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spirit


外に出る

わたしの家から向こうまで車で1時間もかからないから、ほんとうは彼に迎えに来てもらわなくてもよかった。

車は角を曲がってきて、目の前でとまった。

紺色でごつごつしてる、男の人が好きそうな車。

彼は運転席からおりるとトランクをあけてわたしの方へむかって来た。

アルファベットワッペンのついた大きめの上着。

腰を落としていないワイドデニム。

「荷物これだけなの?」

驚いた、というよりは考えなしで幼いと思ったんだろう。

彼について知っていることといえば名前と年くらいで、他のことは何も知らなかった。

肩にさげていたトートバッグの持ち手をぐいとつかむと、片手で運んでトランクのすきまにつめてくれた。

車の中にはサングラスやラッパーのようなキャップがぶらさがっているけれど、むせかえるような香水や芳香剤のにおいはしなかった。

バニラとか、マリンみたいなにおいがしたら最悪だ。

山道じゃなくても吐いちゃう。

向こうのお母さんとは昨夜電話であれこれ喋った。

声に違和感はなかった。

おぼろげな印象と一致する、覚えておきようがないやさしい感じ。

いつ会ったことがあるかも覚えていない。

「後から買い揃えればいいけど、なにを用意しておけばいいか若い子のものは分からないから。どうしても必要なものは持っておいで」

スマホを耳にあてながら、はい、はいと返事をする。

何も考えず床や机に出ていたものをボストンバックにつめた。

電話を切って我に返ると、荷物を適当に入れたせいでボストンバッグのチャックがしまらない。

かばんと目が合い見つめあう。

てん、てん、てん…。

変な形にふくらむカバンを見て、はしゃいでいるみたいだと思った。

そう思われたら嫌だと思った。

荷物をすべて取り出してボストンバッグを押し入れにしまって、そこから最低限だけ選んで大ぶりのナイロントートにつめこんだ。

洋服はほとんど入れてない。

おしゃれしてまで会いたいと思える人がいるとは思えなかった。



座らされたのは助手席だったから自然と外をながめた。

誰も会話をはじめようとしなかった。

身がまえていた緊張が時間とともに流れていく。

見慣れた風景をはじめて見たかのように熱心に見つめる。

車が山の中に入ると木と、道ばかりの世界になって、さらに意識が広がる。

間引きされて等間隔に並ぶ木たち。

光を求めて上へ上へと伸びている。

さっきまで感じていたまぶしいばかりの太陽は、枝葉にさえぎられ十分には届かない。

縦横無尽にすすむ車に体の揺れだけが同調する。

ゆるやかなカーブが続く。

「このあたり木こりの森らしいよ」

後ろに座っていた彼の友達だという男が言う。

トランクにあった大量の荷物がこの男のものだということは、ミラーを見るだけで分かる。

わたしは後ろを振り向かずに顔だけ動かして運転している彼を見つめる。

彼は視線を前へ向けたまま、なにも言わない。



家の前の広場に車をとめて、ゲートをあけるために外へおりた。

敷地の入り口にある門に近づくと、扉の上には 「山のきこり」 とかかれた木の看板があった。

両側をこんもりとした木の葉におおわれていて、目の前まで来て見上げないと気づかない。

その下に青い雨除けの屋根がついていて、ぴかぴかしてなんだか可愛い。

ホームセンターに売ってそうな、胸の高さまでの鉄の黒い格子扉。

木こりの家なのに。

扉まわりは同じ色のフェンスになっていて、左側にはアルミの郵便ポストとインターフォン、「一期一会」と書かれた鉄の板がくくりつけてある。

右側には鳥の巣箱、輪切りの木…小さな飾りがたくさん。

木こりらしいアイテムだとようやく思った。

「こんにちは」

「お遣いをしに来たことありますけど、左半分しか見てなかったから木こりのおうちだって知りませんでした」

