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Google検索に両隣はない

4歳くらいの頃にテレビでオロナミンCのCMを見て「ハツラツってなに?」と母に訊くと「この本に載っているからハ行を調べてみなさい」と辞書を渡された。

言われるがままにやってみると「溌剌」およびその意味が本当に書かれていて、驚いた。他にも幼児の知り得るさまざまな言葉で辞書を引いてみたがそこに載っていないものはひとつもなく「この世界のすべての言葉を網羅したとんでもない書物」が民家にある事実に圧倒された。調べても、調べても、どんな言葉でも載っていた。「みかん」も「タクシー」も「そら」もあった。高揚感のあまり少し緊張した。

幼少期の記憶は大抵が希薄だったり霞がかっているものだが、この出来事は衝撃と共にはっきりと思い出される。こんなやばい代物は、国会図書館に所蔵したり、超硬い石にニコ・ロビンしか読めない言語で刻んでおくべきで、平民には手の届かないようにされて然るべきだと思った。

それから辞書を引くことを覚え、ひとつ調べた際にはその両隣の言葉も読んでみるようにしていた。本棚からよろめきながら運んできて、目的の単語を見つけ、しばらくめくって元に戻す。

Google検索に両隣はない。「はつらつ」と打ち込むと0.000001秒くらいで「生気があふれて明るく元気な様子。」にたどり着ける。

自分のよく通っている風変わりなカフェには写真つきのメニュー表がなく、名前からではどんな食べ物なのか想像がつかない。たとえば「米粉のアップルパイ」というメニューがあるが自分が食べた限りではアップルパイではない。

マスターいわく、若者たちはメニューに写真がついていないとわかるとスマホでインスタを開き、ハッシュタグで投稿を調べだすのだという。「写真を載せていないのはコミュニケーションのためでもあるから、味や見た目は訊いてくれればすぐに答えるのに、どうして目の前に店主がいるのに調べてしまうのだろう」と。

自分は基本的には「10秒もあれば答えが見つかる時代なのだから調べればわかることは調べるべきである」という思想だが、スマホを取り出して0と1で構成された解答を瞬時に得るということは、それ以外の答えを得られないということと表裏一体だ。

最短距離で直行すればするほどその性質は肥大化して当然で、飛行機で向かえば車窓からの景色を見ることはできない。どこまで時間を差し出して余白を受け取るかを自分で調整しなければ、いつか全てに追い越されてしまうような気がする。たった今「余白」と形容したものは「無駄」と言い換えることもできる。

近所の川沿いの道が大好きで、そこを歩いていると歌詞や思考の断片が降ってくることがある。もちろん降ってこないこともある。わざわざ20分ほど遠回りをしてその道を通って帰ることは、紙の辞書を引くのが好きな性質と連関がありそう。

何もかもが平面的になっていく
ぼくみたいな奴は滑っていく
突っかかりがないのはぼくのせいかもな



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