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小説「青き獣を野に放て」ー最終章16話―

ー平成3年川崎警察署襲撃事件顛末ー

掲載を止めていた小説を載せます。後2話で終わる話です。少し長いので、興味がある方は1章と2章を載せるので、もしよろしければこちらをお読み頂いただくと幸いです。


概要

随分前に大阪の西成区で、暴力団から警察署長が賄賂を受け取っていたとして、町の浮浪者や日雇労働者達か警察署を囲む暴動があった。
これを人に話すと大概の人は覚えていないと言う。
時に、残酷としか言い様のない事件も蓋を開けてみれば、偶発的な事で転がるように凄惨な結果になってしまったとい事がある。
そしてまた忘れられる。

ならばそんな事があったと昔話の様に都会の寓話を話してみよう。

平成3年に起きた川崎警察署襲撃事件をもとに川崎の若者の物語を了、勇、秋雪の3人の言葉で寓話的に描く。

登場人物

了(21才) 
身長2mの大男、横浜から川崎に流れてきた。素手で人を殴り殺せる。
勇や秋雪は了の事を話す時、「あいつ」といい、名前で呼ばれない。

勇〈23才)
川崎で会長と言われる父親を持ち、その父親を殺す。
同時期に了と出会い、徐々に自分自身も会長と言われる存在になっていくが、本当は勇の中に作られた別人格で、本当の「勇」を引きずり出す為に、自分の胸に拳銃を当てて引き金を引いた。

秋雪(20才)
偶然、署長の息子に関わってしまい、街のクズの様なフリをする署長の息子のせいで、偶発的に南ちゃんという女の子を拉致してしまい。その後、人生が崩壊する。

ジヤン・ケン・ポン
母親が中国人の三つ子の兄弟、年齢は14.5歳だと思うが自分達ですらよくわかっていない。
夜光のクズだったが、了に拾われて行動を共にする。

先輩
若い暴力団の構成員
夜光のクズ達からそう呼ばれていて、そのまま了や勇もそう呼んでいる。

署長の息子
警察署長の息子
街のクズの真似事をし、出会ったばかりの秋雪を巻き込み、南ちゃんを拉致した張本人、

南ちゃんのお兄さん
南ちゃんのお兄さんで坊主

おじさん
勇がおじさんと呼ぶ養豚場の主、勇が父親の様に養豚場経営から始める事を見越して、自分の持つ養豚場を勇に譲る。
右手がC型の義手。

南ちゃん
署長の息子と秋雪に偶発的に拉致され、夜光のクズが集まるステージで殺される。

用語

会長
元々は勇の父親の事であった。暴力団すら恐れるその存在は川崎が昭和重工業都市となる上で必要な存在だった。勇の父親が死んだ今、それは亡霊の様に町の住人の脳裏にこびりつき、その亡霊を暴力団が利用しようとする。

クズ
街のチンピラや不良を川崎ではクズと言った。
その中でも夜光という町外れの団地に住むやつらを夜光のクズと呼び、どうしようもない奴らの集まりの代名詞の様に呼ばれる。

夜光の団地 
団地に入るには線路の高架下を抜ける道一本しかなく、川崎の中でもより貧しかったり、行き場の無いものが住み、住人の半数は外国人労働者

ステージ
夜光の団地にあるスーパーマーケットの廃墟、
ここに夜光のクズはいつもたむろしている。


これまでのあらすじ

1章 勇と了と秋雪

昭和の終わり、重工業産業で発展した川崎はあふれる労働者とそれに群がる暴力団の街だった。
了は15才で川崎に流れてきた。
了はこの街の全てに君臨する「会長」の息子の勇に出会う。了に出会う事によって勇は会長である父親を殺す。しかしその事によって勇は「会長の息子」という身分も失い、着の身着のまま街に放り出される。了は勇を自らの手でこの街の会長にするために寝食を共にし、会長が最初にやった事業だという養豚場経営をはじめる。


2章 2年後

養豚場で生活をする勇と了、「おじさん」の手助けを受けながらも経営は順調だったが、勇にも了にもこのままでいいのかという疑問はあった。ある日、了は、週末にひとり街に戻るようになる。
同じころ秋雪という若者が「警察署長の息子」と出会い「南ちゃん」という中学生の女の子を車で拉致してしまうというトラブルに巻き込まれる。
「警察署長の息子」は南ちゃんの始末を「夜光のクズ」に頼もうとするが、そこに暴力団が関わろうとすることで秋雪の運命が変わる。
同じころ了も夜光のクズとトラブルを起こし、2つの出来事の運命がリンクしだす。
秋雪は夜行のクズと南ちゃんを集団レイプし、その事を勇に知られて、勇は了と共にレイプした夜行のクズの睾丸を抜き、街から放逐する。
そして暴力団や警察をも巻き込んで、勇は自分自身と決着をつけるために、全てを打ち壊す。


コークス山


3章 半年後
 
 
16話 「平成3年11月10日(金)」   
 
 
◇ 秋雪 20歳 
 
ゴーグル越しに、黒いコークスで埋め尽くされている巨大な塀の中を見ると、質の悪い録画ビデオを見ている様だったが、真上の青空はその黒いコークスの山さえ、やさしく包む青さがあった。
 
