全身野球魂 長谷川良平

全身野球魂書影

著者 堀 治喜
発行 文工舎
2007年7月29日初版第1刷発行
 A5版変形 128ページ 本文・写真モノクロ
定価 1254円(税別)

目  次

目次.001

❋この原稿は上記の著書に修正加筆したものです。


          

序章

          ❋
 平成19(2007)年4月3日、広島市民球場。広島東洋カープの地元開幕戦が、これからはじまろうとしていた。
 すでに葉桜になりかけているとはいえ、隣接する広島平和公園や元安川の護岸では、あいかわらず花見の饗宴がつづいていたし、5日後に投票日をひかえた広島市長選の各陣営が人出をねらって街頭宣伝にくりだして、開幕戦のにぎわいに華をそえていた。春とはおもえない暑気をはらんだ夕刻の日差しが、そんなすべてのことに熱をはらませ、今シーズンのペナントレースの盛り上がりを予感させるようだった。
 4日前の3月30日、セントラル・リーグはいっせいに開幕した。カープは京セラドームで阪神タイガースと対戦し、エース黒田博樹の好投と中継ぎ陣の踏ん張り、そしてクローザー永川勝浩の好救援で4対1と勝利し、今シーズンの充実ぶりをうかがわせた。しかし、つづく2戦目に、ルーキー青木高広の好投むなしく2対3で惜敗すると、第3戦も大竹寛でおとして2連敗。この日、横浜ベイスターズ相手の地元開幕戦は仕切り直しのゲームとなった。
 開門は、午後4時半。まだ少し時間があった。
 正面玄関の左右に並ぶ売店のブースに群がるひとだかりを横目に、球場をひとまわりしてみた。三塁側内野指定席から内野自由席のゲートあたりに、それほどひとは群れてはいなかったが、商工会議所ビルに接する広場から裏にまわってレフト外野席のゲートの前まで行くと、そこには幾筋もの長蛇の列があった。整然とならぶ入場待ちのひとだかりは、隣の青少年センターの敷地から、さらに奥の児童公園まで、蛇行しながら連なっていた。
 ひとびとの表情は晴れやかで、どこかそわそわしている。それはそうだろう、きょねんの10月中旬にペナントレースが終わってからほぼ半年間こころ待ちにしていたシーズン、地元での開幕ゲームが、いまようやくはじまろうとしようとしているのだ。
 球場の外周をひとまわりしてから、正面の広場にもどった。すると玄関の前に見覚えのある物腰の初老の男の背中があるのが目にとまった。男はカウンターごしに、家族チケットを手配する係の若いスタッフとやりとりしていた。
 それは顔見知りのT氏のようだった。
 小柄なからだの、どこか様式じみた身ごなし、なによりも他の観戦客とは異質な雰囲気が、その存在感をきわだたせていた。
 いつも身につけているもの、カープのキャップとか、往年のカープ選手のサインで埋めつくされたスタジアムジャンパーとか、グッズであふれかえっているバッグとかで装った“カープモード”ではなく、使い古してくすんだようなオーバーコートにアイヌ模様のヘアバンドといういでたちだったが、やはりまわりのファンからは異彩を放っていた。それは球団の誕生からこのかた、60年ちかくカープの試合を全国の地方球場まで追いつづけてきたかれに染みこんでしまった、ある種のにおいといってもいいものかもしれない。
 男の背後に歩み寄った。
 カウンター越しに若いスタッフからチケットを手渡された男は、独特のゆっくりとした身ごなしでふりかえった。やはりT氏だった。
「おや、おひさしぶり」
 ことばではそういいながら、べつにT氏は驚いたふうもなく、バッグのショルダーを肩からかけなおした。
 おたがいに、この日この場所で会えるかもしれないことは頭のすみにあったから、それはこちらも同じだった。
 「きょう来られたんですか?」
 「さっき、新幹線でね」
 博多からやって来たT氏は、ちかくに宿がとれず、歓楽街のはずれにあるビジネスホテルになってしまったことをぼやいた。
 「やれんですよ」
 3連戦のみっかを、かなり距離のあるホテルから歩いて通うことをおもってか、T氏は照れたように苦笑いした。
 ふたりは申し合わせたように肩を並べてライト側の外周を歩き、4番ゲートからライトスタンドへと出た。
 一塁側内野自由席。ここがT氏がいつも観戦する“指定席”なのだ。
 昔からのカープファンが、なんとなく集まってきて、おもいおもいのやり方で応援をする。あるものは笛を吹いて音頭をとってみたり、またあるものは景気づけに大漁旗を泳がせてみたり、そしてあるものはシャモジをかき鳴らしたり……。しかし、かれらは、けっしてほかのファンに同様の応援を強要するようなことはない。ゲームを楽しみ、選手の好プレイをほめたり、ミスに毒づいたりしている。そして、たまにタイムリーヒットともいうべき絶妙なヤジで、やんやの喝采をあびたりしているのだ。そこには、ファン同士の会話があり、笑いがあった。
 いま広島市民球場の主流となっている応援。ゲームの展開には関係なく、機械的に運ばれる段取り。内容とは別次元に、のべつ幕なしに強要される狂騒。最近の外野スタンドの応援スタイルを、どこか苦々しくおもっているようなところもあるT氏たちは、いつからか外野スタンドから距離をおきだしたのかもしれない。
 カープというチームが60年ちかくの歴史のなかで、いくつかの変遷をしてきたように、そこに在籍した選手たちはもちろん、それをとりまくファン気質も変わってきた。草創期からのファンと、いまのファンの主流は、あきらかにちがっている。スタンドから汚いヤジが消えたかわりに、なにか温もりのようなものも失われつつあるのかもしれない。
 フェンス越しのライトの守備位置に、ベイスターズの外野手・古木克明がいた。いまケージに入ってバッティング練習をしているチームメイトの球拾いをかねて守備練習をしているのだろう。マウンドでは背番号107、サウスポーのバッティングピッチャーが投げていた。センターあたりには、投手陣だろうか、のどかなストレッチ風景があった。
「ことしの沖縄では、だれが目につきました?」
 春の沖縄キャンプで会えればと願いながら、こちらの都合で叶わなかったお詫びのつもりでT氏に聞いてみた。
「嶋でしょ。目の色がちがいましたよ」
 平成16(2004)年に打撃開眼した嶋重宣は3割3分7厘の打率で首位打者となったものの、それから2シーズンを低迷したまま終わっていた。
 2月の寒暖混じる風が吹く沖縄市営球場のバックネット前で、一心にトスバッティングする嶋の姿が目にうかぶようだった。
「きゃつはことしが正念場ですもんね」

