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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#5

梅太郎のおとなのつきあい

  町の「顔役」である梅太郎は、地元の有力者との付き合いも盛んだった。
 例えば、博教が覚えているのは、当時の市川署の山崎署長が家に来ると、菊江の金色の着物を後ろ前に着て、海苔で髭をつけると、黒の丸い帽子をかぶって中国風の歌を歌い踊っていたことだった。
 商売柄、警察とは昵懇にしていた方がなにかと都合が良かったのだろう。

 梅太郎は、家に次々とやって来る刑事や警察関係の者には、自分がどんなに大事にしている絵でも書でも家具でも衣服でも、「ほしい」と言われるとその場で惜し気もなくあげてしまった。
  また、市川の名士で市長を長期間つとめていた浮谷竹次郎は、梅太郎の家には頻繁に出入りしていた。
  ある日、竹次郎が火遊びした、女の情夫みたいな怪しい男に強請られ、梅太郎に相談に来ているのが小さな家なので全部聞こえていた。
  博教が指を舌で濡らして、障子に穴をあけて覗くと立派な顔の市長が「だから、別れるとき、どっさり金をやれっていったじゃないか」と梅太郎に叱られていた。

「俺が、今になってどんな立場の野郎にも『金に照れるな!』、『女に照れるな!』って言えるのも、子供の頃から世間でイッパシと言われる、いろんな大人の裏側を見てきていたからだろうな。そういうのをオマエが言うところの『観察』してましたよ。いざとなったら、エライやつでも、みんな、腹をくくれないんですよ、それが現実なんだよな」

  その他にも、梅太郎は29歳の若さで東京市長に就任し、後に衆議院議員となる尾大久保留次郎の学費を援助してやったり、板前から身を起こし、代議士になった小沢専七朗と交流もあった。
  小沢専七朗の家は市川でも有名な大豪邸で「どうやったら、こんな家に住めるのだろう」と博教は長く思っていた。

 また、格別の大物と言えば自民党の重鎮で、後の副総理、大野伴睦とも交遊があった。
  博教が憶えているのは、大野伴睦が「松桃園」で、ほっかぶりして梅太郎から教わった『もしもし、あなたは会社員ですか。はいはい、私は会社員ですよ。ほうきとちりとり、石灰持った清掃会社の会社員ですよ』と歌いながら肥を汲むようなしぐさの踊りを踊っていた様子である。

「大野伴睦は、もともと院外団だから、政治家の用心棒だったんだよ。もちろん、右翼にも侠客にも通じていた。親父は武部申策(たけべしんさく)って政治に密接した侠客の舎弟なんですよ。武部は明治34年に殺された明治時代の自由民権運動の自民党の星亨(ほしとおる)の用心棒だったんだよ。だから政界の人脈にも通じているんですよ。でも大野伴睦も石黒敬七も、何故、ウチに来ていたかって言うと、父の乾分に京橋の高橋さんっていう、大きな肉屋を経営している人がいたんだよ、当時は統制令が敷かれていたから、珍しい厚いトンカツが食卓に出るので、それを目当てに来てくれたのだろうな、とにかく大物がいっぱい来てたな。自称・大物とかわけのわかんないのも。子供の頃から大物とか慣れっこなんですよ。」


  百瀬博教は後に力士を目指すことになるわけだが、子供の頃から相撲は身近にあった。
  4歳の博教が柳橋の上に立つと隅田川に架かった両国橋が見えた。
 そして、その橋の向こうに国技館の円い屋根が陽を浴びて光っていた。
  相撲の本場所が始まると太鼓の音が聞こえてきた。
  幕府瓦解で、東京に流れ込んで来た新住民の中から、早朝打ち鳴らす櫓(やぐら)太鼓は、安眠妨害だと苦情が出たそうだが、博教は幼い頃から櫓太鼓の音に胸をときめかした。
  五歳くらいの時、三十五代横綱双葉山の引退の花相撲を母に連れられて見物に行ったのが、博教の憶えている相撲見物の初めであるが、その後、小学生で本格的に相撲ファンになった。
  しかし、最初は土俵で声援を浴びる現役力士に憧れたからではなかった。
相撲読物などにある、土俵では無敵だった偉丈夫が引退して数年後、悲運の運命を辿る、人生の縮図の描写に強く惹かれたためであった。
 それは尾崎士郎が描いた、「相撲随筆」の中の「悲劇の大関大の里」とか、息子の協会復帰のために自殺した父親をもった「大関清水川」など、彼らの悲劇に耐え忍ぶ孤高の情熱に大感動したからであった。
 博教は相撲で勝ってどんどん出世する人よりも、失敗した人たちの哀しさに惹かれていた。
  後に、船橋聖一の名著「相撲記」など、分からない漢字は飛ばしてなんとか読んだ。
 そして、小学校の上級生の頃から場所がはじまると兄に連れられたり、友人と見物に出かけるようになると大声で声援していた。
 中学一年生の頃から丁度、叔母の和子と交際していた関取、信夫山のファンになり、信夫山が席を用意してくれることもあり、蔵前には一場所中、少なくても四、五回は通って応援した。
  父、梅太郎は、常陸山、梅ヶ谷時代からの相撲好きで相撲界にも顔が効いた。
  実際、相撲史のなかにも、その名前が刻まれている。