半年前。
 
〈あいつ〉と俺は、ジャンケンポン達に暴力団の高級車に押し込められ、
川崎の人工島の、奥に奥に逃げ、東扇島の製鉄所を過ぎた。
 
その製鉄所の奥の、朽ちた貨物線路を抜けると、人の寄り付かない埠頭の先にコンクリートの箱のような廃屋が3軒ある。
昔の荷役人足の寄宿部屋だと聞いた事がある。
 
そこへ5人で流れついて、明け方近くに崩れる様に寝た。
 
そのまま、丸一日寝た後、「ここで働け」とジャンケンポンに言われて連れて来られた場所は、数日前まで俺が勤めていた製鉄所の裏のコークス山だった。

俺と、あいつと、ジャンケンポンの3人はここで、隠れる様に働いている。
 
半年が過ぎた。
 
睾丸を抜かれた股の縫い目の痛みはもう無い。
歯が無いという生活も熟せるようになった。
この黒い緩丘で毎日、スコップを振る。
 
〈コークス山〉
 
鉄鉱石を銑鉄にする為には多量のコークスがいる。
ここは、そのコークスをうず高く貯める為の場所だ。

40ヘクタールある製鉄所の3分の1はコークス山だ。
バンカーと呼ばれる巨大なばら積みタンカーによって運ばれる何千万トンものコークスを、頭上に吊るされた巨大なクレーンシャベルがこっち側に落とし、至る所に山をつくっている。
 
腹底にコークスを詰め込んだバンカーは2日に1度、接岸し、その荷をここへ下ろす。
 
コークスは、パイプラインを通って燃え続ける溶鉱炉の血液となり、永遠に燃え続ける。
それでもこの巨大なシステムの端々を支える為に人の手が要る。
 
コークスを均さなければならない。
 
均すという作業がなければ、山に穴が開く。

穴が開けば流れが悪くなる。

流れが悪くなれば炉の火が止まり、炉は死ぬ。
そうならないように絶えず人の手で均す。
あちこちに出来るコークスの山を人の手で平にする。

端も見えない強大な囲いの中で、20人程で熱気と黒煙に塗れて、黙々とスコップを振る。
 
「オマエツカエナイヨ!ハア?」
 
片言で罵る籠った声だった。
声の主に、〈あいつ〉はいつまでも同じ場所で罵られていた。
 
「おおい!来るぞう!」
 
叫ぶ誰かの声を切欠に、そこにいる全ての手が止まり、空を見る。
巨大なシャベルが口を開け、何トンものコークスを土砂降りに吐き捨てる。
その雨に巻き込まれれば、一発で死ぬ。
俺も、ジャンケンポンも、怒鳴っているカタコトの男も、あいつも散り散りに逃げる。
 
濛々と上がる粉塵が落ち着くのを待ち、積み上げられた山にとり付き、手に持つスコップで右に左に振る。
コツなんか無い、黙々とスコップを振る。
 
「オマエ、ソウジャナイヨ!ハア?」

もう、声のするほうを見なかった。
西日が真横から指す前には頭上を行き来するクレーンが止まる。
 
灰色の群れが、紅い日を右頬に受け、一つしかない出入り口から塀の外へ出る。
 
塀の外へ出ると、コークス山の労働者の為のボロ定食屋が一軒だけある。定食屋のオヤジが出す褪せたガラスコップは、昼は味のしないお茶を出し、夕方には、味のしない焼酎の器になる。
 
コークス山で働く人間は必ずここで甘酸っぱいゲソスルメを咥えて、焼酎を飲んで帰る。
コークスの粉塵で覆われた咽喉に通るものは酒以外なく、濁った喉を洗い流すように首を振って飲み干すと、喉元を麻痺させ、やっと飯が食える。
焼酎の辛さが苦手な奴は甘い梅シロップを数滴垂らす。
 
酒は、ガヤガヤと人を騒がしくする。
俺達は、いつも5人で居た。

ジャンケンポン達は並んでは眉を顰めて、合わせたように一杯目の酒を飲む。
あいつは、焼酎の辛さに慣れず、梅シロップを数滴落としてもらう。
それでもあいつは焼酎を殆ど残す。
 
「飲めよ」と進めても、「飲めないんだよ」と真顔で言う。
 
その繰り返しだった。
この半年間、毎日がその繰り返しだった。
 
あいつは、いつものように1杯目の焼酎を殆ど残して、スルメをいつまでも噛んでいる。

そのあいつを囲んでいるところへ、コークス山で怒鳴り散らしていた中国人が近付いてきた。

頭のてっぺんまで禿げ上がった頭に、べっとりと海藻のような残毛を張り付けて、イライラと喋り出した。
 
「オマエガイルトサギョウコウリツガワルインダヨ、ハア?」
 
こいつは、俺達が初めてここへ来たとき、他の奴を怒鳴り散らしていた。
矛先が変わっただけだ。
2杯目の焼酎を飲み干して、俺は禿に食って掛かった。
 
「お前の言っている事はお前の気分次第じゃねえか。すだれ禿げ!」
 
俺は歯も睾丸も、帰る場所も無い。
出稼ぎのすだれ禿の中国人なんかに何の遠慮がいるものか。

禿は、酔って頭頂部まで染め上げて、ホイチャホイチャと怒鳴り返してきた。
さっぱり分からん、無視した。
 
 
さっさと飲んで出て行こうと、コップを持った時、
 
「ナンダヨ、ハナセヨ、ハア?」
 
あいつが、禿の手を掴んでいた。
 
「毎日そう、捲し立てないでくれ」
「シラナイヨ!バカ!ハア?」
 
禿は力任せにあいつの手を振りほどくと、あいつは尻もちをついた。
座りこんでいるあいつに、禿がホイチャホイチャと怒鳴っている。
ジャンケンポンの一人が、禿の言葉を理解したような受け答えをした。
 
