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8月15日

2022年の8月15日は月曜だ。
1945年の今日、日本の第二次世界大戦は事実上終わった。
毎年じぶんが考えたことをFacebookに書いているのを読んで、意外と毎年違うことを考えているなと思ったので、今年も書く。

今年は経済活動における人間の価値と人を殺さない権利についてだ。

地球上に紛地域が一切ない瞬間というのは、いつからないのだろう?毎年、毎日、毎秒、争ったり虐げたり殺したりという行為をどこかでヒトが行っている。
翻って、道にゴミが落ちているのさえ不手際だと思うような暮らし方をできる幸運に今日も髪の先までどっぷりと浸かりきったわたしは、毎食なにかしらの生を貪ってはいるものの、人を殺したことがない。人を殺すのは最大のタブーだと教えられて生きてきた。それどころか、医療が飛躍的に発達した今日、人の死自体を、既に非日常だとすら感じる始末だ。てめえが食らう生き物の死すら他人任せの御大尽人生は、地球規模の富の不均衡から成り立っている。

経済的な視点に立って考えた場合には、十数年生きた人間を死なせるのは膨大な浪費と言える。一説によるとマイワシは一個体で10万個の卵を産卵*1し、2ヶ月後生存率が0.07%らしい*2が、平均寿命は3〜4年、それが結果的に種としての生存戦略たり得るケースと、世界人口の平均寿命でさえも70歳を超えた*3ヒトとは根源的に一個体の集団における意味づけが異なる。もちろん日本やアメリカで人を生産し生計を立てられるレベルまで育てるのにかかる価格と貧困国では大きな差はあるが、平均寿命と同じように、平均値は大幅に上ブレした数字になると予想する。しかも歴史的に見て現代の生産性の向上は明らかだ。つまり、イデオロギーや資源の取り合い、ましてや政治家の野心などという理由で大量に消費できるほど、もはやヒト一個体の種における経済価値は低くないと思うのだが、それでも暴力的手段に訴えて、それも他人の命を使って、自分の意を通そうとするのはいつだって最後まで命を脅かされることのない人間である。

さて、人類はその営為で、長い時をかけ、ようやく同種族間の支配/被支配を抜け、人権と法の下の平等を確立しようとしているわけだが、そういう状況に立った時、自然に浮かぶのは「なぜわたしは未だに人を殺したり殺されたりする状況に陥らされる可能性があるのか?」という大きな疑問である。
誰が何の権利があって?
これがベトナムの頃に発生した「良心的兵役拒否」ってやつなんだろうと思うが、わたしはどちらかというと、良心とかいうより怒りが先に立つ。
その未来を選ばない権利をわたしは持っていると思うからだ。
1948年の世界人権宣言によるならばそれは「す べて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。」と定義される。*4
つまりわたしは自分の生命を危険に晒さない権利をもっている。そして翻っては、他人のそれをも侵さない権利を有していると言える。
この世界大戦の末に人類が到達した合意事項をこそ、この「敗戦の日」に思い返し、むしろ全人類が一つの礎としてもつべきものではなかろうか。
そして暴力での問題の解消を手段として持たない未来を選択したいと思うのだ。

こういうことを言うと理想主義とか言う人は必ず出てくるけれど、愚かさを忌避し理性を信じることをやめてはならないのだとわたしは思う。

あと、「市場経済というシステムと生産性の向上は最終的にイデオロギーを超えて人間社会において個人に未曾有の価値を付与するのではないか」という漠然とした考えについてはちゃんと勉強して答えを見出したいと思っている。

なんとも締まりのない終わりだが、これが2022年の敗戦の日にわたしが考えていることだ。


出典
*1 https://www.hro.or.jp/list/fisheries/marine/att/o7u1kr0000000dcv.pdf
*2 論拠不明 http://www.kaneso22.co.jp/smartphone/page14.html 
*3 https://www.macrotrends.net/countries/WLD/world/life-expectancy
*4 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/index.html

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