  1932年、出羽の海部屋の関脇だった天竜三郎が、力士の待遇改善を叫んで立ち上がり、相撲協会と対立した事件は、『春秋園事件』として世に知られるが、この話の顛末は、子供の頃からよく梅太郎から聞かされた。

  このとき、梅太郎は、興行の顔役の代理人として、天竜一派と協会復帰についての話会い、手打ちに奔走したが協会復帰を拒絶する天竜以下30人が、一斉に丁髷を切ってしまったので、うまくは調停が出来なかった。
 相撲史のなかでも一大事件だ。
  まげを切った天竜は相撲協会に対抗して「新興力士団」を結成し、よく国技館で興行を打った。
 その際には、天竜は梅太郎の柳橋の家に出向き、梅太郎は気前よく祝儀を切っていた。
 それは博教が生まれる前のことだった。

「昔は相撲が今で言うところの格闘技団体だったんですよ。だからさー、今、PRIDEに対抗して格闘技に新団体が出来るようなもんなんだよ。  同じことなんだよ。昔から興行なんて儲かれば儲かるほど必ず揉め事が起きて、俺にも金寄越せって不満派が独立するもんなんですよ、歴史は繰り返すってことですよ、まぁ、強がっている男同士っていうのは嫉妬の固まりだからね」
 

乾分たちとのつきあい

  若い衆の出入りの多い家であったので、博教は乾分との付き合いも多かった。
  家には父親の乾分が何人もいたが、「異人の寅」「情(なさけ)」「インディアンの和(かず)」と渾名された3人は、父のお気に入りで終生、裏切ることがなかった。

  最も喧嘩の強かったのはインディアンの和だった。 
 和は劇画「少年王者」で有名な山川惣治が描いたボクサー物語「ノックアウトQ」にも出て来る愚連隊インディアン一家の本家本物の首領で江東一喧嘩が強かった。
  和は、たった一人で任侠の大組織であった関根組に討ち入りに向ったほどの度胸の持ち主。この喧嘩が元で懲役を食らった和が、ツトメを果たして出獄しても、必ず関根組から殺られるので、梅太郎が関根組組長の関根賢と会って話し、無事出獄させ、梅太郎の乾分となった。
  全盛時、関根組は関東一円に子分一万人。
 この組の大幹部に鶴岡政次郎親分が襲われた時、その急場に飛び込み救ったのが、若き日の稲川聖城だった。

  後に稲川組を起こし、日本一の大親分となる稲川総裁とも博教は奇妙な縁で結ばれることになる。
 長じて、博教が稲川親分の鎖帷子(くさりかたびら)を身に付けた児雷也の刺青を初めて見たとき、和を想いださずにはいられなかった。

  それは博教が8歳の時、和は革のジャンパーを脱いで鎖帷子を見せてくれたからだった。
  鎖帷子とは戦国時代の武士が帷子に鎖を綴じ付けた防御具で、鎧の下や衣服の下に着込んだものである。
 その日、「こいつを着ていると、短刀で突かれてもはじっ返して、みみず腫れほどの傷しかつかない。これで何度も命拾いした」と言った。
  普段から、命懸けの装いを身に付けている和を見て、博教は一遍に好きになった。
  博教は和のことで忘れがたい話は、父、梅太郎に連れられて中山競馬場に行った日のことである。
  レースがすべて終了し、浅草から自家用車で来ていた渡辺という老侠に乗せてもらって市川まで帰ろうとした。
  車まで歩いて行く途中で、小柄な渡辺を突き飛ばすような勢いで二人の男が先に駐車場に入ろうとした。
「おい、こら待て!」
 痩せて小さな渡辺だったが大声が怒鳴りつけた。
「なんでい、なんか用か?」
 ニ人はまだ若いちんぴらだった。
「お前等、四、五日、目が開けられねえようにしてやろうか!」
 と渡辺が言った矢先に、突如、鞍馬天狗みたいに飛び出して来たインディアンの和が二人を殴りつけた。
  和のメリケンをくらってニ人は倒れ、向かってくる様子もなかった。
  博教には、どうしてこんなにタイミングよく和が出て来たのか分からなかった。が、そこには理由があった。
  父・梅太郎は、酒好きで飲むと暴れ出す和をいつでも叱った。
  この日も酔っ払った和は駐車場の横の一杯飲み屋の前に立ったまま梅太郎に近寄らないようにして遠くから姿を見ていたと言うのだ。
 
 博教は、あの時くらいカッコいい和を見たことがなかった。
 
  また博教が記憶に残る乾分の一人、勇次は、梅太郎を斬ろうとした相手に飛びかかって親分を守り、自分の腕を斬られた不良の鑑のような男だった。

「子供の頃は喧嘩って見慣れてないじゃない。自分が先にやまほど喧嘩するってことも知らないしさー。だから和のメリケンパンチは痺れたねー。あれはもう映画みたいだった。カッチョいいねー!!勇次はね、ほんちゃんで、そこらの冷やかし野郎じゃないから、死ぬまで『俺は親父を助けた』なんてことを一切口に出さなかった。勇次はダンディズムのなんたるかを知っていたね」