 
「おいハゲ、いい加減にしろよ。姉ちゃんに言うぞ」
 
あいつはいつまでも、尻もちから立てないでいた。
俺は両手であいつを起たせながら、ジャンケンポン達に話し掛けた。
 
「お前、あのハゲが何て言ったのか分ったのか?」
「ああ、死んだ母ちゃんが同じ方言だった」
「何て、言っていたんだ?」
 
どうせ悪態だ。
 
「夜光の団地にも入れないような奴らが、って」
「姉ちゃんって?」
「うちの姉ちゃん、団地売春の元締めなんだよ」
「売春?」
「ああ、あいつら、どうせ町まで出て、女なんか買えないから、団地の同じ外人女とかを買うんだよ。女のほうも、可哀そうだから、3千円とかでさせるだよ」
「外人じゃないのもいるぜ。ばあちゃんだけど」
 
俺への受け答えはいつの間にか3人になって、また3人で歌うように喋り出した。
うるせえ。
 
「お前らの姉ちゃん、そんなに偉いのかよ」
「昔の彼氏が国に帰って、出稼ぎの手配師をやっているんだよ。今は、姉ちゃんを信用してこっちの事をいろいろ任せている。売春もそうさ、トラブル起こしそうな奴はセックスさせときゃ大体、おとなしくなるよ」
「俺達がここで働けるのも、姉ちゃんが製鉄所の外人枠にねじ込んだから入れたんだぜ」
「外人枠?」
「こういうでかい工場みたいなところは、法律で、決まった人数の外人を雇わなきゃなんないんだよ」
「お前もボスも、外人ってことだ」
「働いてりゃあ、他人にも疑われないし、大体の事は切り抜けられるって姉ちゃんが言っていた」
「うちの姉ちゃんが何か言やあ、あのハゲも、自分の部屋でセンズリするしかねえ訳だ」
「言うって、俺達戻れないだろう。夜光にすら…」
 
戻れないだろう。
 
「脅しだよ。あれくらい言わないと分んねえよ」
「そろそろ夜光の外人女でもいいからやりてえよ。なあ?秋雪」
 
俺を見るんじゃねえ。
 
「秋雪、キンタマ無えじゃん?」
 
うるせえ。

「キンタマ無えと、チンポ起たねえの?」
 
3人、顏を並べてこっちを見た。
 
「知らねえよ」
 
酒を飲もうとコップ持ち上げた時、すっぽ抜けて歯の無い歯茎にコップの淵が当たった。
当たり所が良かったのか、ギターのハウリングのような響音が頭の中を支配して何も聞こえなくなった。
これ、とも言わず、ボロ定食屋のオヤジが、弁当の入った袋を俺達のテーブルに置いた。
帰れという合図だ。
ジャンケンポン達が、キョロキョロと辺りを見回してあいつを探している。
あいつが居ない。
先に帰ったんだろう。
飲み残した焼酎のコップに梅シロップが西日の様に赤く沈殿していた。
大分〝時間〟が過ぎたな。
 
 
落陽はものの影をどこまでも伸ばす。

弁当を持って、埠頭のコンクリ廃屋まで歩いて戻る。

風呂なんかない。

コンクリートの岸壁に立ち、バケツを足下の海に落とす、真下の波面は5メートル近く離れている。紐に、拾った鉄屑を巻き付け、海に落とす。
引き上げた海水をジャンケンポン達が頭から被る。
 
「うへえ、冷てえ!」
「もう、無理だよ!」
「寒い!」
 
そして口々に罵る。

頭から被るからだ、馬鹿が。

俺はバケツにぼろ布を浸して、身体の汚れを擦った。
ジャンケンポン達は、いつまでも罵りながら同じ行為を止めようとしない。
電気は無い。

波止場の明りは、辺りを薄闇くらいにしてくれるし、月があれば見えないものはない。
少し離れたところで、あいつが右手に巻いた布を外していた。

あいつの手首から先が無い。

そこから先は、ここへ来た夜に、焼き落とした。
あれからもう半年が経つ。
 
 
―半年前
 
あの日。
 
「署長の息子を殺させてやる」
 
会長の言葉を真に受けて、自分の睾丸を差出し、豚が受ける程度の手当を数日受け、ステージに戻った。

暗い、倉庫の端で震える署長の息子の対端に、独り置かれていた。
それはルールなのだから、会長が決めた〝ルール〟なのだから、

数分?数十分?

時間の感覚は殆ど、掴めなかった。
 
意識を失い掛けた時、割れるほどの怒声が起きた。

声や音、闇と光、増え続ける乱踏音、駆け抜ける混乱の中、ジャンケンポンに囲まれて、その場所を後にした。
 
俺は殺す事も、殺される事もなかった。
騙された。
会長に騙された。
 
暴力団の車に乗り込み、〈夜光〉を後にし、俺達はこの廃屋まで逃げてきた。

あの喧噪の中、随分と都合良く逃げ果せたものだと、三兄弟のひとりにそう言った。
 
「会長がそうしろって…」
 
語尾がハッキリしない。

釈然としない苛立ちで、下唇を歯の無い歯茎で噛むが、ただ滑るだけで、何の解消にもならない。
騙された、会長に騙された。
 
暗闇に駆ける足音が響く。

どこかへ消えていた2人が駆け戻ってきた。
 
「沈んだか?」
「分んねえ。ぼわーん、てな、海面が暗くてよ」
「まあ、大丈夫かな」
 
何の話だ?
 