 T氏と知り合うことになったのは、平成11(1999)年のこと。カープ球団創設50周年記念にあわせて歴代OB50人のレジェンドをリストアップして編んだ本の出版記念パーティを広島市内で開いたさい、どこで耳にしたのかT氏が博多からかけつけてきた。
 ゲストとしてカープOBの長谷川良平、長谷部稔、阿南準郎、渡辺弘基、高木宣広の各氏が参加してくれて、ひな壇で思い出話を語り合ってもらった。その質問コーナーでT氏がマイクを持った。
「長谷川さんが殿堂入りしとらんのは、おかしいですよ」
 T氏は開口一番、だれにともなく抗弁した。
 それまであたりさわりのない歓談のようだった席が、一転してこわばった。当の長谷川も、とまどったような表情をしていた。
「じぶんは福岡ドームで会う記者会う記者にそういってるんですよ。長谷川さんはカープの宝というだけじゃなくて、球界の至宝でしょうが」
 いっとき間があって、宴席から拍手がわいた。会場を占めているのは自他ともに認めるカープファン。そのほとんどが、かうつにも長谷川の野球殿堂入りをそれほど意識してはいなかったのだ。
 それから2年後の平成13(2001)年、長谷川は殿堂入りをはたしている。その報せをT氏は、万感のおもいでかみしめたことだろう。