  情(なさけ)と五馬力の徳松にも武勇伝がある。
  この話は、博教が小学生の時に徳松から聞いた。

  ある日、百瀬組の死守場所(なわばり)うちの蔵前の小料理屋で、破落戸(ごろつき)の高見川が暴れていると電話があった。
  高見川は大相撲で幕下まで取り、廃業してからは素人角力の三役格として、東京中の草角力大会を荒して歩いた。
  幕内力士は間違いのない逸材だったが、粗暴で酒癖が悪く、角界を追われた。
  情と五馬力の徳松と松本の3人が現場に駆けつけると、酔った高見川が、酒を運んできた小女のお爛の下手さに腹を立てて突き飛ばし、止めようとした主人を殴り、三人ほどいた客も、わけもわからず怪我させられていた。
「いいかげんにやめねえか!」
 情が、暴れていた高見川に口を切った。手には何も持っていない。
「なにを、手前も殴られてえのか!」
 そう言い終らないうちに松本が木刀に鉄輪を巻いた武器で殴りかかった。
しかし、上段から首筋を狙って打ちおろしたので、木刀を高見川に握られてしまった。思いきって両手でひっぱったが、非力で小男の松本は木刀をもぎ取られてしまった。
「手前らの二匹や三匹、なんてこともねえや。可愛がってやるからかかってこい!」
 ぶん取った木刀で構えると高見川は大声で怒鳴った。
 情は刀で突きかかった。高見川は体をかわし、木刀を情の刀にたたきつけた。バシ。刀は見事というほど真二つに折れてしまった。
 五馬力の徳松はギラリと抜いた刀を、木刀を構えている高見川の目の前に突き出した。
「おう、手前がそこへ土下座して詫びを入れるんなら命まで取ろうなんて思わなかったが、もう助けねえぞ……」
「来い。三下奴……」
 高見川が虚勢を張って怒鳴った。
 徳松が刀を構えた時、喧嘩を見物していた周囲の人達が「高見川を殺せ」「殺しちまえ」と一斉に声を上げた。
 高見川は人々の嫌われ者だった。あちこちで苦情が出ていたから、徳松は一度、高見川を締めなければと思っていた。
  徳松は、胸めがけて刀を突き出した。が避けられ刀の先がかすりもしなかった。 
  徳松は二、三歩後退すると再度斬りかかった。今度は手応えを感じた。
  高見川はばっさり腰のあたりを斬られた。
  高見川は腰を斬られてからは、構えている木刀の先が大きく震え出した。
 徳松が今度は腹に刀を突き刺てやろうと構えた時、『おまわりが来たぞ』と見物人が叫んだ。
  徳松が慌てて刀を突き出したが、焦っていたのでこれも躰に触りもしなかったが、刀をよけたはずみに高見川は目の前にぶっ倒れた。徳松がもう一度突こうとした時、全員がおまわり達に囲まれてしまった。
  このとき徳松が刀を鞘に戻そうとしたら全然入らなかった。
  刀がなまくらで、高見川の骨に当たって曲ってしまったのだ。

 博教は、まるで自分がそこで闘っているかのように、話に聞き入った。

 その後、高見川は、すっかり音無しくなって仕事に身を入れ、青物市場の主任が用心棒に納まったらしいとのことだった。

 この時に聞いた、徳松の「なまくらの刀」が博教の運命を変える。

 この刀を父から貰い受け、やがて『僕の刀』と題した作品で博教の文才が花開くことになる。

そして、博教は後に意外な場所で高見川にも再会する。

 梅太郎の乾分で、最も尽くしたのは福井だった。
  百瀬家の隣に、仕掛け扉になった壁を隔てて住んでいた福井は、中学生の博教に「努力は天才を凌駕するって言いますから、しつかり勉強して下さい」と何度も言った。
 福井は下獄中にたくさん本を読んだことが自慢で、菊池寛の「父帰る」や高山樗牛の「滝口入道」の話を聞かせたがった。どちらの話も中学生の博教にはぴんと来なかった。
  しかし、或る日、坂本フミが教えてくれた福井の喧嘩話で、博教は、すっかり福井を見直してしまった。