「何の話だ?」
 
俺をのけ者に話す3人の会話に、ズケズケと入っていった。
 
「ああ、車だよ」
「車を捨てたのか?海に?」
「ああ会長がそうしろって」
 
暴力団の車は高級車だ。喧噪の中で押し込まれながらも、リアシートの革の匂いは自分の現状を忘れるほどリラックス出来た。
 
「あの車を?」
 
もう一度、同じ事を聞いてしまった。
 
「ああ、会長がそうしろって」
 
それしか言わないジャンケンポン達に、自分のモノでも無いものを惜しんでいた気持ちが急に恥かしくなった。
 
「あいつ、ちょっと見てくる」
 
廃屋の中に逃げるように入った。
深く、低く、微かな呼吸が聞こえる。
あいつが居る。
あいつは臭かった。それだけで判った。

ああ、死ぬな。

あいつが居る辺りに向かって声を掛けた。
 
「あんた死ぬよ、俺達じゃ何にもしてやれない。町に戻ったほうがいい」
 
何も答えない。
 
「なあ?」
 
答えない。
暗闇は時間の経過の感覚を狂わす。
どれくらい待ったか分らない。あいつの吐く息の音が途切れた。
 
「お前には…」
 
喋り出した。
 
「…約束があったな」
 
何を今さら、
 
「あの時じゃなかったのかもな」
「何が?」
 
俺の苛立ちを察したのか、不器用に何かを説明しだした。
 
「お前はあの場所で、署長の息子を殺せると思っていたが、でも違ったのかもな。約束は別の時なのかもしれない」
 
俺は息が荒くなった、自分の荒い息使いに口元を押し潰されそうになった。
 
「この街の人間は不思議だ」
 
言いながら、あいつが暗闇のまま立ち上がった。
何も見えないのに、俺は闇を見上げた。
 
「お前の約束は俺が守る」
 
声が近付いてきた。
迫りくる暗闇に俺は肩をすぼめて身構えた。
 
「手伝ってくれ」
 
声が、俺の右肩を通り過ぎた時に、少しだけ悲鳴のようなものを口から出した後、遠ざかる足音に振り向くと、巨大な背中が月明かりに黒々と照らされていた。

のろのろと間抜けな後姿に、ジャンケンポンの3つの影が仔犬の様に付いて行った。
 
港のゴミや廃材を集め、焚火をおこした。
渦を成して伸び上がる火柱の前に、あいつは座っていた。
 
「潰れた拳を焼こう」
 
そう言ったあいつの言葉にジャンケンポンは驚いた。

俺は大体、予想していた。

火明りにかざして俺達に拳を見せた。
死んだ鳥の脚のような拳は、何かの汁を出していた。
 
「濡らしてくれ」
 
それだけ言って、あいつは自分のシャツを脱いで、俺に渡した。

俺はそれをバケツの塩水に浸けて渡した。
慌ててジャンケンポン達も、自分達のシャツを脱いで、バケツに突っ込んだ。

あいつは手首を拾った針金で巻いた。
 
「俺が気を失ったら、お前らで判断してくれ」
「死ぬに決まっている」
 
俺は嫌味を言った。あいつは紫色の唇で言った。
 
「死ぬかもな」
 
そう言って、立膝で、右腕をたき火に突っ込んだ。
火は、這うように腕に巻き付き、火柱を天に突き上げた。
手を囲む火が、チュッルチュルと何かを巻き込むような音をさせると、渇いた破裂音と共に拳は破裂し、人脂を、俺やジャンケンポン達の胸にとばした。
 
「熱っ!」
 
脂粒は飛び上がる程に熱かった。

その時、
あいつは右腕を炎に突っ込んだままに、どおと倒れた。
 
「秋雪!ボス、大丈夫かよ!」
 
三兄弟が俺を囲む。

答えられずに居ると、3人のうち2人が、あいつの腕を火から放そうと脚を持って引き摺っていた。
 
「やめろ!」
 
俺は叫んだ。
 
「もういいだろう!」
「まだだ!骨になるまで焼け!もっと水を持ってこい!」
 
あいつの肩に塩水を掛け続けた。

生きていても、死んでも、拳を焼き切ろう。
そう決めた。
5分もそうしていたろうか、拳の周りの炎が色を変えた。
炎の中を覗くと骨のようなものだけになっていた。
 
「引きずり出せ!」
 
ジャンケンポン達に叫び、両脚を2人ずつに分かれて引っ張った。
うつ伏せに万歳をしたあいつは重く、間抜けだった。
火元から手が抜けるのを確かめると、掌の形を残した骨は鋳型を流れる銑鉄のように赤かった。

俺ははバケツを手に取った。

バケツには半分ほどの海水が残っていた。

足りるかな?

そう思いながら、あいつの骨拳に垂らした海水は、水煙を上げて骨の熱と光を奪った。
どうすることも出来ず、灰色の拳骨を眺めていたら、
破裂した。
 
散り散りに飛んだ骨の幾つかは俺達の頬や体に当り、幾つかは焚火の中に弾け戻った。

水面の波紋のように焚火は揺れ、小さく火の粉を飛ばし、元の静寂を取り戻した。
あいつは、俯せたままピクリとも動かない。

死んだのかもしれない。

そう思った時、小さく呻いて、拳のある左手を何かを掴むように動かした。
生きている。
 
黒く煤けたあいつの手首に、濡らしたシャツを巻いた。
さっきは、ああ思ったが、今は違うかなと思った。
 
「あんたは死なないよ」
 
そう言って焚火の傍を離れた。

水平線はいつの間にか紫色に光っていた。
紫色は迫りくる朝日に追い越され、数秒で消え、明々と昇る朝日が夜の闇を溶かし去った。
 
 
今、
あの日から
半年が過ぎた。
 
あの時とは逆に、眼前の太陽は反対の水平線に翳ってゆく。
あいつは薄明りの中で、ゴムの様に黒い自分の手首を眺めていた。
俺は、あいつに近付いて、立ったまま見下ろした。
 
