7月19日(火)
夜中に目覚め、読書、うたた寝、読書、で6時半に起床。
夜来の豪雨がいくらかおさまっていた。
が、雨は止まず、朝の農園作業は中止。
古い女の人をI病院に送迎。ヒアルロン酸を両肩に注入される。
「帰りになにか、美味しいものを食べたい」とリクエストされたが、道中にそんな店はなし。仕方なく家の近くの和風ファミレスに寄ったが、案の定落胆することになった。しょっぱい、とはこのこと。
柴田優呼「プロデュースされた〈被爆者〉たち」、東琢磨「ヒロシマ独立論」読了。
前者は映画「ヒロシマ・モナムール」を舞台回しとして用いながら、広島
・長崎と被爆者の表象について考える(著者による)もの。
同映画が日本ではそれほど知名度はないことは感じていたが、欧米などでは現在にいたるまで人気をたもち、格好の研究対象となっているという。それも〝口当たりのいいヒロシマ〟として。
同映画を俎上に著者が広島・長崎の言説、とくに欧米のそれに対する異議申し立てをする切っ先は鋭く容赦がない。〝柴田節〟健在だ。
後者は被爆者としてではない、広島に生まれ育った〝当事者〟による、ユニークなヒロシマ論。
広島を散歩するごとく、ときに世界に足を伸ばしての射程で語られるヒロシマは、例えれば元安川でたまたま拾った石の裏側に奇異な小動物を発見したような趣がある。その石がいたる所に転がっていて、それらをこすったりぶつけたりして生まれるリズムとメロディーが心地いい。
著者の個性・拠ってきたる背景が書かせたことはいうまでもないが、被爆した当事者による原爆文学が屹立する壁をなしたものの、広島の当事者による批評がほとんどなされてこなかった事情が、この著書をユニークなものにしているという側面もあるか。
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