  福井は梅太郎の一番最後の乾分である。
  昭和の初めに、父・梅太郎と福井が人形町の割烹で葭町の芸者を揚げて遊んでいると、銀座の貸元、篠原縫殿之介と、後に明治座の社長となる新田新作の親分・鈴本栄太郎が座敷へ入って来た。
  どちらも若い者は連れていなかった。
  床の間を背にして坐っていた梅太郎が、
「兄弟、こっちへ坐ってくれ」と、自分の居た場所を篠原に譲った。
押し出しのいい巨躰の篠原はどっかりと上座に坐った。
「やあやあ」と挨拶を済ませるが早いか、篠原と鈴本は酒を飲み始めた。
梅太郎は四十になるまで一滴も酒をやらなかったので、つい数年前からたしなむ程度で、おちょこで二、三杯飲んだくらいで真っ赤な顔をしていた。
 篠原が盃洗で自分の使っていた盃をすすぎ、一歩下がって正座していた福井に「飲め」と突き出した。福井はそれを受けずに篠原を睨みつけた。
「おい、福井。俺の盃は受けられねえのか」
「受けられませんね。親分が、おいこっちへ坐りねえと言っても、おうとそのままそこへ坐ることはねえんだ。兄弟分なら兄弟分らしく『兄弟すまねえな』の一声ぐらい親分にかけるのがあたりまえだろうに……。親分のなにかは知らねえが、そんなお人の盃は受けられませんよ」
 福井の顔に盃が飛んで来た。眉間が切れた。
「おう、この野郎、銀座の兄弟になんて言い草だ」
 盃を投げつけた鈴本が細い顔に青筋を立てて怒鳴った。
「おう、二人ともそこを動くんじゃねえぞ」
 福井は懐からピストルを出すと、先に鈴本に狙いを付けた。
「静かにしろ」
 父が叱りつけると福井はピストルを構えたまま不動の姿勢になった。
 間を置かず篠原が大声で、
「おい福井、手前は大した野郎だぞ。えれえ。そのくらい親分を思わなくちゃいけねえ。俺が悪かった。代地の兄弟はいい乾分が居て幸せだなあ。拳銃を収え。鈴本だって俺を思ってやったことだ。手前は爆弾みてえに危いが、気持のいい野郎だ。え、百瀬の兄弟よ。本当にいい乾分持ってて羨ましいよ」

 篠原縫殿之介は「銀座のライオン」と呼ばれるほど喧嘩早かったが、その分、修羅場の場数を踏んでいるので、この大芝居に若い福井は手もなく丸められて、すっかりのぼせ上がってしまった。

「子供の頃は親父の乾分をひとりひとりに俺は値踏みしてたねー。
誰が漢で、誰が漢じゃないかって。今にして思うと、福井は親父の乾分の中では喧嘩の仕方って意味では一番下手な男だったのよ、そんでもどんな場面だったら自分の躰を賭けたらいいのかってのは一番知っていた男だったよ、男の売り方を知ってんだよ」

 そして、博教が高校生の頃、玉川勝太郎の浪曲「天保水滸伝・笹川の花会」を聞いた時、この日の福井の立ち居振る舞いが蘇った。
 そして、戦前のヤクザ者は自分の親分や兄貴分から男の立て方を習うばかりでなく、気合の入った啖呵まで、浪花節で勉強していたのだなと思った。
 博教は「笹川の花会」こそ『ヤクザ教本』の最たるものだと思えた。

 ここぞという場面を見極めて、照れを一切捨ててぶつかれば、活路は見つかるものなのだということを、博教も用心棒時代に何度か経験した。
 そのときは、いつも博教の脳裏に「笹川の花会」がフィードバックした。そして、漢らしい漢が発する気合の合った台詞に何度も巡り合った。
 それは、父の乾分で読書家であった福井と同じく、浪花節で覚えた気合なのだと、博教は思った。


僕の刀

 博教は生まれつき耳が良かった。
 大人の話したことを聞き分け、例外なく記憶した。
  福井に限らず、乾分達は子供の目の前で、大人の話を平気で話した。
「昔は競馬場へは袴なしでは入場できなかった。貸し袴屋なんてあって、そこで借りた」「あいつは、警察にブルかむ奴だ」「人を叩き斬ったのはいいけれど、その刀がなまくらで曲がって鞘に入らなくなった」などなどと。
 血気盛んな若い衆が出入りしているのだから、当然、喧嘩や出入りも日常茶飯事だったが、親分である梅太郎が喧嘩の当事者になったのは、ただの一度のみだった。

 昭和25年、博教が10歳のときである。

  この日のことは、百瀬博教の2冊目の著書に当たる『僕の刀』の表題作として、また、週刊文春に連載された『不良ノート』の第一回分として書き改められ10歳の子供の記憶とは信じられぬほど詳細に記してある。

以下、「僕の刀」の概略を記す。

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 ある日、博教は子供はあがってはならないと言われていた、2階で一振りの刀を発見する。
その刀は昔、梅太郎の乾分の五馬力の徳松と、松本と情の3人が、高見川と蔵前で喧嘩した時、高見川の振り回した鉄棒をよけるはずみに折れてしまったものを直したものだと、梅太郎は教えてくれた。
「情の使った刀だ。松本の刀もなまくらで、鞘に戻す時、曲がって入らなかった。高見川は強かったが、徳が斬った」
 と梅太郎はあっけないほどあっさりと刀を博教に与えた。
 刀は刃渡り五十糎(センチ)ほどの段平の変形だった。
 鍔には竜虎の彫金が施されていた。黒漆の鞘には濃紫(こむらさき)の下緒がついていた。
 それまでの博教の武器は、鳶口と、鉄の輪がところどころに巻いている木刀だった。
 チェーンを振り回す敵と、この鳶口と戦ったことがあるが、博教はもう少しでやられそうだった。
 博教はピカピカに光る刀を眺めながら、これなら誰と喧嘩しても負けることはないだろうと思った。
 博教が、この刀を持っていると、梅太郎の乾分たちは、この刀の由来や、高見川との喧嘩の詳細や、博教が生まれる前の梅太郎の喧嘩の話などを教えてくれるようになった。

