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わたしが殺した猫

もうひと月なにも書けなかったのは、仕事が忙しかったのと、猫が死んだからだ。

月は保護猫で、3ヶ月くらいでうちに来た。
姉妹猫と一緒に連れてこられて、わたしを好きで仕方ないというアピールを強烈に繰り返したのは月だけだった。
その必死さと賢さに絆されてお迎えして、以来ずーっと、14歳まで月はわたしを好きでいてくれたし、わたしも月ほど愛おしい、愛すべき、宇宙人並みに意味のわからない猫はいないと思っていた。
要するに、月はわたしにとって、猫というものの極北的象徴だった。

なのでなおさら、自分の身勝手で、その子の寿命を縮めた後悔は尽きない。

月が逝って5日、どうしていいかわからない状態が続いている。
もとよりうちの猫たちは猫より人が好きなタイプなので、ティムは月がいないことより、わたしの虚無感に反応して、寄り添ってくれる。
(ティムは猫というものの別の極にいるのだ。)
その事が殊更に月の不在を縁取る。

月を殺した間接原因である山荘を閉めて家に帰ることは、月をここに置き去りにする事になる気がして、わたしは非合理な感情の波に流される。
その流れに竿挿すために肉体労働に走るので、家が綺麗になり、現実には誰かに利のある日々だ。

帰らないわけにはいかないので帰るし、死ぬわけにももちろんいかないしそんな馬鹿なこと考えてもいないが、しかし、むしろ誰かわたしを同じ目に合わせてくれないかとは思う。し、この後悔は墓まで持っていく。そういうものだと思う。

東京の自分の家だと尚のこと不在が際立ちそうで今から怖い。
ティムの呼吸音に明け方まで耳を澄ませる。

仕事はまさに佳境である。

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