「今日、20才になった。俺も今日から、この町の大人になった」
 
あいつは何も答えない。
 
「あんた、町を出な。それが、俺の答えさ」
 
俺の言葉がキッカケのように、薄明りはトップリとした闇へと切り替わった。
 
あの日、から半年が過ぎた。
 
 
◆ 了 22歳
 
 
秋雪が俺の前に立っていた。
 
「あんた、町を出な。それが俺の答えさ」
「そうだな。そうしよう」
 
それ以上は喋らなかった。
 
 
半年前のあの日から、一度も会長に会っていない。

引き裂かれるような別れは、それまでの全てを無にし、刻々と過ぎる時間は全てを投げやりな感情にした。

養豚場の豚達はどうしているだろう?
全部死んだんだろうか?
いや、どうせオジさんがまた面倒をみているだろう。

こうやって大人は、無責任な若者の尻拭いをするんだ。
当たり前とは思わないが、申し訳ないとも思わない。
 
「空を見ていて、そう思ったんだ」
 
秋雪が、突然そんな事を言ってきた。
 
「空?」
 
空を見た。

夜空に、濃紺の雲が渦巻くように動いていた。
 
「違う」
 
ただ見上げていただけなのに「違う」と言われた。
 
「今じゃないよ。青い空さ。空は青いだろう?海も青いだろう?同じ青なのに空の青はどんなものでも受け入れるんだ。飲込むんじゃなくて、受け入れるんだ。ネズミ色のビルも、藍色の煙突も、緑の山も、肌色の倉庫も、黒いコークスの山も、どの色も初めから決まっていたかのように受け入れるんだ」
 
秋雪の話に、ゾワゾワと背中に悪寒がした。
 
「海は違うのか?」
 
意地悪に混ぜっ返すような質問をした。
 
「ああ違うな」

落ちついた言葉で返してきた。
 
「あんたは空さ。空が無ければ海が青くなることはない。空の青はこの町には不釣り合いだったのさ」
 
当たり前の事に疑問を持つことがそんなに偉いのか。
豚どもめ。

忘れていたものがこみ上げてきた。
それは〝暴力〟と同席する感情だった。
その感情が、頭の片隅に湧いてきた。
 
獣だ。
 
立とうかと思ったが、上手く立てない。

刺青おじさんに右手を潰されて以来、身体のバランスが上手く取れない。
片手が無いという事がこれ程に不便だとは思わなかった。

座ったまま声を出した。
出した途端に声は獣に乗っ取られ、深く沈むような声になった。
 
「…署長の息子はどうするんだ?」
 
暗い海を見ながら言った。
 
「秋雪、お前の使命なんじゃなかったのか?殺し、殺され、それでも、やると決めた使命なんじゃなかったのか?俺は―」
 
あの時、この男が自分の歯束を破壊してまで叫んだ言葉に感動した。

「般若心経」

その言葉の羅列は、遠い昔の誰かが作ったものかもしれない。

それでも、もしその場にふさわしい言葉が思いつかない時は〝ああいうもの〟のほうが他人を納得させられるのかもしれないと思った。

その事を言おうと思ったが止めた。
秋雪を見て、投げやりなことを言った。
 
「俺は町を出る。俺には、俺の罰がある」
「罰?」
「ああ、罰さ、人だからな。自分の行いは全て自分自身に帰依する」
 
妹の事を考え、その言葉を吐いた。

母さんが消えた日、近くの公園の便所の裏に、拳が入る程の穴を掘り、流し込むように、妹の骨をどんぶりから零した。
穴が浅かったのか、妹の骸骨は、つるんとした頭の頂点を穴の切れ目から出していた。
白い円みに苛立ちが沸き起こり、踏んだ。
骨は薄い陶器の様に割れた。
 
「俺は自分の妹の骨を踏み潰した。これから、どう生きていくかは分らない。ただ苦しいだけの時間が、命尽きるまであるだけなのかしれない」
「うんはっ!」
 
鼻から抜けるような笑いを、秋雪がした。
 
「お前、馬鹿じゃねえ!どれだけの人間を殺した?はあ?十何人もの睾丸を抜いて!俺のも無え!はあ?それが、妹の骸骨踏んだから?お前の罪はそんなもんじゃねえよ!」
 
秋雪の影が押し寄せるように近付いてきた。

目の前の秋雪の影を見上げた時、右肩に、足で押し下げるような圧力を感じ、砂浜の泡波に浚われるようにこけて、仰向けに倒れた。
 
「見えなかったかい?はあ?俺、蹴ったぜ」
 
秋雪は、罵る禿中国人のような口ぶりだった。

肘と尻の筋肉を擦って何とか、座ろうとした時、秋雪にまた蹴られて、脚はそのまま右肩に乗っていた。
 
「あんた、自分の事ばっかりだな?」
 
仰向けのまま、何も言えなかった。
秋雪はその言葉を言った。
 
「この町で生まれなきゃ、分らないよ」
 
可笑しかった。

俺は橋を渡ってきた。そうさ、よそ者だ。

可笑しさと同時に、また獣が膨らんだ。
 
「うふふ…」
 
地面に転がされながら笑った。随分、気味が悪かったろう。
 
「ふふ、おおい、ジャンケンポン、お前ら、こっち来いよ」
 
転がったまま、それほど大きな声を出さず、ジャンケンポンを、俺は呼んだ。

暗闇にもこっちの状況がうすぼんやりと見えたんだろう。

慌てて駆け足で来るのが分る。
それでも秋雪は脚を退けなかった。
 
「俺も殺すかい?」
 
秋雪の声も笑っていた。

馬鹿にしているという事を意思表示する為に笑っていた。
こいつはこいつなりに生きる理屈があるんだろう。
 
「秋雪、お前の約束は何だ?」
 
俺の右肩を踏み付ける秋雪の左足首を、左手の全ての指でしっかりと掴んだ。
 
「放せよ」
 
秋雪の声にはすでに恐怖が、混じっていた。
 
「頼むよ」
 
左手でスコップを握るとき、いつも左手の小指を浮かしていた。そうしなければ、無意識に強く握りしめてスコップを駄目にしてしまうからだ。
俺の拳は人を殺す、馬鹿の振りをして、自分すらも騙していれば誰も傷付かない。