 そして、その日がやってきた。

「大変だ! 姐さん、大変だ! 」
 梅太郎のお付きの乾分が駆け込んできた。梅太郎が清水の賭場で喧嘩に巻き込まれたと言うのだ。
 その日、父の異変を聞いたのは、博教が丁度布団に入ったばかりの寝入りばなであった。家中が騒ぎ立て、乾分たちが集まり、喧嘩の準備に道具を用意していた。
 博教は飛び起きると、父を助けようと、父から貰い受けた、とっておきの宝物であった「僕の刀」を持って家を飛び出す。
 その時、菊江は、乾分たちに渡すため、洋服ダンスから刀を出し、そして冬でも火を入れない火鉢の灰の下から油紙に包んだものを引き出すと、それは拳銃であった。
 この時、博教は生まれてはじめて本物の拳銃を目の当たりにした。
 父を救出するために家を飛び出した博教は、真っ先に駆けつけようとする叔父の政治に「帰りな」と言われるが、<父の危険を知って家に凝っとしているような子供なら父はいらないのだ>との想いで、言うことを聞かず、そのまま叔父に付いて行く。
 敵に囲まれながらも清水の賭場を抜け出した父・梅太郎を博教は必死で探したが、その日のうちには、梅太郎の姿は見つからなかった。
 心配のまま、家に帰ると、菊江が梅太郎の無事を知らせてくれた。
 梅太郎は、清水の家を飛び出すと、兄弟分の妾宅に走り、そこから電話をしてきたそうだ。
 梅太郎は翌日帰宅する。
「ええーい。親分のお帰りですよ」乾分の声が聞こえ、無事な梅太郎の姿を見ると、博教は涙が止まらなかった。
 梅太郎は昨日の一部始終を聞いたらしく泣いている博教を見て、大きく頷くと、「あに公。こっちへ来い」と言った。
 博教はランドセルを背負ったまま、父に飛びついた。

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【注】・ちなみに、この『僕の刀』の概略作成に関しては、本人の許諾を得て、何度かの推敲、校正を本人の手によって行われている。

この件(くだり)を博教は実に感傷的に描いている。
そして、この掌編が博教の文壇デビューに繋がることになる。

この作品を激賞したのは、在りし日の山本健吉であった。

1988年5月号、「新潮」千号記念号に掲載された、「百瀬博教という詩人」は、数多の文芸評論をものとした、山本健吉の絶筆であった。

 「(略)游侠といえば、日本では「やくざ」「落破戸」だ。氏が詩人であることと「游侠」であることを、一身に体していることが大いにわが意を得た、と言うべきか。
 さらに私の興味は、百瀬氏自身が自分の半生を振りかえって、父のことから氏自身、父が斬られるかも知れない急の鉄火場へ、叔父に従って、おっ取り刀で駆けつける少年時代の挿話が語られていて、私を感動させた。(略)   背徳の文学者といえば、古今東西忙「そのためしさわにありけり」だ。フランソア・ヴィヨン、サド侯爵、ジャン・ジユネから、安部譲二に到るまで――。その中忙、百瀬博教の名を数えたって、光栄にこそなれ恥辱にはならぬ。(略) 私は『絹半纏』を読みながら、しばしばヴィヨンの名を思い出した。百瀬氏こそ、今日の日本でただ一人の、ヴィヨンの流ではないのか。詩に正雅の流があれば、怨者の流があり、背徳の流もあるのが、あるべき公正なあり方ではないか。
 回想録として見ても、すこぶる面白い。短編小説と見ても、今日の多くの雑誌小説と同じ列には並べられない。一篇の散文として見ても、その文体の美しさを讃える外はない。百瀬氏父子の生きて来た現場を、彷彿と伝えた一篇であった」
 
と書いている。

また、この本は自費出版であるが、本文の前に序文がある。

「僕の刀」序によせて

  百瀬くんの著書の序文を書くのはこれで二度目になる。
一度目は昭和42年に百瀬くんがヨーロッパとアラビアのクウェートに旅した話を書いたエッセー集『自作自演の喜劇』を出版した時である。
  今も同じ大人になりそこなった坊やのような風貌で、彼が一度目の序文を貰いに来たのは、私が文士劇『日本でいちばん長い日』に出演していた東宝劇場の楽屋だった。そこで私の『雲の上に向かって起つ』という作品が映画化された時、柔道と相撲の選手で豪快無比の学生の役を百瀬くんが演じ、柄も感じもピッタリの印象だったことから『雲に向かって起つべし』という題の序文ならざる序文を書いた。
  最近、多忙にかまけて、彼と会う機会も少ないが、久々に百瀬君が、私の旅行中に事務所に届けて置いてくれた『僕の刀』のゲラ刷りを読んで、間のブランクを感じさせない昔ながらの『ヒロ坊』のイメージが感じられて嬉しかった。
 『僕の刀』の巻頭に、自分の親父さんのことを書いているが、
『40歳まで生きられればめっけもん……』
という江戸っ子の親父さんのことを、彼がいかに愛していたか、そしてその親父さんの血が彼の体の中に脈々と流れているかを改めて感じさせれれ微笑ましかった。
 彼は一般的に、私の他の多くの風変わりな友人とと同様に、一寸理解されにくい種類の人間ではあるが、この『僕の刀』に表現されている彼の実像を、私は頭のどこかで強く愛している。
 
