夏越の祓いで祓いたいもの
茅の輪が人を吸い込んでいるように見える
今は夏越の祓いの季節
本当はあまり来たくない時期。来るつもりはなかったのに。
いつものようにランチに出ると、近くのお店はみな満員で入れない。それなら美味しいと評判のパン屋さんへと向かうが、近くまでいって定休日だったことに気付く…
もう一の鳥居は目の前だ。
これは行けってことなのかなぁ、やっぱりそうなのかなぁ…
諦めて、茅の輪に吸い込まれることにした。
夏越の祓いの時期は、人形(ひとがた)が置いてある。名前を書いて自分のケガレを移して祓ってもらう。
『お前のケガレって何?』
「全てだよ、全て。所詮人間なんだもの。自分のケガレ加減に呆れるよ。」
人形に息を吹きかけ、体を撫でながら、そう思う。といいつつ、設置された初穂料用の賽銭箱には目安の金額しか入れない。そこを多めに入れるようになれたら、ケガレ加減も変わるんだろうか?
お参りした後、おみくじをひいてみた。
いつもその場で開けず、持って帰るのが習慣なんだけど、今日は開けて見てみた。
『千五百産屋兆 ちいほうぶやのうらかた』
おぉ、きたか…
私にとって、この第11番おみくじの意味は特別。生死を示す兆(うらかた)なのだ。
やっぱりね~、だから来たくないんだよ、この時期は。
『死ぬことは生きること』
そうだね。死は区切りであり、始まりだよね。
『そして、生きることとは死ぬこと』
ふぅ~、そうなんだよねぇ。肉体という檻に入ると考えるればねぇ…
『色は移ろえど、生きてることに変わりなし』
もう切られちゃった花だけど、美しく咲いている。
株を生かすために切られた花なら悔いもなかろう。飾るために切られた花は、どうだろうか。
そんなどうにもならない想いが湧いてくる。夏越の祓いの神社という場所は。
結局、君達が一番正しいんだよね。
『こうやって生きてきたんだよ』
板状根には説得力がある。
他にも想うところツラツラあったけれど
盛りを過ぎたクチナシの花に諫められたので、書くのはこれだけ。
祓われるべきは自分の内に有る。
毎年もまた、そう思う。