止めた。

それも、もう止めた。
 
「そうだな、お前の言う通りだ。俺は自分の事ばかりだ」
 
足首を掴んだ手首の腱に力を入れると、指々は互いに寄り添うように引き合う。

秋雪は、俺が押えた足首を起点に地面に卒倒した。

低く握った俺の手首は、微塵も動いていない。
声も出さない秋雪を、左手で懐暗に取り込んだで、両の腕を絡めた。
 
「うんざりだ」
 
秋雪の耳元で、自分自身に言った。

渦巻く獣を抑えながら、言葉を続けた。
 
「お前は署長の息子を殺すんだろう?」
 
秋雪を放し、膝を使って立ち上がった。

秋雪は、足元で動かない。

ジャンケンポン達が黙って、俺を見ていた。
 
「署長の息子を殺そう。こいつとの約束だ。その後、町を出る」
「ボス、どっちに行くんだい?」
 
何処という考えはなかった。
 
「遠くへ行く」
「そうかい、ボスが行くんなら、俺らも行くよ」
「金はあるんだ。気にすんない」
「半年近く、5人で働いて給料そっくりそのまま500万くらいあるよ。姉貴に預けてある」
「500?」
「ああ、こんな生活だ、金なんかいらねえ、500なんか直ぐだ」
 
はあ、本当に金を貯めるんなら、乞食みたいな生活が一番なのか。
ため息がでる。

まあ、金があると思うと欲が出てきた。
 
「お前らの姉ちゃんは色んなことができるんだな。これ、どうにか出来ないか?」
 
拳の無い右手を出した。
 
「豚小屋の手伝いおじさんみたいなやつかい?」
「いや、重さが有ればなんでもいいんだ。バランスをとらねえと、どうしても動きがままならない」
「聞いてみるよ。ボス、じゃあ、取敢えず夜光まで戻ろうか?」
「ああ、そうだな」
 
途端に、3人共、吹き出しそうな笑いを堪えて、足踏みし出した。
女でも抱く事を想像しているんだろう。
 
「歩きだろう?そう急くなよ」
「行くってなりゃあ、1時間も掛らないよ」
 
俺は溜息を吐いて、倒れている秋雪を、バランスを取るために右肩に担いだ。歩くのに随分と楽になった。

やっぱりそうだと思った。右側に重さがあれば動きが楽だ。

まあ、人間を肩に担ぐほどは必要ない。

振り向くと海は暗かった。
夜明けまでには随分とある
 
 
1時間後。
夜光の団地まで戻った。

ただこれだけの距離を半年間、一度も振り返らなかった。
 
一番奥の6号棟の3階の空き部屋に入った。

台所を合せて3つある部屋のうちの六畳の部屋に、電気もつけず、秋雪と座っていた。

誰も住んでいない筈なのに、ひなびた畳から生活の匂いがした。
窓に、カーテンは無く、斜めに射す月光の中に埃が舞っていた。

ジャンケンポン達は姉貴を連れてくると言って、戻ってこない。
 
台所のシンク下に置いてある赤い筒をずっと見ていた。

薄闇に眼を凝らすと、筒は〝消火器〟だった。

あれ、どうにかなんないかなあ…

あの鉄の筒が、どうにか右手に着かないかと、あれこれ考えていた。

目の前にあるものは随分と細そうだ。
もう少し、幅が有ればいいのか。
どちらにしろ、切ったり着けたりで、バーナーが要るなと思った。
 
「おい」
 
秋雪に話しかけた。
 
「お前、バーナー、扱えるか?」

秋雪はこっちを見て、頷いた。
 
「脚首まだ、痛いか?」
 
頷いた。
 
「折れているのか?」
 
首を横に振った後、「分らない」と言った。
 
「自分で歩けるか?」
「分らない」
「どうにかしろ」
「分った」
 
それだけの会話の後にまた消火器を見ていたとき、階段を上がってくる足音が、畳に座る俺の尻に伝わってきた。

アパートの夜を思い出す。

部屋の前で足音は止まり、鉄の扉が小さく軋って、開いた。
 
「ボス、姉ちゃんを連れてきたぜ」
 
声は一人だったが、靴を脱ぐ音は二人分だった。

先に部屋に入ってきたのは、〈姉ちゃん〉だった。

姉ちゃんは俺の前に座り、一匹ジャンケンポンは立っていた。

姉ちゃんの顏ははっきりとは見えなかったが、長い髪が掛る丸い肩幅に随分、体格がいいんだなと思った。

姉ちゃんは右手を俺に向けてきた。
 
「見せて」
 
その手の上に先の無い右手首を乗せた。
 
「大きい腕だねえ」
 
姉ちゃんは顔を上げた。
 
「直ぐは無理だよ」
「あ、いや、もういいんです。それより消火器を何本か」
「消火器?」
「はい、出来れば大きいものを」
「いいよ。探す」
「後、バーナーありませんか?」
「バーナー?」
「ええ、溶接とかで使うやつ」
「そんなものなら、団地のどこかにあるよ。弟に探させる。他には?」
「杖みたいなやつ有りませんか?あいつ怪我していて」
 
