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神の沈黙 人生で一番大切なもの

「隠れキリシタンの里」と言えば、長崎県や熊本県が有名で、世界遺産に登録されている史跡もいくつかありますが、実は私が住んでいる東北の地、宮城県と岩手県の県境付近にも、世間的にはほとんど知られていない「隠れキリシタン殉教の地」が点在しているのです。

現在の地名で言うと、宮城県登米市東和町と岩手県一関市藤沢町にあたりますが、宮城県側では120名、岩手県側では309名の信者が「キリスト教徒だから」という理由だけで江戸幕府によって無残に処刑されたのです。

私は2011年の東日本大震災の影響で失業した後、半年間ほど藤沢町の観光牧場で働いていたことがあるので、この二つの町の史跡には何度も何度も足を運びましたし、地元の神父さんと一緒に慰霊登山をしたこともあります。

私は占星術のみならず、宗教や哲学の専門家でもあるので、このような「信仰のもたらす負の側面」についてどうしても深く知っておきたかったのですね。

岩手県一関市藤沢町大籠地区にあるキリシタン殉教公園
宮城県登米市東和町米川地区にある「隠れキリシタン惨殺の地」

当時の記録を調べると、赤ん坊を抱えているキリシタンの母親が火縄銃で射殺される事例もあったようで、こういう史実を見るにつけて「なぜ神は、自分を信じる善良な人々を見殺しにしたのか?」という疑問がふつふつと湧いてきます。

デウス(キリシタンたちは神をこう呼んでいた)が本当に全知全能の神なら、マトリックスのネオみたいに、銃弾の軌道を曲げたり止めたりできそうなのに、なぜ敬虔なるクリスチャンが撃ち殺されるのを黙って見ていたのでしょうか?

この「神の沈黙」こそが、我々日本人の中に無神論者が多い根本的な原因のように感じられるのです。この沈黙問題を解決しないことには、みなさんも「神の実在」を素直に受け入れられないことと思います。

だからこそ、今回はこの問題に深く斬り込んで行きましょう。

この地方はもともと製鉄業が盛んで、山奥の中に「もののけ姫」に出てくるような製鉄所(タタラ場)がありました。今でも岩手の鉄(南部鉄器)はお土産品として有名ですよね?

この地方を管轄する伊達家は、製鉄所の生産性を向上させるために、現在の岡山県から製鉄技術者を呼び寄せますが、この技術者の兄弟がたまたまキリシタンだったため、この地方に少しずつキリスト教の教えが広がっていたのです。

伊達家は「鉄の上納」を条件にタタラ場のキリスト教信仰については黙認していましたが、1637年に長崎で起きた「島原の乱」をきっかけに江戸幕府の「キリスト教弾圧」が激化。伊達家も「徳川家に対する謀反」を疑われないために、領地内のキリシタンに対する取り締まりを強化せざるを得なくなったのです。

しかし、製鉄技術を持つ腕のいい職人たちを殺すのは伊達家としても本意ではありません。鉄は鉄砲や刀の材料にもなりますから、鉄の保有量はそのまま「大名の力」になるのです。

だから「形だけでもいいので、とりあえず踏み絵を踏め。それぐらいだったらお前の神さまも決して怒ったりはしないだろ?」と優しく説得を試みますが、信仰心の篤い住民たちはこれを断固拒否。

こうなるともう、役人たちもキリシタンを処罰するしかありません。幕府の監視役も来ていますから、ここで彼らを見逃せば、有力大名の伊達家ですらも「お取り潰し」にされる危険があったのです。

その結果、タタラ場の隠れキリシタンたちは次々と処刑され、この地方の製鉄業も急速に衰退して行くことになったのです。

つまりこの結末は「誰も幸せになっていない」のです。

神はなぜこのような理不尽な悲劇を回避しようとしなかったのでしょうか? ひょっとして、この世に神様なんていないのでは? と我々が疑ってしまうのも仕方のない結末ではないでしょうか?

遠藤周作の書いた小説「沈黙」や、それを原作にマーティン・スコセッシ監督が映画化した「沈黙 サイレンス」を鑑賞した人ならば同じ疑問を感じたと思います。

あまりにも刺激が強い内容なので、メンタルを病んでいる人は見ないでください

私は原作小説を持っていますし、映画も見ましたが、作品に貫かれているのは主人公(ロドリゴ神父)の痛々しいまでの心の叫びです。

なぜ神は私たちの祈りに答えてくれないのか? なぜただ沈黙を続けるだけなのか?

この映画では、ポルトガルからやって来たイエズス会の宣教師ロドリゴの目の前で、隠れキリシタンの農民が次々と処刑される凄絶な場面が何度も出てきます。

小松奈菜が「す巻き」にされて海に突き落とされる場面や、加瀬亮が役人に首を一刀両断される場面などが連続しますので、見ていると軽い吐き気を覚えるほどのグロさです。心臓の悪い人は見ないほうがいいかもしれません。

ロドリゴの相棒であるガルペ神父は、海に突き落とされた農民を助けようと水の中に飛び込み、自らも命を落としますが、ガルペは絶命する瞬間まで「神よ、我々の祈りを聞きたまえ」と叫び続けていたのです。

しかし、ガルペがどんなに祈っても神は何もしてはくれません。

それを見せつけられたロドリゴの絶望感がいかほどのものか、想像するだけで胸が締め付けられます。

(私がここで記述しているセリフは原作を参考にしていますので、映画とはちょっと違う言い回しになっています)。

奉行所の役人・井上筑後守(イッセー尾形)は、「お前が信仰を捨てれば農民たちは助かるっ! 彼らは神のためではなく、お前のせいで死ぬのだっ!お前は彼らを不憫だとは思わないのか?」とロドリゴに激しく詰め寄りますが、ロドリゴは「本当に大切なのは弱き者を救うことか?それとも自分の信仰を守ることなのか?」の間で激しく葛藤し、どうしても決断できません。

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