 昭和五四年八月四日 衆議院議員 石原慎太郎

   この文章には日付も入っていて貴重だ。
  しかし男同士で「強く愛している」とまで書くのはどういうことだろうか。この頃の百瀬博教と石原慎太郎は蜜月であった。ふたりはその後、何度も交叉することになる。

「慎太郎さんとはとにかく長いよ。いろんなことがあったんだからね。後々出てくるだろ。想い出ゲームはそんときにしてやるよ。『僕の刀』は今も褒められるけど、あんなのはオチャノコサイサイなんだよ。だって子供の頃のはなしは全部、いまでも昨日のことのようにおぼえているんだ。ビデオみたいなの。だからちゃんと再現できる。でも花田(紀凱)が気に入ってくれてね。週刊文春にデビューしたのもコレだからね。しかし、改めて子供でも敵に立ち向かったってとこが鍵だよね。でも、もし、この事件がなかったら俺は兄貴みたいな、逃げるだけの人生を歩んだかもしれないなぁ」

 この『僕の刀』で語られる出来事は、幼年期の博教の最大の事件であり、天敵・ふみに言われた「臆病者」から卒業する通過儀礼となった。

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少年時代のおわり

 昭和25年、北朝鮮軍が韓国に侵入、正式に宣戦布告をし、朝鮮半島の38度線で全面的内戦が発生し朝鮮戦争が勃発。3年に渡る戦いの火蓋が切られた。
  博教は、学校の机に38度線の落書きを書いて、級友に『この陣地から入ってくるな』などと言って戦争ムードを煽った。
 そして、子どもたちの間では、度胸試しが流行っていた。
  図画の時間のこと。小学生も上級生になるとクレヨンから絵の具になり、パレットを使用した。その筆を洗うためび大きなコップの中は真っ黒に濁っていた。
  誰かが「これ飲めるか」とコップの水を高くさし上げた。
 そうなると、教室は飲める、飲めないで大変な騒ぎになった。その時、「男のくせにだらしがないわ」との声が聞こえた。
 博教は「男のくせに」と言う、言葉に反応し「僕が飲むよ」と言うと同時にコップを握った。
 博教が密かに好きだと思っている子が「それを飲んだら新しい鉛筆と枝折を上げる」と言いだしたので、絶対に後に引けなくなった。
 博教は「ヨシ、見ていろ」とばかりに、そのドロ水をゴクリと飲みほした。
 それはどうだと言わんばかり鼻高々の気分であった。

 また体育の時間。担任の鈴木先生が行司になり、クラスの角力大会が行なわれた。
 木片で円を描いただけの土俵で取り組みが始まった。
 両者睨み合い、仕切って立ち上がらせる時、「ヨーイ、ドン」先生は、そう声を掛けた。
「違います。ハッケヨイです」博教は大声をあげた。
「君が行司をやんなさい」先生は顔を真っ赤にして照れながら言った。
 熱戦が何番も続いたが、楽しく体育の時間は終った。
 下校する時、校門の横で三人の級友が博教を待っていた。
「おい、お前。一人で、ずっと行司やることねえだろう。俺達にもやらしてくれればいいじゃねえか」
「先生がやれって言ったから、やったんだ。文句あるか」
 三対一の喧嘩だったが、直ぐ勝負はついた。
 が、前から博教の書く字を馬鹿にして笑っていた、男だけは、この機会にもっと殴らなければ気が済まなかった。
 思いきって殴ろうと腕を振り上げた時、逆に後ろから凄い力で押された。見ると、でごっぱちの西田である。
 立ち上がった時には、西田はもう家に向かって全力疾走していた。百メートルほど追いかけたが、一向に差が縮まらない。
「お母ちゃん」
 そう言いながら西田は家の中に飛び込んだ。博教も続いて飛び込んで行くと「なんだ、お前は……」
 母親らしい女がそう言うと、博教の前に立ち塞がった。
「子供の喧嘩に親が出るな。どけ」
「大人に向かってどけとは、どういうこと」
「おい、西田。お前がこれから生意気なことしなければ許す。謝れ、謝らなければ、お前をぶん殴ってから、そこにある箪笥を石でぶっ壊しちまうぞ」
 博教は、箪笥を壊そうとした。
「喧嘩をしたら中途半端にやるな、相手が、こいつとは、もう二度と戦いたくないと思わせろ。それで相手の一番大事なものを壊せ、相手の家に入って行って箪笥を壊せ」と梅太郎は言っていた。