奥に坐っている秋雪に顏を向けた。
 
「そう、それも直ぐに用意するわ。他には?」
「いえ、それ位でいいです。後はどうにかします」
 
姉ちゃんは軽く頷いて、1匹ジャンケンポンに「探してきな」と言った。

返事もせず、ドアが開く音がしたら、姉ちゃんだけが残った。
 
「何か、すいません。色々」
 
そんな事くらいしか、口に出来なかった。
 
「町を出るんだって?」
 
姉ちゃんの声は落ち着いていた。
 
「…はい」
「一緒に行くんだろう?」
「え?」
 
誰と一緒に行くのか分らなかった。
 
「弟達さ」
「ああ、はい」
「あいつらはさ、ここで生まれたから、それ程困んなかったけど、私は母親に連れられて船で来たんだ。言葉にも慣れなくてね。母親も直ぐ死んじゃうし、あいつらは、どいつもクズだけどね、かわいいんだ」
「あ…はい、すいません」
 
何だか、謝ってしまった。

「明日の夜、コークス山に着いているバンカーが空になる。あれだけの大きさだから、離岸にも手間が掛る。バタバタしているうちに何人か増えても、誰も気付かないさ」
「それに乗るんですか?」
「私の生まれた国を見せてやってよ、あの子達に」
「わかりました」
「署長の息子を殺すんだって?」
「約束なんです」
 
言い終わって秋雪を見た。

姉ちゃんは「そう」とまた言って立ち上がった。
立ち上がる時、垂れる大きな乳房に押されて、薄いセーターが随分伸びていた。
 
姉ちゃんは部屋を出た。
外に出ていくのかと思ったが、隣の部屋の襖が開く音がした。

何をするつもりなのかさっぱり理解できないまま、また消火器に目線を向けた。
団地の壁は薄い、隣の部屋の音が微かに伝わる。
布の擦れる音は、ある事を連想させた。
 
姉ちゃんは服を脱いでいる。

その姿を考えていた。
その大きな乳房が今、たくし上げるシャツの裾に押されて、一度、真上を向き、ズドンと落ちるところを考えていた。
脱ぎ終わり、床に横になるところを考えていた。
 
秋雪に話し掛けようかと思ったが、秋雪は痛む足を抱える様に立膝で、無関心に背中を丸めていた。

どうしていいのか分らないうちにただ、頭の中の裸の姉ちゃんだけが意識を支配しだし、心臓の鼓動が早くなるのが分かった。
 
隣に裸の女がいる。

そのことを考えて沸き起こる正常な男の感情、そんなものが残っていたのかと自分でも驚いた。

そう思うと、こんな自分に初めて愛おしさのようなものも感じた。

膝を付いて、ゆっくりと起ち上がった。
 
隣の部屋の襖を開けると、月明かりに光る女の尻が眼に入った。

巨大な尻だ。

裸の背中に目線を這わせたその先に、点のような赤い光が浮いていた。

光は、咥えているタバコの火だった。

姉ちゃんは、裸で畳に俯せて、ベランダに手を出して、タバコの灰を捨てていた。

俺は、襖を閉めた。

姉ちゃんは、振り返りもせず、タバコを窓の桟に押し付けて火を消した。

どうすることも出来ずに立っていると、姉ちゃんは起きて来て、裸の胸を押し付けてきた。

柔らかく、巨大な胸は押せば押すだけ俺の腹で潰れ、姉ちゃんの顎の下で溢れていた。

俺を見上げている姉ちゃんは、鼻から零すように笑って、俺のズボンのベルトを外した。
 
「あんたさ、さっき誰とって思ったでしょう?」
「え?」
「一緒に行くんだろうって、私、言った時」
「ああ、はい…」
 
言いながら、姉ちゃんはパンツの隙間から手を入れてきて、直接俺のチンポを触ってきた。

ただ指先が振れているだけなのに、耳鳴りがするくらい興奮した。
このまま、この手の中で爆発してもいいと思った。
 
「あんたの周りの人間は大変だね」
 
姉ちゃんはその巨体を俺に委ねた。バランスがおかしい俺は、されるがまま尻餅をついた。
 
「すいません」
 
言葉は宙に消える。

姉ちゃんはパンツの隙間から突き出ている怒張棒を、座るように跨いだ。

片足でつま先立ちながら、女の股の濡れている所を左右に振って、重なり合うポイントを探していた。

まだ入ってはいない。
 
「私ね、あんたに昔、逢った事…」
 
濡れた合わせ目に、俺のものが吸い込まれた。
同時に、姉ちゃんは両脚を投げだし、巨体を俺の腹の上に落とした。
 
「…あるよ」
 
無意識に姉ちゃんの尻を抱え、重なる股間を押し付け合った時、背中に冷水を浴びせられたような痺れが突き抜けた。
 
射精。
 
したが、脈打つ股間の熱は収まりそうになかった。

抱えた姉ちゃんを繫がったまま畳に伏せ、不器用に腰を前後させた。
横になった姉ちゃんは、「重いんだ」と言って、零れる乳房を、抱えるように自分の肘に乗せ、俺が腰を動かすと、声も出さず、眉間に皺を寄せる。

女の股で腰を振るなんてはじめてだった。
時々、意味も無く膝が跳ねる。
その慌しさに、姉ちゃんは笑った。
優しく笑ってくれた。
 
そう言えば、隣に秋雪がいる。
 
 
◇ 秋雪 20歳
 
 
何で、セックスするんだろう?
 
