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僕は努力が嫌いだ。

僕は努力が嫌いだ。


努力の二文字を使えば何でもやった気になれる風潮が嫌いだ。


他人が、世間が、もっと広い何かが僕に押し付けようと動く。
その最たる言葉が努力だと感じる。とても嫌いだ。


努力という言葉が使われるとき、その背後に、「いやなことでもやらなきゃいけないんだから、やれ」というネガティブな意思を感じるのだ。


なぜ、いやだと感じながら物事に取り組むことを強制されるなければならないのか? 必要なだから、やる。それだけで済むものになぜ努力という枕詞をつける?


物事を自分ごとにとらえることができれば、努力という言葉を使わずとも、僕らは物事に取り組めるだろう。それが自分の好きなことなら、息をするように取り組んでいるはずだ。


それはいつしか継続され、その人の血肉となるだろう。その成果に努力という言葉は必要ない。


それでもなお、周りの人々は口々に努力という言葉を浴びせ、僕らの取り組みを立った二文字で終わらせる。


その努力という言葉が、大っ嫌いだ。

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