「上の看板も木に隠れてるし」

丁寧にあいさつすることが恥ずかしくて、家から出てきたお父さんに見たままを伝えると、お父さんは門の左側を見た。

目を開いて、驚いたように胸を少し膨らませる。

お父さん、左側用に飾りを作るかもしれない。

「家に入ろうか」

後ろにいた彼がゆっくりした動きで私に近づき、無表情で言った。



荷物を置いてリビングに通してもらった後は、何でもない時間が流れた。

人の家のにおい。

さかなの絵。

マッサージチェアに、雑誌や新聞ののったガラステーブル。

部屋全体が薄いレモンイエローに見える。

時計の針のおと。

太そうだ。

勝手口からのぞく太陽の名残。

友達はすぐに釣りに行ったようだったし、彼はいっこうに口を開かない。

スマホもいじらず黙ったままソファに座っている。

視線をあわせたくなくてわたしはカーペットに直接すわった。

自分の言った言葉を思い出す。

そうか。わたし小さい頃ここにお遣いに来たことがあったんだ。

思い出せるのは、あのころ自宅にあった紺色の軽で来たことと、さっき見た玄関の左側と、玄関の前がアスファルトじゃなく砂利だったことだけ。

誰に会ったのか、何をしにきたのかも思い出せなかった。

車内と同じ無言の空気に耐えられなくなって、家の中にいるはずのお父さんを探しにいった。

特に話すこともなかったから、作業場を見せてほしいと頼んだ。

さっき玄関にあったような飾りを作るための作業場があるんじゃないかと思ったから。

それなら、と言ってお父さんは木を切り出すための開けた拠点のようなところへ案内してくれた。

家の前を通り過ぎて少し歩いて、わき道を入っていく。

家の横の倉庫にぽつんとあった荷台を、わたしに運んでいくように言った。

木を乗せるにしては小さな、板でできた平らな荷台。

わき道は、入り口はせまいけど入ってしまうとそれなりに広くて、見渡せるかぎりはなだらかな一本道だった。

やや下り坂になっていて気を付けないとスピードが出そうだ。

このあたりはカーブが多いけど、どうやって荷台の進路を変えたらいいんだろう?

道のかたむきに関係なく右に転がっていこうとする荷台をよそに、へりをつかむ手に力をこめる。

無理やり進路を修正してみようとしたけれど効果がない。

お父さんと彼はわたしの後ろをついてきている。

がらがらと車輪が空回りしそうな音がする。

わたしの足もはやくなる。

焦ったけど声が出なかった。

腕全体に力を入れていたから後ろを振り返ることもできない。

目だけ先回りして進路を確認すると、おりて行ったすぐ先に受け手になりそうなくたびれた木の枠組みが見えた。

わたしは気を付けながらそこに荷台を滑り込ませた。

右に寄りすぎて枠組みとぶつかった。

衝撃のせいか荷台に乗せてあった麻布がふわりと広がって、枠組みとの間にはさまってしまった。

荷台も枠組みも壊れていないけど、お父さんが近づいて来るのを待って「ごめんなさい」と伝えた。

お父さんは荷台をじっと見つめて何かを考えた後に、ななめ後ろを振り返って、「あれを気にしてあげるのはお前の仕事だぞ」と彼に言った。

「あれ」と言った時に指さしていたのは荷台じゃなくて薄い麻布だった。

彼は少し大股になって坂をおりてきながらわたしの目をまっすぐに見た。

「もう一回やって」とわたしに言って、荷台をつかんで戻そうとする。


ここへもやって来る

家に帰ろうとわき道を戻るとちゅうで、かすかに物音が聞こえてきた。

木立ごしに音のありかを探ると、その音は家がある方向から聞こえてくるようだった。

山の中でもこのあたりにだけ何軒かの家が集まっている。

地面が段々になっていて日当たりもいい。

みしみしっ、わさっ、わさっ。

誰かが木を切っているのかな?

山の中で切ればいいのになぜ家の近くで?

邪魔な木なのかな?

