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世代という病

ひとまわりくらい歳上で、基本的人格として誠実なので人として信頼している人が、「昭和の価値観」を持つ自分に苦しんでいる。

わたしからみたら彼は、自分が生きてきた旧世代の価値観を、もちろんたまに鼻持ちならないくらい持っているけれど、同時にそれと完全にはフィットしえない自分というものを抱えて生きてきた人に思えるのだ。
なので、なぜ今更マジョリティと同化しようとするんだろうと、常々疑問に思っていた。

しかし、機会を得てちょっと掘り下げて事情を伺うと、傍から見て思っているよりは時代の空気に浸っていた自覚は大きいようで。なるほどなかなか根が深いと思う。わたしだって、じぶんが生きてきた時代に雁字搦めに縛られているのは確かなので。
しかしここでわたしが違和感を感じるのは、自分の価値観を世代で語ることなのだ。
何故なら、わたしから見ると、今、地球規模で起こっているゆすり戻しというのは、男性異性愛者中心の、物理的な力に任せたマジョリティ支配の不均衡の是正でしかないのだ。
もちろんヘテロ男性だって賢い人はたくさんいて、マジョリティの枷に囚われず生きている。
しかし、マジョリティというものの恐ろしさは、「クルッと目の届く範囲を見渡した時に疑問を抱かないでいい」という無意識の視野狭窄に本来あり、それは、今の日本社会において、寧ろヘテロ男性の強者の論理に迎合すればするほど顕著に現れる。
しかしそれは、マクロな視点では、畢竟昭和という時代においてはヘテロセクシュアルなマスキュリニティが主権を占拠していた、という同時代性に過ぎない。
つまり、要するに、ミクロ的にはそれは時代などの問題ではなく、端的に下駄をはかされてその上にあぐらをかいてきた自分、という自覚の問題に尽きるし、それによって自分が負わされてきたものをどう峻別するかという個の選択の問題にもなる(個人的には、実は意外にいいもんばっかでもなかったはずだと思っている)。
今、日本が抱えているのは、天皇が長命だったという理由で続いた時代にリンクする形で語られる「昭和的価値観」がとどのつまり、高度経済成長の名の下に「専業賃金労働者」と「専業主婦」をペアにして家庭に押し込んだいびつの産物(どっちが先かは未検証)であって、決して人類全般の普遍的な福祉には則っていないという事実を、その論理で幸福だったと思い込んでいる人々、つまり取りも直さず下駄はいてた人々と不均衡を受け入れて生きてきた人々が認めるか否か、という極めてローカルな社会問題でしかない。
そうして考えた時に、物心ついたときから自分を取り巻く世間に違和感しかなかった個体としては、ようやく物事が個のレベルに落ちてきたんだなあ、という感慨しかないし、同時に、過去において下駄を履いていたのは主に環境要因によるものであって、自覚を得た現在においてその是正に取り組むのであれば、決して今から全てを責められるものでもない、ということもきちんと認識すべきだと思うのだ。

いま責めを負うことになっている人たちは、それが自分たちが幸運の上に享受していた搾取に現在も無自覚である事実についてであることに気が付いていない。

つまりなにが言いたいのかというと、我々は自分が何をしてきたのか、自ら振り返って突き詰めるべき時代にあるねという事だ。

いいじゃん、みんなで自分の罪を自覚して悔い改めて、ついでに嫌だったことからも解放されて、一緒に幸せになろうよ。
inclusiveってそういうことじゃん?

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