花の盛りが桜からハナミズキへとうつろう頃、わたしの耳には湖がすみつきはじめた。
一瞬を生き抜いたすべての桜が、人の世に別れをつげてひらひらとかろやかに舞い散っていくなか、心底乾いたかさりという音が、わたしの耳に訪れた。それが最初の邂逅だった。

水分を完全に失った、筋ばってかたい落葉がひとつ落ちたような音。
南へ下っていく長距離列車の始発ホームで、ある人を見送った午後のことだった。

それはもしかしたら冬眠を前に忙しなくあるきまわる甲虫がたてた音だったのかもしれないし、森の奥に捨て置かれたベンチの、腐って崩れ落ちる間際の音だったのかもしれない。
とにかくそれは、私の頭のなかにだけ聞こえた、春からうんと遠ざかった茶色い音だった。

「ひとの記憶にばかりかまけて、足元をすくわれないようにね。」
それが、その人の別れの言葉だった。
彼女は志木さんという職場の先輩で、姉妹を持たなかった私に、姉のようによくしてくた人だった。
その時わたしは自伝の口述筆記のアルバイトから正規採用されたばかりで、志木さんは学生時代のアルバイトからそのまま社員になった、職場でも1,2を争うベテランだった。
穏やかでおっとりとした志木さんは、見た目に反しておそろしく優秀だったので比較的大きな老人ホームへいって、常に10人前後は平行して請け負っていた。
聞く人の話は時代も愚痴も似たり寄ったりで、「だから仕事帰りに自分がいまいつの時代にいるのかわかんなくなっちゃうのよね。」とよく笑っていた。
反動なのか、志木さんは週末にはよくクラブで踊っているらしい、と印刷所のチーフが教えてくれた。

その志木さんが辞めるというので、私はひとりのこのこと入場券まで買ってホームで彼女を見送った。
どちらも口には出さなかったけれど、特急列車のドアが閉まれば、もう二度と会うことはないだろうと思った。
志木さんは、狭いこの業界ではそこそこ名の知れた人ではあったから、別の会社からいくつか声をかけられていたらしいのだけど、次は故郷でまったく別の仕事を探すことにするといっていたのできっともうつながることはない。

私たちはよき先輩後輩としてとてもうまくやっていたし、二人で食事や展覧会に行くこともあった。顧客からもらったチケットで、よくわからない劇もみた。携帯電話の連絡先だってもちろん知っている。
仕事や住む場所に関係なくつきあいを続けることは難しくなかったけれど
あまりに人の話に耳を傾け続けているうちに、相手の気持ちを敏感に察することができるようになった今となってはこれを今生の別れとすることが、志木さんへの最大の餞別なのだろうと思った。

彼女はこの仕事をしていたことを忘れて、今までつながってきたものを綺麗になくしてしまいたいのだと思ったから。
新しい人生を選び取った人にすがりついてはいけない。

「わたし、志木さんと一緒に働けたことずっと忘れません。」
もう会うことはないですね、とは言えない、せいいっぱいの別れの言葉だった。
でも、それくらいが一番綺麗に別れられるのだ。表面上はまた会える余白を残して、心の中ではこれきりだと言い聞かせる。そういう別れ方が一番いいのだと、この仕事を初めて数年たった今はなんとなく知っていた。
志木さんは「私も」とか「いつかまた」なんて陳腐なことは言わない。
ただ黙って、春風にセミロングの明るい髪を泳がせながら、穏やかに笑うだけだった。

ありがとうございました、と言って頭を下げる。特急列車が南へむかってゆっくりと滑りはじめてホームががらんと静かになるまで。
志木さんの別れ際の顔を、見ないで済むように。

静かになったホームで頭を上げたとき、耳の奥でカサリ、と乾いた音がした。

それが、湖が語りかけてきた最初の音だった。


いままで常に4,5人、多い時には8人くらいまで同時に請け負っていた志木さんが抜けて、仕事は一気に忙しくなった。
残業や外回りが増えるにつれ、耳の奥からはいろんな音が届きはじめた。
遠くで小鳥が羽ばたく音。
湿った林の奥で、じ、じ、じと虫の鳴く音。
風が木立を吹き抜けていく音。
水面に落ちた木の葉が、だんだんくずれて沈んでいくときの音。
もう誰も乗ることのない朽ちたボートが波にあらわれる音。
太陽のひかりが水面に反射するときの、音にならない音。
わたしの耳にだけ届けられる、消滅寸前のかすかな音が増えていくたびに、脳裏にはひとつの景色が組み立てられた。
これは湖なのだと気づくのに、だからそう時間はかからなかった。


「それは髪の毛が、切り落とされた毛先を恋しがって立てる音よ。
下手な美容師にあたると時々そういうことがおこるんだよ。」
昼下がりの薄暗い喫茶店の奥で、ミルクレープをぞんざいにつついて羽子(はこ)はいった。

「ううん、下手っていうか。持っている気の流れみたいなものが自分とあまりに違いすぎる人に髪を切られるとそういう不調が起こるんだよ。あたしの時は耳の裏がしびれて困ったし、夜中目を覚ました時にだけ声が出せなくなることもあったな。髪が伸びてくるとおさまるんだけどね。」

羽子はしょっちゅう住むところを変えているので、決まった美容室を持たずに、気が向いたらその日その時空いているところへふらりと入って髪を切る。だからそういうことには慣れっこで、最近ではこの美容師は毛色が違うなどと見抜けるようになったのだそうだ。
でも、私はもう3年も同じ美容師に切ってもらっていたし、今までこんなふうになったことは一度もなかった。

「私のは、志木さんが辞めたことが大きく関係している気がするんだけどね。」
「仲良かったもんねぇ。その人今なにしてるの?」
「さあ。同じ仕事はもうしないと思うよ。次も決まってるかどうか…。」
辞めるとだけ聞いていた志木さんのその後を、知ることはないだろう。
「今ごろどこにいるのかも知らないんだよね。」
別れを交わした後のことをなにひとつ知らないほうが、志木さんをずっと覚えていられるような気がした。

「あんなに仲良さそうだったのに、礼霧ちゃんてそういうとこドライだよね。」
「仲が良かったからこそだよ。仲良いままでお別れしたいっていう気持ち、ない?」
ないわー、とだけ言って羽子はアイスティーを飲み干した。羽子が私をわからないように、私も羽子を分からなかった。でも、志木さんがどこかで元気に暮らしているのなら、それでいいかと思って笑った。
羽子とお別れするときがきたら、やっぱりあっさり手を振るのだろうか。そんな未来が遠くない気がして、すこしだけ寂しくなった。けど、それもすぐに忘れるだろう。

とぷん。
耳の奥で、湖に魚が重たく跳ねる音がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?