家の前の道に出ると、重なる屋根の間から揺れる枝葉がのぞいた。

数秒おきに揺れる葉の動きにあわせて、どこからともなく「ぃよいしょーっ」と野太いかけ声が聞こえる。

道幅はそう広くない。

何回か揺れた後に木は道路にまたがって、木こりの家の方へ倒れた。

太くはないけれど山の中に生えているものと同じ、まっすぐな木。

てっぺんにだけ生えている葉の部分が、木こりの家の隣の家の屋根にもさっと重なった。

ようやく家の前にたどりつくと、木は道路を挟んで反対側の家の敷地から生えていたらしかった。

近所の人が物音を聞きつけてか集まってきた。

木は、岩のようなかたまりの根ごと、土から離れて横向きになっていた。

…倒したのではなく、倒れた?

木が生えていたすぐ横の、波うったぺらぺらの壁がはがれている昔の家。

その壁についていた錆びた茶色の電気メーターが、ぼろぼろと固い砂のように崩れて空にのぼりはじめた。

声も出さずに驚いた。

むきだしになっていた古い木の壁もぼろぼろと崩れて、家には大きな洗濯機くらいの穴があいた。

薄く光がもれている。

壁にあいた穴を見て、中に人がいたら危ないと誰かが言い出した。

大人は反対側の入り口にまわるようだった。

わたしは靴のまま壁の穴から家に入った。

こんなに近くの家なのに、誰が住んでいるか分からないものなのかな。

中に入ると、目の前の光景に頭が追いつかなかった。

時代をさかのぼったような違和感。

広い和室ほどの空間の中に、物があちこちで積み重なっている。

何が入っているのか分からない大量の箱。

中身はすかすかなのか、箱がつぶれて紙の部分が茶ばんでいる。

外と変わらない部屋の空気。

水回りは手を洗うような蛇口しか見当たらない。

一番奥の、すりガラスごしの暗くなっているところが入り口だろうか。

近所の人と見わたしてみても人の気配はなかった。

わたしは部屋の中央で、積み重なったがらくたを倒さないように、誰だか分からない近所のおばあさんと向き合う形になっていた。

おばあさんは頬を片方の手のひらで支えながら遠くを見ている。

机に積み上げられた古い紙。ガラスのコップ。

高齢の人の住まいだったんだろうか。

ほこりが積もっていることが目で見てわかる時点でそれなりに経過しているのでは。

どこを見ても均一にほこりをかぶっているということは…人がいたとしても…。

なんで電気はついていた?

考えたくないけれど、室内を見回したくないような恐怖が襲ってくる。

見たら目に入るのは?

見つかるのは?

見つからないということは?