 この喧嘩をきっかけに、博教はガキ大将となった。

  博教は、小学校の高学年になり、その体格を増すと、腕っ節に頼って、悪さに明け暮れたように思われがちだが、実際は、佐藤紅緑著「あゝ玉杯に花うけて」や「一直線」の主人公に強く憧れていたから、人一倍の正義漢を気取り、喧嘩の道義にも強くこだわった。
  小学校の時の喧嘩は、相撲大会以降は六年生の時、三人を相手に果し合いをした後、その中の一人が後日、出刃包丁を持ち、再度挑戦して来たのを受けて高下駄で殴って怪我させたことが一度、そして、物干台から石をぶつけてきた相手の家へ飛び込み、殴り倒してから箪笥を滅茶苦茶に靴で蹴って壊したことが一度あるだけだった。

 博教は、喧嘩における卑怯であるか、ないか、それ以外にも、恥の概念には、特別に敏感であった。

「誰にでも多かれ少なかれはあるんだろうけど、俺の少年時代の『恥』の感情には、なんか普通じゃない、独特の異なったものがあったようにも思う。それが一種の強迫観念なんだろうね」

  ある日、梅太郎に随いて信号の変った横断歩道を渡る時、ふと父の茶色い靴に目がいった。靴は、家を出る時、女中が磨いたそんなに古いものではなかったが、薄鼠色の靴下にはどう見てもフィットしていない。
 博教はあわてて父の足元から目をそらしたが、その恥ずかしい気持ちが一生忘れられない。

  また、家の近くの「銀龍パチンコ」の用心棒がいきなり飛び出して来て、仲間の用心棒を殴った気の強い大工に向かって行くのをたまたま見たことがあった。ところがその用心棒は、大工の隣に立っていた喧嘩とは全く無関係の青年の背中へ飛び蹴りを一発くらわしてしまった。
 蹴られた青年が真っ赤になって怒る前に、博教はどうにも恥ずかしくて、その場に立っていられないほどだった。
 あわてものの用心棒は元警察官で、自分が悪いと知ると何度も青年に頭を下げて詫びた。
 こうなるに決まっているとわかっていたから、博教は用心棒の数秒後の心情がこちらへ電流のように伝わって来たのだった。

 また、この頃学校からの帰り道、異様な姿をしている男達数人と市川警察署の横で擦れ違った。
  藁で拵えた三角帽を頭から冠り、寝巻きみたいな短い着物を着ていた。彼等を眺めた時、博教は心の底から戦慄が走った。
  大時代的囚人姿を見たのはそれだけだが、強い印象として残り、ああなりたくないと思って、常に自分を律さなければならない気持ちになった。

 しかし、後年、自分が囚人になるとは思いもよらなかった。

  博教は、小学高学年になると、自我が芽生え、さまざまな内面の思いを整理するために、ますます読書にいそしむようになった。
 そして、5年生の時、通っていた市川小学校の二つの教室を改装して市立図書館が出来、毎日オート三輪で本がどっさり運ばれ、どっさり捨てられた。
博教は広田さんという係りの人に「爆弾三勇士」の本を貰い、この本を今でも保存している。
  長い間、「爆弾三勇士」は博教の憧れの英雄だった。

  余談だが、その時の図書館の初代館長が、カメラマンの小暮徹の父親、書道家・小暮青風であった。小暮徹は市川学園の7年後輩で、後にテレビ番組「百瀬博教の時間旅行」で初めて共演することになる。

 番組の中で、小暮は「僕が中学のとき、百瀬さんは市川じゃあ、無敵の不良で名前が轟いて有名だったけど、俺は一生会わなきゃいいなと思っていたなぁ」と言っている。

  博教は、子供の頃から、父を誇らしく思っていたが、母との係わり合いは屈折していた。
 小学校5年生の母の日のこと、学校で、「お母さんありがとう」と書いたカーネーションを胸につけることになっていた。
 その時に白いカーネーションをしている子供がいた。
 <ああ、この子にはお母さんいないんだな>と思うと、それから、もうカーネーションをつけるの止そう、と博教は決めた。
  そして、口うるさい母親が嫌いだった博教が、自分にも母親が居ることを初めて意識するようになった。

  博教の母、菊江は見栄っ張りの負けず嫌いであった。
  菊江が娘時代の話を始めると、常にロマンチックな夢想家となった。
 例えば、梅太郎が「俺の最も古い記憶は、2歳くらいのときお手伝いさんに連れられて花火に行って、帰ってきたら毛糸の帽子が無くなってた」と言うと、菊江は「私が小さいときは、父の屋敷に日露戦争でバルチック艦隊を破った、連合艦隊総司令官東郷平八郎元帥がたくさんの部下と一緒にいらっしゃった」と言い張った。
  梅太郎が「人力車にのって浜町から帰ってきた」って言うと「うちには自家用車のスチュードベーカーがあって学校を送り迎えしてもらった」と言い返した。
  梅太郎が三味線の師匠を好きになった時は「私は三味線は嫌いだ。小さい時父がマンドリンをやれって言われてたから」などと言い、さらには「祖父からドイツに留学させられそうになった」と語り、亡くなるまで、「世界中で一番素敵な男性は父だわ」と亭主の耳に届いても平気な様子で喋った。

「子供の頃は『また、おふくろが吹いてるな』って感じだったけど、そういう吹くところは俺も似たのだろうな、東郷元帥が家に来たのは、本当かもしれないけど、『隅田川まで戦艦に乗ってきた』なんて話を膨らませるんだよ。おもくれーだろ!」