          ❋

 そのうち一塁側ダッグアウトからカープの選手たちが出てきて軽いアップをしたあと、ふたりひと組になってグラウンドでのキャッチボールとなった。外野の芝の緑と、たっぷりと散水された内野の黒い土とのコントラストにのうえに、選手たちの影が長く伸びる。西陽はかけ足で傾きはじめていた。
 ざわついてきたスタンドに、場内アナウンスが流れた。
 「市民球場は、おかげさまで開場50周年をむかえました……」
 場内からは拍手も感嘆もなく、そのマイク音は場内のざわめきの上っ面をかすめて天空に消えたようだった。ゲームの開始を待つ興奮したスタンドに、そのことの感慨にひたっているものはいそうにもなかった。
 広島市民球場の開場は昭和32(1957)年7月22日、その2日後の24日に『大阪タイガース』を相手にオープニングゲームが行われた。先発のマウンドにあがったのは長谷川良平だった。1回にいきなり野手のエラーに足をひっぱられて1点を失った長谷川は、3回にも3失点して降板し負け投手となっていた。
 あれからすでに半世紀。しかし、それ以前の広島県営球場の時代から、T氏はカープを追いつづけているのだ。その気の遠くなるような時間が、頭をよぎった。
 T氏は3才のときに爆心地付近で被爆している。広島に原子爆弾が投下されたのは昭和20(1945)年8月6日、カープが誕生したのは5年後の昭和25年のことだから、T氏が8才のときだ。
 当時、流川に住んでいたというT氏は、国泰寺かどこかの校庭で、カープの選手たちといっしょに遊んだ記憶があるという。後年のようにきちんとした練習メニューが組まれていなかったであろう当時のカープ選手たちは、身近な場所で練習をすることもあったのだろう。砂ぼこりが舞うような校庭で、ユニフォーム姿のカープ選手が、キャッチボールをしたりノックをしたり、ときには息抜きに、あるいはせがまれて、こどもたちと遊んでいたのだ。
「こどものころ、長谷川さんのタマを打ったことがありますもんね」
 T氏の口から、いきなりそんな話がもれた。
—こどもが、長谷川良平のボールを?
 にわかには信じられなかった。しかし、考えてみればプロのピッチャーだろうと隣のおじさんだろうと、そんな小さな子に本気で投げるわけもない。
「わざと打たせてくれたんでしょうが、こどもにはそんなこと関係なかですもんね、うれしかったですよ」
 いまはすっかり板についた博多弁で、T氏は当時をなつかしむ。
「あのころは、選手もファンも野球に飢えてましたもんね」
 『飢餓感』
 そんなことばをT氏は、なんども口にした。
 いま食も情報もあふれかえった飽食の時代に、野球に無心に飢えることのできない不幸。つくづくT氏の時代がうらやましくもあった。
 それにしても、こどもたちと戯れて野球をする長谷川の姿は意外であり、新鮮でもあった。プロ野球人生において、勝つためにはいっさいの妥協をゆるさず、チームメイトとも距離をおいて孤高をつらぬいたといわれる長谷川。そのかれが、こどもを相手に打たせるために手をぬいて投げていた姿、そのくつろいだ表情が、脳裏のスクリーンに浮かんだ。そして、その穏やかな表情とマウンドで孤軍奮闘する姿とのギャップが、不思議な映像となって重なった。
 レフトスタンドの上にかかったアサヒスーパードライの大型広告看板の影がグラウンドをおおい、手前のフェンスまでのびていた。昼間の暑さがうそのように、そのうち冷たい川風が吹きこんでくるだろう。原爆記念日ちかくになるまで、広島市民球場のナイターは冷えこむ。老体のT氏には、その寒さはこたえるだろう。
 わが応援の七つ道具を忍ばせたリュックから手のひらサイズの使い捨てカイロを何枚か取り出して、T氏と分けあう。するとかれは、まだ寒さも来ない前から封をきると、それをおでこに貼って、おちゃらける。いまは博多に住むT氏にとっても、この市民球場が待ちに待った“地元開幕戦”、はしゃぎたくもなろうというものだ。

 そうこうしているうちに両チームの先発メンバーがアナウンスされた。
 先攻の横浜ベイスターズ。1番セカンド仁志(敏久)、2番ショート石井(琢朗)、3番センター金城(龍彦)……。
 後攻の広島東洋カープ。1番ショート梵(英心)、2番セカンド東出(輝裕)、3番栗原(健太)……。
 広島東洋カープのホームグラウンド広島市民球場で、いまから2007年のシーズンがはじまろうとしていた。守備につくためにグラウンドに散っていく赤いユニフォームの選手たちにつづいて、ゆっくりとマウンドに向かう  投手の姿に、私はT氏と同じ校庭で投げていたという長谷川良平の姿を重ね合わせていた…。


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