目の前にいたおばあさんが背後を振り返って「ここにおったわ」と言った。

積み重なった箱の後ろの壁ぎわで、薄っぺらい白い布団に、髪も服も真っ白けっけの老婆が横たわっていた。

布団と同じ気配の老婆。

ぱっと見ただけで生死は分かる。

おばあさんは布団の横に膝をついて身をかがめると、ためらわずに老婆の頬を両手でそっと包み込んで、「死んでる」と言った。

おばあさんのしぐさのおかげで怖さが少し減ったような気がした。



老婆と老婆の家のことは近所の人に任せた。

お父さんは「電話をかけてくるから」と言ってこわばった表情で自宅へ戻っていった。

あたりはすっかり暗くなっていた。

ついて戻ろうと道に出て、錆びた電気メーターがあった場所にまわってみた。

崩れた壁は残っているのに電気メーターは跡形もなかった。

いつの間にか倒れた木もどこかへ移動していた。

外から見る老婆の家の光は、さっきよりまぶしく感じた。

無意識に足元の枯れた雑草をつま先でほじくる。

靴の角が地面に当たらずになかなか掘れない。

ふと我に返って今度こそ帰ろうとすると、急に老婆の家の中から癇癪のような怒声が聞こえてきた。

その怒声が老婆のものだということは瞬時に理解できた。

姿は見えない。

老婆は怒っている。

死んでいるのに。

「お前のせいだからな!」みたいなことをわめいている。

わたしに向かって。

他の人の声は聞こえない。

耳をすませていると、老婆の家から老婆の脳だけが飛び出して、入り口の段差を転がり落ちて道に出た。

何から考えていいか分からなくなった。

ピンクで少し白で思ったより丈夫なんだな脳みそ。

小さくとびはねながら、怒ったようにこちらに向かってくる脳をみて(これは呪いになる)と思った。

道路に立ちつくしたまま家の中の老婆に向かって叫んだ。

「なんでよ?!もういいじゃんよ!」

老婆は家の中から「いや!お前のものだ!」と叫びかえしてきた。

脳はわたしに向かってとびこんでくると、わたしの体の中に消えた。

脳はなぜか半分だった。



わたしは木こりの家に戻って夕飯をごちそうになった。

ご飯を作ってくれたはずのお母さんの姿は見えない。

ハンバーグにサラダ、白ごはん。

みそ汁じゃない汁。

サラダも汁も具がたくさん入っていておいしい。

でもなんだかつらい。

お父さんは一階の和室にこもってそわそわしている気配があった。

何度か出てきて気にかけてくれたけど、話しかけてほしくはなさそうだった。

お皿は洗っていいか分からなかったから洗わずにシンクに置いた。

水につけておく桶のようなものがあったからそこにいれた。

ご飯よりも脱衣所の方がよその家の気配が濃かった。

水のにおい柔軟剤のにおい。

知っているようで知らない人たちのにおい。

お風呂に入るのは少し怖かった。

一人の時間はもうたくさんだった。

明るい家。

木こりの家とは思えない普通の家。

体が重いという感覚

人心地つくとお父さんは「タバコ吸いに行くか」と言って彼やわたしを連れだした。

わたしが家から履いてきたのはハイカットのコンバースだった。

風呂上がりにハイカットは履きたくない。

サンダルも持ってこればよかった。

どこに行くのかと思ったら玄関を出て数秒の、車庫の前の広くなった場所だった。

山のきこりの看板の内側。

車庫にも門の外側にも明かりがついていたけど、木の葉のせいでところどころ暗黒みたいな影を落としている。

お父さんも彼も当たり前のように地面に座ってタバコを吸いはじめる。

じっとしていると辺りに目が慣れてくる。

立ったまま耳をすませた。

門の向こうの道の気配。

まばらな明かり。

音を吸う夜と森たち。

思わず顔を上げてそちらに意識をかたむける。

ここでタバコ吸うの好きなの分かるな。

落ち着く。

門の内側にいる安心。

暗闇で目を開くここちよさ。

音よりも気配の強い、音のない世界。

お父さんと彼も同じ場所にいながら別々のことを考えている。

彼は相変わらずだから考えていないのかも。

わたしはタバコを吸わないけど、この時間を共有するのは毎晩だって悪くない。

通りの方から人の声がしてきたので扉に近づくと、さっきのおばあさんと老婆がゆっくり坂を上がってくるところだった。

スポットライトが当てられたかのように薄オレンジの街頭があたりを広く照らす。

どうやら老婆は酔っぱらっているようだった。

どこかおぼつかない足取り。

千鳥足というのか。

二人でぽつぽつと、足元を気にしながらおだやかに言葉を交わして歩いてくる。

老婆、生き返ったの?

さっきまで白装束みたいな薄っぺらい布を身に着けていたのに、今は白い上下の洋服を着ている。

横に並ぶさっきのおばあさんは、遠くにある何かを思い出しているかのように薄く口を結んでいる。

わたしは扉に手をかけたまま、扉をあける勇気が出ずに老婆の顔を凝視する。

どれだけ見つめても生きている気配のしない、ハリボテみたいな老婆。

老婆とおばあさんは何も言わずにわたしの横を通りすぎる。



もういい、もうダメだ。

もううんざりだ。

終わりだ。

ここに来てもダメだった。

ここに来たってダメだった!!

わたしはわたしのままで、見えているものと見えてはいけないものの区別もつかない。

他の誰にも見えないのに。

他の誰にも見えないのに!!