 なお「おもくれー」は「面白い」の意味だが、百瀬の口癖だった。
証言の端々に出てくる。

  実際、母、菊江は、娘時代の裕福でお嬢様の暮らしの記憶が甘美に残っていた。
  母・菊江は明治の末の生れで、金町一家総長、坂本直吉の妹、坂本カメの婿養子であり、早稲田大学の前身、東京専門学校を卒業した坂本雄二郎の五女だった。
 博教にとっては祖父に当る雄二郎の稼業は、その養父、坂本直吉から継いだ、石炭荷揚げと建築請負い業で、あくまで堅気であった。
 雄二郎の時代は石炭が総てのエネルギーの元だったので、一日、千人強の人夫を使役する組織の含長をしていた雄二郎の懐は常に潤沢だった。
彼は気前のいい男だったので沢山の学生や青年実業家の面倒を見ていた。
 雄二郎は亡くなる三年前に大連に進出した。しかし、この時、請負った架橋工事他の大失策が原因で、今の金にすると百七十億ほどの負債を負った。
 この失敗が元で、長年事務所として使っていた「帝国ホテル」から、チェコ製のクリスタルガラスを使ったサイフォンを一つ持って、これも、ほどなく売らねばならなくなる橋場の屋敷へ戻った。
  そうなった後でも、菊江を含めた娘達は歌舞伎見物や温習会等で使っていた自家用車のスチュードベーカーが消えるまで、家運が傾いた事を知らず、やれ着物だ、やれ相撲見物だと、その贅沢さを争っていたという。

 雄二郎は胸の病気がいよいよ悪化し、昭和四年五十二歳で亡くなった。
 この時坂本家には三千円(今の四百五十万)しかなかった。
 しかし、坂本家の貧乏暮しは、七、八年で終った。良くしたもので「家貧しくして孝子顕る」をそのまま絵にしたような母・菊江の直ぐ下の弟、坂本雄三郎が台湾製糖の仕事で巨万の富を儲けたからだった。

 雄三郎は、昭和十九年、トラック一台が五万円だった時代に、なんと四千万円の資産を持ったのである。

  その年、雄三郎は三十二歳の男盛りである。雄三郎は遊び好きだったから当然花柳界に出入りし、新橋、柳橋で大もてした。
  金の切れることもさりながら、縁なし眼鏡を掛けた冷酷そうな顔が、舞台から降りた福助そっくりだと、新柳二橋の芸者が騒いだからだ。
  博教はこの雄三郎叔父に面白い子供だと、とても可愛がられた。
 叔父は父に内緒で、空襲が激しくなって長野の宮田へ疎開する母に、三万円の銭別をくれたそうだ。
 しかし、この雄三郎は昭和二十年八月十五日の敗戦を見ると間もなく病死した。
 以降、坂本直吉親分の侠客の一家を継いだ百瀬家と、坂本直吉親分の実業を継いだ坂本家の行き来は、途絶えがちだった。

「俺がおふくろから譲りうけたのは、この鼻ぺちの顔と度胸だろう。おやじには乾分なんて何十人もいたんだけど、おふくろにかかったら一発でやられてたからね。浪花節でね、三五郎っていう清水の次郎長の乾分がいるんだけど、その奥さんの『お民の度胸』って話があるんですよ。その女と一緒なんだよ。でも、俺の家の二つの血のなかで、お袋は俺に任侠じゃなく実業に進んで欲しかったんだろうな。うちにあるレコードで、小学生ぐらいからずっと聞いていて、渡世の世界では、こういう時ははこういうふうに言うんだな、というのを俺は学習していたんですよ。でも、おふくろは、シュゴイネルワイゼンとか、『乙女の祈り』とか、わざと買ってくる。きっと子供をそっちの道へ進ませたくなかったんだろうな」
 

 まだテレビが無いこの時代、子供たちを夢中にさせたのは、少年読み物や漫画や映画だった。
 博教は、今でも、この時代の作品への偏愛を隠さない並はずれたコレクターであり、趣味人である。
  子供の時から、手塚治虫の『漫画大学』『来るべき世界』『ロストワールド』などの漫画を集めた。
 博教の収集は漫画に限らず、古本、メンコやびー玉、塗り絵、切手、紅梅キャラメルのおまけの巨人の選手のカードを集めたた。
 それだけでは気が済まず、父・梅太郎のポケットからこぼれる、パン紙(負け馬券)ですら捨てないでいた。

  この紙ものに対する収集癖は博教を生涯のコレクター道に導くことになった。

  また、めんこで憶えた、新田義貞、楠正成、児島尚徳(たかのり)などの歴史上の忠臣、あるいは日露戦争で活躍した広瀬武夫や橘大佐などの軍神は、当時の子供の英雄であり、強さの象徴であった相撲取りは憧れだった。
 そして、映画のなかの、鞍馬天狗や丹下作善などチャンバラ時代劇を演じる、長谷川一夫、大河内傅次郎、坂東妻三郎や、大川橋蔵は人気の的であった。

 そんな子供たちの英雄地図を一夜にして、塗り替えるのはテレビと力道山の登場であった。


(第2部へつづく)

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