物語による癒やしは万能ではない

昨日、南無サンダーさんの第13回公演見世物音楽演劇『ポイズンゼファー』を観てきた。
一日経って思ったことをつらつら書いてみようと思う。

南無サンダーさんとは?

知らない方のために説明すると「南無サンダー」さんはテント芝居をしている福岡の劇団さんだ。

政府から、コロナウィルス感染拡大を防ぐためと称して様々なイベント関係の自粛が要請され、大手・小規模関係なく殆どの演劇含むライブ・エンターテイメントが中止したりさせられたりしている中、「感染リスクの少ない野外かつ風通しの良い後部を開放したテント公演」にし、来場者へのアルコール消毒等々様々な対策を十分に行った上で、公演を開催したことは本当に価値のあることで、劇団主宰も挨拶で言っていたけど、奇跡的と言っていい公演だったと思う。

彼らの「こういう時期だからこそ演劇を」という心意気は、もっと知られてしかるべきだと思う。

南無サンダーの芝居は今回が2回目。

熱くて、バカバカしくて、激しい芝居が、博多弁が飛び交うローカルかつイノシシだってゴキブリだって和式便所だって生きてるアニミズムな独特の異世界を舞台に繰り広げられる。

私が観たお話はどちらも、社会の枠組みからはじき出されたモノ(人はもちろん物や虫や獣含む)たちが、それでも力を合わせて自分たちをはじき飛ばす世界に立ち向かっていこうとするお話だった。本人たちはどう考えているかはわからないけど、一昔前よく言われた「物語による癒やしの力」みたいなものを体現している様に感じる。

いいなあ、と思う。そういう物語を全身全霊で紡ぐ姿はかっこいいと思う。

思うのだが、個人的には一抹の寂しさを感じてしまうのだ。

はじき出された人々からもはじき出される人

ここから書くことは、私個人が自分の心象について書いているのであって、現実に存在する南無サンダーさんのなにかを説明するものでも、まして貶めるものでもない。

「社会からはじき出された人々が力を集めて社会と対峙していく物語」は個人的には割と好きで、これまでに好きになった物語に多くには、根底にそういうテーマが流れている物語が多い。昔所属していた劇団でも、そういうテーマを持つ物語が多かった。(だからそこに入団したと言っても過言ではない)

私自身が、どちらかといえば社会からずれたはじき出されがちな人間だから、感情移入してしまうというのはあると思う。

そしてそういう物語の果てに、ハッピーエンドがやってきて、その人達が少しでも幸せな状態を手に入れることができることを願い、それが達成された時には嬉しく感じる。

そして、夜がやってくる。

終わってみれば、私には、その人々との接点が無い(というか失われている)ことに気がつくのだ。彼らは集い、語り、殴り合い、理解しあい、苦しくとも悲しくとも力を合わせ、喜びを分かち合い、仲間とともに世界と対峙する。している、してきたし、していくだろう。

では、仮にその物語世界に、私もしくは私に類するキャラクターがいたとして、そいつは彼らと一緒に世界に対峙する仲間になれるだろうか?

なれるとは思えない。私にはそうなるために必要な何かが欠けている。

いやいや、もちろん、物語の中心にいる彼らはそういう差別をするモノじゃない。むしろ差別される苦しみを味わってきているモノ達だから、きっと私に対しても胸襟を開いてくれ、仲間に加えてくれるかもしれない。でも、本当の意味での仲間になれるだろうか?「本当の意味での仲間」とはなにかという前提問題がありつつも、「たぶん無理だろう」という答えにだけは、困ったことに自信があるのだ。

マイルドヤンキーという言葉が流行った時期に出版された『最貧困女子』という本の中に、貧困層の女性にも様々な深度があることが紹介されているけれど、「社会からはじき出されたモノ」にも様々な深度があり、「社会からはじき出された」という共通要素だけで仲良く手を取り合えるモノ達の周りには、それすら出来ないモノ達が隠れている。

「社会からはじき出された人々が力を集めて社会と対峙していく物語」には彼らの居場所はない。私はどうにも、自分がそっち側-社会からはじき出されたモノ達からもはじき出されるモノ-であるという自己認識から離れられない。だから、寂しさを感じてしまうのだ。

物語のよる癒やしの限界

再三言うが、あくまでこれは私の感覚であり、「なにを言ってるだ。絆を信じることが出来ない方がおかしいんだ。」と言われればそれまでの話だ。そのとおりだとも思う。

でも、一方に努力しなくても癒やしを得られる人々がいる、一方では努力しなければ癒やしを得られない人々がいる。とすれば、それはつまり、その癒やしには限界が有るということだ。

もちろん「だから物語には癒やしの力がない」と言いたいのではない。癒やしの力はある。だが、「ある物語に癒やしの力があるからと言ってすべての人を癒せるわけではない」と言いたいのだ。

南無サンダーさんの芝居には物語の持つ癒やしの力があると思う。だが、それでは癒やされない人もいる。

そういう人々に、そういう人々が癒やされるような物語を紡げるのは、誰だろう。癒やされなかった人々自身しかいないのだろうと思う。

今世の中は、コロナの名に託けて、どんどん表現行為が萎縮し、縮小している。そういう時に、真っ先に削られたり、立ち行かなくなるのは、少数派だったり弱い存在のための表現だ。コロナに罹患しない代わりに生きながら死んでしまってはなんの意味もない。

こういう時代だからこそ余計に「自分を癒やす物語がない」という人は、自らが求める物語を紡ぐ手を止めてはいけないのだ。

勇気を持って公演に臨んだ南無サンダーの人々のように。

※と言いつつ、私はまあ、落書きしたり、いつやるかもしれない台本書くぐらいしか出来ないのだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?