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范寛「谿山行旅図」(台北/国立故宮博物院蔵)について

本作品は台北の故宮博物院に所蔵されていて五年に一度しか展示・公開されないと言います。二十世紀に入ってから本作品の損傷が激しく、後百五十年は持たないのではないかと言われています。
先日、忠実な複製をじっくりと鑑賞する機会を得ることが出来ました。

范寛は五代、北宋初頭に活躍した華原(陜西省燿県)出身の人です。性質が温厚で度量が広かったことから、人々は彼を「范寛」と呼びました。画家としての出発点は李成の画風を学ぶことから始まりますが、やがて「人を師とするよりは物を師とするに越したことはなく、物を師とするよりは心を師とするに越したことはない」と悟ります。
元は都市部に住まいしましたが、後に雄大な自然を求めて秦嶺山脈の名山である終南山や華山の山中に卜居します。山中の四季を通じて様々な気象の中で変化する姿を観察し、スケッチを繰り返します。そして独自の画風を生み出し、ついに「山の真骨を写して自ら一家を為した」と評されました。また、李成の作品と比較して「李成の筆、近視すれども千里の遠きが如く、范寛の筆、遠望すれども坐外を離れず」と論じられるまでとなりました。画風は李成の淡墨平遠とは対照的で、濃墨を多用した仕上がりとなっています。范寛は三遠のうちの高遠様式の完成者として位置づけられています。

本作品の画面の大半を主山が占めていまして、そのモデルとなったのは華山ではないかと言われています。
重量感のあるどっしりとした山が画面の上三分の二に聳え立ちます。丁度、主山の中心が鑑賞者の目線になっていて、画面から盛り上がってくるような、重厚な山肌をひしひしと感ずることとなります。鑑賞するときに少々上を仰ぎ見るような姿勢を取らなければならないのですが、これが「高遠様式」というものなのかとようやく理解出来ました。

山肌には范寛考案の雨点皴という、降り始めの雨が地面に落ちたようなテクスチュアを持った技法が用いられています。雨点皴を使った山肌は縦に短い墨線が規則正しく並んでいて、近くで観ても充分鑑賞に耐えるものであるし、遠くで観ても絶妙で不自然な感じを抱かせません。むしろ、盛り上がってくる山肌のゴツゴツとした触感や岩のマティエールが絶妙に表現されています。
申し訳程度に山頂に生えた木々も、秀逸で面白く、山と山の間に細く白く流れている滝は画面を引き締める働きをしています。

この滝の発生からも判りますが、主山と中景の丘との間は隔絶していません。丘と丘の間から小さな滝が桟橋の下を流れていますが、その上流を辿っていくと主山の隙間の滝から発しているようなのです。隔絶していているようでそうではない世界。隔絶していないようで隔絶している世界。云わば「主山=仙人の世界」「中景の丘=宗教者の世界」「前景=人間の世界」といえます。主山を「仙人の世界」とした理由は、山があまりにも大きく、人間世界と隔絶しているように感じられます。中景の丘を「宗教者の世界」とした理由は、前景の「人間の世界」と主山の「仙人の世界」をつなぐ人が必要であること、得てして宗教者は人間世界から隔絶したどちらかといえば仙人世界に近いところで修行を行うことが多いからです。山水画は神仙思想に発しているといわれていますが、本作品はそのままその思想を反映しています。

本作品は前景、中景、遠景や霞を効果的に配置していますが、意図的に行った仕事でしょう。主山を異常に大きくすることで大自然の雄大さを見せつけると同時に、図の下部の平地には、ロバを率いる人々を繊細に描きいれ、上部の丘には道観を建て、滝から流れ落ちた水流に架かった橋を渡るだろう天秤棒を担ぐ人や、橋に向かう途中なのだろう丘の中腹で休んでいる人も居ます。また、主山と中景の丘との間が霞に覆われていて、境界線がはっきりと見えないようにすることで、効果的な空間表現を成し遂げたと同時に、アトモスフィアの表現も行っています。

ロバを率いながら山道を歩く人々の右上の木の枝と枝との隙間に「范寛」という落款があります。性格が温厚なので人々に范寛と呼ばれた人が自ら筆を取って「范寛」とサインを入れるでしょうか。私が范寛の立場だったら、堂々と自分の本名を書き入れるでしょう。絵本体の墨色よりも薄いし、落款の字本体にも勢いがないので、到底本人が書いたものとは思えないのです。絵画そのものは范寛以外の人が画いたものとは到底思えない出来映えなのに。

しばらく考えた上に次のように推論しました。范寛は確かに「谿山行旅図」を画いたのでしょう。しかし、温厚で謙虚な范寛は自らの落款をその作品に記そうとはしなかったのです。
時代は下り、ある人が「范寛はこれだけの作品を画き上げたのに、どうして落款を入れなかったのだろう」と講評します。同情が好奇心に変わり、遊び心が高じて、それをありえない落款というかたちであらわしたのでしょう。後世に落款を書き入れた人は、「范寛」が本名でないことを知らなかったのかも知れませんし、本当は范寛本人が書いたものではないということを理解させるためにわざとお粗末な落款をこしらえたのかも知れません。その落款があるために今日まで「范寛の作品」として残ったことを思えば、強ち責められる問題ではないでしょう。

初執筆:2003.2.8
昔、執筆した文章を加筆修正したものです。いやはや私も若かったです。
投げ銭歓迎(笑)

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