そこの娘さん、携帯番号を教えて…?
巻1の1
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この丘に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ大和の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 我こそは 告らめ 家をも名をも
雑歌 天皇の御製の歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)]
一般訳
よい籠を持ちヘラを持って、この丘で菜を摘んでいる娘よ。家をいいなさい。名前を教えなさい。この大和の国は、隅々まで私が治めている。すべてを私が統治しているのだ。だから娘よ、お前は教えてくれるだろう、家柄も名前も。
解 釈
万葉集の巻頭を飾る長歌。この歌は一般的には上の訳にあるように〝求婚〟の歌とされているようです。
当時は、家柄や名前を相手に告げることは、その求めを承諾することだったらしく、それでこのような解釈が一般的とされているのでしょう。
雄略天皇が、岡で菜を摘んでいる娘に家と名を告げなさいといっている。いま風にいえば「携帯番号を教えよ」と、ナンパしている図でしょうか。
それにしても、万葉集の冒頭を飾る歌がそんな〝ナンパ歌〟では選者の見識が疑いたくもなろうとちいうもの。
これを万葉時代のどかな男女の交感の叙景として、あるあると納得しているわけですが…、そうはいっても軽すぎ。
高校時代でしたか、学校でこの解釈を聞かされたときも、そんな疑念がわいたのを覚えてます。万葉集の一葉ほどの理解もなかったものの、直感的にそう思ったのです。
雄略天皇は「大和国を治めているのは、この私なのだ」と自己表明しています。それにつづけて、だからお前も「告れ」と娘さんに強要というか促している。それを〝交換〟と理解すれば、たしかに前のように解釈できます。とはいうものの、『天皇の自己表明』と『娘の名のり』とでは等価交換にはなりません。どうみてバランスが悪い。
ならば、告るべき相手が天皇とは別の第三者であると仮定してみたらどでしょうか。すると「私が身分を明らかにしたのだ。つぎはお前が家と名と告る番だ」と、解釈が転換する。ある段取りを進める構図となって、おさまりはよくなるではありませんか。
「告る」は、口にすることが憚られるような呪力のあることばで、ふだん軽々しく使うようなものではなかったとか。だとすれば、この歌は呪力によるある祭祀を詠んだものと考えた方がしぜんでしょう。
雄略天皇が、みずからの立場を表明した相手とはなにものか。そして娘にも家と名を告らめ、といった対象とはだれか。
天皇がみずから宣告する必要がある相手といえば、それは雄略天皇より上位のものでしょう。とすれば神武天皇にまで遡る神あがった天皇霊、そして天降|《あめくだ》った神々しかありません。その神々の前で「告る」ことで呪術的に天皇の霊統と合体しようとしている。あるいは一体となったと宣言する。その祭祀の歌が、この冒頭歌に詠まれた歌意なのではないかと考えてみたい。
娘が持っていると明かされている籠、そしてヘラ。これは男女の性的なシンボルにほかなりません。そこに神聖なものをあらわす接頭語の「み」がつけられている。つまり神聖な儀式のための道具を、わざわざ詠いこんでいる。とすれば、これからふたりは神聖な男女の儀式にのぞもうとしている。そう理解しないほうがおかしいでしょう。
天皇の霊威を得るための儀式をすると天下に表明することで、天皇としての正当性をアピールするための歌。万葉集巻頭を飾ったこの歌は「皇位継承」の儀式を詠ったもの。皇位の継承がテーマだったと考えられます。
この歌を何度か詠じていると、「名」と「菜」とが掛けことばになっていることに気づきます。「名」と「菜」は掛かっている。「菜を摘む」は「名を積む」とも解釈できます。つまり「菜摘ます娘」とは代々、天皇家の儀式にかかわってきた巫女の家系、その出自の娘と見てみたい。
巫女である娘と天皇のまぐわい、寿ぐことによって先祖霊を降ろし、交感する。天皇霊の霊威をわがものとする。その儀式によって得たチカラによって大和を治めよう、と詠じたのでしょう。
そう理解すると、この歌のおおらかさの背後に雄大で森厳な時空が広がって見えてくるではありませんか。
直感訳
神殿に籠ろうぞ、神聖な籠を持って。寿ごうぞ、神聖な篦を持って。代々この皇位継承の神事を司ってきた家柄の処女(巫女)よ。家の名を、そなたの名前を天皇霊の前で申してみよ。そして私と交わるのだ。そらみつ大和の国は、隅々まで私が君臨し、すべてを統治するのだ。いまこそ先祖の霊威をえて正統の天皇として大和を治めていこう。
〈禁無断転載〉
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