過ごさず、明日は最高の休日にするぞ!」

疲れた体が電車で揺さぶられながら、アルコールで顔を紅潮させる人の群れの中で、私は心にそう誓った。

そして、家に着くと眠気が猛烈に襲ってきて、布団に横になると気づけば朝になっていた。


⚫︎とある土曜日(決戦当日)

時計を見ると、いつも早起きできているのが嘘のように、無情にも10時を指し示している。

なのに体はだるくて、スマホをいじっていると、気づけば12時になっていた。

溜まっている家事を忍者のようにこなし、朝昼兼用で冷凍食品をレンチンして、急いで頬張る。

そして、家を出るのは14時前。できることは、もう限られている。

あてもなく、街に繰り出し、ウィンドウショッピングを楽しむ。

「あ、そろそろnote更新しなきゃいけない!!」

急いで喫茶店に入り、甘いものを食べつつ、執筆する。

気づけば、夜19時。

「ああ、せっかくの休日がもう終わってしまう。」

家に帰り、夕食を食べながらテレビを見ていると、夜23時。

「あぁ、休みなのに全然満たされていない。明日は日曜日だし、ちょっとゲームでもするか。」

そして、夜更かしへ…

おわかりいただけただろうか…?

いつもの休日では、「充実させたい」という気持ちもある一方で、それとは矛盾する「休みたい」という気持ちもあり、非常にアンビバレンス(両価的)だったことが多かった。

なぜ、せっかくの休日なのに、気持ちが安定せずに疲れてしまうのか。

理由は簡単だ。「“せっかく”の休日」だと、思っているからだ。

もっと具体的に言えば、平日の5日間で働いて失った何かを、休日の2日間で取り戻そうとしていたのだ。

私は気づいたのだ。新型コロナに罹るよほど前から、「病気にならないと休めない」という現代病に罹っていたことを…。

ビジネスの自己啓発本では、「休日の過ごし方で他人との差がつく」とよく煽られているけど、休日まで他人と比べて焦燥感に駆られる必要なんてどこにあるのか。

そして、布団の中で悠久の時を過ごす私は、これからどう休日を過ごすのかを考え、結論を出した。

それはシンプルで、「充実させる休日」と「とにかく休む休日」のどちらかにするということだ。

特に、「充実させる休日」は、後から自分のことを責めないように、理想どおりいくわけがないという前提で臨むこと。

そうすることで、本当の意味での「休日」が帰ってくるように思えた。

私はいま、noteを綴りながら、右手でコーヒーを啜った。

「あれ、味がしない。ただの水のようだ…。」

新型コロナから完全回復できるのは、残念ながら、まだまだ先のようだ…。


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