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【はかせエッセー】東(あずま)京丸京平師匠のメモリー。

 2021年2月8日──。
 東京丸師匠の訃報をネットで知った。

漫才コンビ「東京丸・京平」の東京丸(あずま・きょうまる、本名・楠本賢次郎=くすもと・けんじろう)さんが1月30日に心不全のため亡くなっていたことが8日、分かった。享年74。長期療養中だった。

 東京漫才の大御所ながら全盛期は1970〜80年代で、漫才協会の後輩・ナイツのプッシュで晩年にテレビで再ブレークを遂げたのは素晴らしいことだった。

 1990年10月22日──。

 それはボクが29歳のときだった。
 テレビ朝日『ザ・テレビ演芸・激突笑いのデスマッチ』収録が、六本木の旧テレビ朝日スタジオで行われ、我々浅草キッドは、みごと10週連続勝ち抜きチャンピオンに輝いた。
 なお下した10組は、まじかるず、聖・レボリューション、宮川一直、犬丸兄弟、プレント・ザ・オズ、ARARA、シンデレラエキスプレス、幻楽団、ぜんじろう、東京丸・京平の順だった。

 そして10週目に下した東京丸・京平師匠は、1978年のNHK新人漫才コンクールでツービートを下して優勝した師匠ビートたけしの仇敵であった。

 そのときのことを師匠、ビートたけしは自叙伝『真説 たけし』(講談社)で次のように語っている。

 (当時のМ―1にも相当するNHK新人漫才コンクールに3年連続エントリーしたツービートは決勝で、76年に昭和のいるこいる、77年にセントルイスに苦杯を喫する。そして78年を迎えて……)

「でも3回目にオレたちが落ちて東京丸・京平が優勝した時にろくなもんじゃねぇやと思った。いまだにそのうらみは忘れない。そのとき審査員だった演芸作家や評論家に会うたび、イヤミのひとつもいいたくなる。『よかったですよ、あんなもんに優勝しなくて。NHKで優勝するのは落ち目になる前兆ですから』ってね。そうだろ。のいるこいるなんて言っても誰も知らないし、セントルイスは漫才やめちゃったし、京丸京平なんか素人といっしょに『お笑いスター誕生』に出てるんだぜ」と。

 この日の収録後、東京丸・京平師匠が我々の10周勝ち抜き戴冠の一連の儀式が終わるのを待って、スタジオの隅で我々に声をかけてくれた。
「チャンピオン、おめでとうございます。そして、我々はこれでようやく、たけしさんに恩返しができました。あの時の優勝はツービートです。一言、たけしさんにそう伝えてください」と声をかけられた。

 ボクは時を越えて、京丸京平師匠の芸人としての生き様、矜持に心を震わせた。

 後に、酒席でそのことを殿に伝えると、
「そうかい、あの野郎、まだ覚えているんだなー」
 と言って嬉しそうに笑った。

 殿は今でも自己紹介をするときに好んで、
「どうも、東・京丸です」とボケて言う。

2013年12月15日──。

フジテレビ『THE MANZAI 2013』生中継の日、
ワイルドカードを発表する時、師匠が、
「どうも、東・京丸です」と言った。
「また言ってる!」
 と思ってボクはテレビの前で笑った。


 2016年10月23日──。

 ボクは渋谷のNHKにいた。

 この日の仕事は、16時から『NHK新人お笑い大賞』生放送だった。

 司会:フットボールアワー、三輪秀香アナ。
 審査員:西川きよし師匠、渡辺正行さん、倉本美津留さん、
 久本雅美さん、戸田恵子さん、とボク。

『NHK新人漫才コンクール』は1986年に一旦終了。
そして『NHK新人お笑い大賞』はその後継番組だ。

 由緒あるこの大会に、まさか自分が審査員として呼ばれていることが感慨深いことであった。

 楽屋で、最近は会うことが少なくなってきた西川きよし師匠に積極的に話かけた。
 きよし師匠は、あの日の『テレビ演芸』の司会者だった。

「師匠、26年前、師匠が司会の『テレビ演芸』で浅草キッドは10週勝ち抜きさせていただきました。その時の最後の10週目の対戦相手が、このNHKの大会で38年前に優勝した東・京丸京平師匠です。そして、その時に敗れたのがツービートなんです」
 とひとり興味深けに説明したが……。

 きよし師匠は勿論、審査員楽屋の誰も覚えていなかった。

 当たり前だ──。

 そういう逸話はボクが日付と共に書き残していれば良いのだ。

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