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秋山は黄泉の道

二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

秋山越え

巻2の106 大伯皇女おおくのひめみこ

一般訳
ふたりで行っても越え難い秋の山を、どうやってあなたはひとりで越えることができるだろうか。

解釈
大伯皇女が大津皇子を見送ったときに詠った前の歌とセットの歌。ひとり峠を越えて行った弟を見送ったあとの心情を詠っている。

前の歌では「我が背子」とか「大和」とか、具体的な人物や土地をあらわすことばが出てきて、大津皇子の背中がイメージできた。
ところが、この歌には具体的な名詞が見当たらない。大津皇子の姿はもう闇のなかに消えてしまっている。見送る側の大伯皇女も、立ち濡れるという生身の人間としては存在していない。あいまいで、ぼんやりとした幽玄の世界がそこにあるばかりだ。

弟を見送ってその場に立ちつくしていた大伯皇女は、峠の先に大津皇子の背中が消えたとき、弟の行く末を予感している。かれとはもう生きては逢えないことを。

もちろん秋山とは現実の山、季節のなかの秋の山ではない。それは死んだ魂が浄土に行くために越えなければならない黄泉の山のこと。
越えるのではなく行き過ぎなければならない難所。そこをかれはひとりで無事に通過できるだろうか、と薄明にたたずむ大伯皇女はこころが裂かれるおもいで案じている。それはまた、できることなら一緒に逝くべきだったという悔恨の表明でもあった。

この歌の悲しみ、淋しさ、孤独の深さは、現実の山越えに喩えて、死後の魂の旅立ちを背後に詠みこんでいるからこそのこと。それゆえ、ひしひしと私たちのこころに染みいってくるのだろう。

スピリチャル訳
死出の道行きを私も一緒に行きたかったが、それも叶わなかった。あの世への関所である黄泉の道を、あのひとは無事に通って浄土へと行くことができるのだろうか。私は心配でならないのだ。



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