ミニマリストになりたかった

(2018年末の日記より抜粋)

結婚してから約10年。
ずっと不要なものを手放したくて、いろんなものを捨ててきた。

拍車がかかったのは、3・11のあと。
計画停電で、炊飯器を使うのをやめて、鍋でごはん炊けばいいじゃん、と思って、ついでに古いコーヒーメーカーも捨てた。
比較的大きなものを一気に二つも手放して、気持ちがよかった。
そう、ものを捨てることは、私にとってこの上もない快楽だった

一説によると、人は他人から褒められた時にでる脳波と好きなことにお金を使った時にでる脳波が似ているらしい。
それくらい、買い物は気持ちの良い行為なのだと、なんだか納得した覚えがある。

私にとっては捨てることだった。ゴミ出しは最高のレクリエーション。

たくさん捨てれば捨てるだけ、いい人生を歩めるような気がした。

というか、今もそう思っている。私がやたらと荷物を減らしたがることを、夫は「病気だ。」と言った。
そうこうしているうちに、だんだん捨てるものがなくなってきた。

すると今度は、ものを増やしたくなくて買わないようになる。
ちょっといいなと思っても、捨てる時のことをしっかり考えるようになって衝動買いが減った。
人への贈り物も、あとに残らない花か食べ物に限った。

子供が生まれる少し前に、ふたつの大きな出会いがあった。

ひとつは池澤夏樹「スティル・ライフ」
タクシーで引越しができるくらいにものを持たない佐々井さんという若い男が出てきて、この小説を読んだ日から佐々井さんはこの世で一番のあこがれの人になった。

私にこんな生き方はできない。
どこかで分かっているからこそ、ひどく憧れたのだろう。
実在しない人なのに、今でも時々佐々井さんのことを考えることがある。
あれからどんなふうに暮らしているかな、元気にしているだろうか。
大好きだったけど、おそらくもういけない外国の旅先を思い出すのに似て佐々井さんのことを思う時はいつもさみしい気持ちになる。

もうひとつはミニマリズムだった。

何がきっかけでこの言葉を知ったのか思い出せないけれどゆるりまいさんのブログが決定打だった。
それから本家のジョン・グレアムの出演したTEDも何回も見た。ガラーンとしたリビング、殺風景なインテリア、少しの、お気に入りのものたち。

心を打ちぬかれた。

私が進むべき道はこれだったのだと宗教を発見したような気持ちだった。

それからはさらに捨てた。
もう捨てるものがないと思っても、いらないもののハードルがどんどん低くなってゴミ袋を持って家じゅうをうろうろする典型的「捨て魔」になった。
子供が2人いると、捨てても捨てても部屋はなかなかすっきりしなくて子育てのストレスがマックスになると、さらに捨てることで心の平安を保ったりした。
家族に対する苛立ちと怒りを、捨てることでおさめようとしていたのだと思う。あの頃は、育児が辛くて死にたかった。

いつかミニマリストと言えるようになりたい。
身軽に生きたい。ずっとそう思って暮らしてきた。

先日、実家から小さなバスケットを一つ持ち帰った。
中身はガラスペンと、インクが数本、シーリングワックスにスタンプ。
独身の時に、友人と都内の文具店を歩き回ってこつこつ買ってきたものだ。
衝動買いのたまもの、なくても全然困らないそれらは、数年ぶりに見ると心を豊かにしてくれた。

ああ、そっか。

私こういうもの大好きだったんだ。

海外旅行にいっても、文房具や郵便局のオフィシャルグッズばかりチェックしていたな。国内外の美術館で、鬼のように絵葉書を買っていたな。
そんなことを思い出して、懐かしくて胸がいっぱいになった。

インクの瓶を並べてみる。綺麗だ。
眺めているだけで、幸せな気持ちになる。
そういえば、もう何年も骨董市にも行ってない。
子育てでそれどころじゃなかったことのあるけれどそんなことも忘れていた。

人に言えるほどでもないような、ささやかに好きだったものをゆっくりゆっくり思い出したら、もうミニマリストにならなくても良くなった。

まだ、捨てたいものはいっぱいあるし、年内最後のゴミの日を前にそわそわしているしお寺のようにガランとした空間にもときめくけれどもう少し無駄なものを愛する余地を持とう、と思った。

今、私がほしいのはアンティークのライティング・ビューロー。
パタンと机が閉まる小さな書き物机。その中に、本でもCDでも化粧品でも文具でも入る分だけ入れるのだ。

私の好きなものしかおさめない。
決して子供にも触れさせない。
そんな小さな宇宙がほしい。

これから先、老いていくばかりの体のなかに豊かな心の置き場がほしい。

老いにも、誰にも奪われない場所が自分のなかにある。

そう思いながら歳をとりたい。

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