目で見たものを信じるといつの間にか一人の世界に取り残される。

見えないものの気配も濃くなっていく。

驚かないように、誰かを驚かせないようにすることに必死で心を閉じ込める。

考えたって気づけないのに考えてしまう。

それをやめてしまったら、楽になってしまったら、きっとみんなの世界とわたしの世界は離れてしまう。

わたしの世界はどこにある?

いつの間にかわたしは山の方へ向かって歩いていた。

あたりは真っ暗だった。

逃げていたのかもしれない。

何かを断定してしまうことから。

何もかもどうでもよかった。

どれだけ時間がたったのかも分からなかった。

もう何でもいい。

どこかに行けるなら。

歩き続けて違う世界へ行きたかった。

わたしはわたしをどこかへ置いてきたかった。

止まったとたんにわたしはわたしに追いつかれてしまう。

逃げている間は少しだけ苦しくない。

その「少しだけ」のためにずっと逃げ続けることになっても。



ゆっくりと

ゆっくりと

意識が視界に戻ってくる。

ほんの数ミリ明るくなっただけで、視界が闇夜に慣れただけで、まだ暗闇の中を歩いていた。

舗装された細い一本道。

道の両はじがぼんやりと光って見える。

朝日がのぼりはじめたのかと思った。

いつのまにかけわしい傾斜をのぼって、小さな峰の頂上近くにいた。

振り返ると、のぼってきた山全体がぼうっと見渡せた。

広大に続く山々の中で、わたしのいる山だけが、観光地の桜のスポットライトみたいにピンクと青でふちどられたように光ってみえた。

思いはいつも、後からわたしをいさめにやってくる。

老婆ははじめから生き返っていなかった。

木は倒れたけど倒れただけで。

家は壊れたけど壊れただけで。

老婆は死んでいただけで。

さっき老婆がよっぱらって見えたのは高齢だからだった。

年をとった人が坂をのぼるとああ見えるんだと不思議に思った。

わたしはわたしの感覚をさかのぼった。

老婆はきちんと死ぬために戻っていくところだった。



今度はいやだなんて思わなかった。

ただかぶりを振った。

いやいやと。

こどもみたいに。

山が光って見えるのは精霊がいるからだった。

山の中にいる家族は、お父さんも彼も老婆も精霊で、わたしも精霊で、精霊じゃなくてもいい。

大きなくくりの一つになったんだ。

だから光って見えるんだ。

森はただ光っているだけで、笑っているだけで何も言わない。

ああ、大丈夫なんだ。

手に入れたんだ。



目が覚めると布団の中にいた。

パジャマを着ていなかったけど、パジャマを持ってきていないことを思い出した。

時計の針は昼すぎをさしている。

階段をおりてリビングに入ると、お父さんと彼が同時にわたしを見た。

彼はソファに座っていた。

キャップをかぶっていたから、一瞬心配そうな顔をしたようにみえたのはわたしの錯覚かもしれない。

わたしはソファにすわろうか少しためらって、カーペットに直接すわった。

どんな表情をしていいか分からなかった。

ガラスのテーブルはわたしを隠してくれる気はなさそうだった。

「サンダル、いらないやつがあったらちょうだい」

わたしは彼に言った。

帽子をたくさん持ってるから、サンダルもたくさん持ってるんじゃないかと思った。

彼はわたしを見ている。

いつもと同じよくわからない顔をして。

彼は立ち上がると、「買いにいくか」と言って私の腕をつかんだ。

香水のにおいはしない。

どうしようもなく泣きたくなった。

わけのわからないものが体の中をかけめぐって、胸を押しつぶした。

タバコを吸うくせに車の中がタバコのにおいがしないのは、木こりの息子だからかもしれない。

車庫の前のアスファルトの上でしか吸わないのは、森が燃えたら困るからかもしれない。

わたしは当たり前のことを何も考えてこなかった。

彼がわたしの腕を引っぱったときに笑ってみえたのは、わたしの妄想かもしれなかった。


あとがき

・2023年3月に投稿した物語の再掲です。
・3つに分けて投稿していたので、1つにまとめました。
・読んでもらえたらとても嬉しいです。

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