隣の〈姉ちゃん〉の笑い声と、部屋を揺らす軋音を聞きながら、南ちゃんは何故、殺される時、抗わなかったんだろう?と考えていた。

南ちゃんは死んだ。
俺を見ながら死んだ。
 
あの日。
南ちゃんの中に射精をした後、南ちゃんの首に自分の両手の親指を重ねて置いた。
その言葉を聞いたからだ。
 
羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝菩提僧莎訶。
 
人を馬鹿にしている。
「助けて」
そう一言言えば良かったんだ。
それを…
お前は馬鹿だと、愚か者だと、
その言葉を知る俺を、堕ちる覚悟は出来ているのかと見透かしているようだった。
こんまま殺そう。

射精後のけだるさが、その気持ちに勢いを持たせ、南ちゃんの首に掌をおいた。

膝と床の間のヌルヌルの精子溜まりが膝に絡み付き、バランスを悪
くするが、股間を重ねたまま、全ての己の力を親指に乗せた。
 
南ちゃんは、その間も、その言葉を繰り返していたが、ゆっくりと掛る首への俺の手の加重は彼女の言葉を奪い、吸う事も吐く事も奪った。

南ちゃんは、その時初めて両手を持ち上げ、俺の肩や首に手の平を押し付けてきた。

押し付ける腕に差ほどの力はなく、俺の腕を退けることは出来ない。

南ちゃんの唇は暗い茶色に変わり、逃げ場の無い内圧はコメカミの血管を蚯蚓の様に這わせ、眼球から血を溢れさせた。
 
その時、
 
今までの何百倍もの圧力で、ペニスが膣内に取り込まれた。

としか思えないほどの力が股間に掛った。

南ちゃんの膣からの一方的な剛力に2度目の射精をしたが、その放出感さえ膣内に吸い込まれ、脊髄を駆け上がる不断快感は、眼の前の現実と頭の中の現実の境を溶かし、何もかもが南ちゃんと一体になろうとする。

南ちゃんの首に巻きつく俺の両腕は熱に押し当てるスティックチョコのように溶け始め、支えを失った上半身が、彼女の胸の上に落ちた時、沼に沈むように溶け合い。〝俺〟とか〝南ちゃん〝とかを消すことなく、ひとつの塊にした。
 
塊は宙に浮き上がり、
廃屋の天井を突き抜け、
うす雲を突き抜け、
散らばる星屑を見ながら、狂い寄せる快感と共に緋色の無限世界に那由多んでいた。
 
白痴になる。
と、

意識が滑落する寸前に、死後硬直の様に膠着した自分の腕を南ちゃんの首から放した。

その瞬間を待っていたかのように、ペニスへの膣圧は解き放たれ、膝の接地感は現実を取り戻した。

舌を痙攣させながら、眼下の南ちゃんを見た。

南ちゃんは死んでいた。
俺に犯されながら死んだ。
 
その死を感じながら、俺は白痴になる寸前程の快感を得ていた。
 
地獄だ。
 
何もかもが地獄だ。
歯を失おうが、睾丸をなくそうが、何の贖罪にもならない。
死ね、死ね、死ね。
俺、死ね。
 
それなのに、たかだか半年の間にやるべき事を見失い、抜けられる筈のない地獄を後にしようとしていた。

そしてまた、その地獄へ首根っこを掴まれ、投げ戻された。
 
あいつに、
 
あいつに足首を潰された。

逃げたからだ。
早く目的を遂げなければ、四肢を失い芋虫のようになる。
 
軋む壁の向こうの音が落ち着いたのを見計らい、肘で這いながら隣の部屋の襖の前まで行った。

耳を欹て〝終わっている〟事を確かめ、襖をノックした。
 
ドアのようにうまい音はしなかったが、構わず声を掛けた。
 
「行こうか」
 
返事が無かったので、もう一度声を掛けた。
 
「バーナーで、なんかするんだろ?」
「…ああ」
 
返事が返ってきた後、すぐに襖が開いた。
あいつは襖の前に立ち、床に寝そべっている俺に手を向けた。

俺はそれを無視し、台所の床を転がり伝いに壁まで行き、自力で立った。

あいつはシンクの端にあった古びた消火器を持って、外に出た。
 
「ステージにいるから、後で来い」
 
そう言って、駆け足で階段を降りて行った。
 
「杖持ってこようか?」
 
後頭部に声が降ってきた。乱れた髪を片手でまとめながら姉ちゃんが側に居た。
 
「お願いします」
 
姉ちゃんも鉄のドアを開け、外へと駆けた。
外はまだ暗かった。
 
 
〈ステージ〉に俺達は入った。

いつもの5人だ。
自立式のハロゲンランプを端に立たせ、屋内を照らした。

バーナーを使うなら、明りが欲しかった。

バーナーは、長いワイヤーホースで膝丈の小さなガスボンベに繋がり、水もバケツに3つ用意した。

その作業を三兄弟とあいつに任せ、俺は、グリップが短い杖をついたまま、それらの作業を何一つ手伝わなかった。

消火器はあいつが持って来たものを合せて4本ある。

どれも随分色褪せていた。

一番古いラベルの消費期限は昭和39年と書いてあった。
 
ステージは半年前のまま放置されていたのか、〝リング〟に使った足場が幾つも転がっていた。

床の血の黒い染みは埃を被り、なだらかに凹凸を作っていた。
いろんな事がここで起きた。
 
杖を持ったまま、床に立っている4本の消火器を見比べた。

どれもそう大差無かったが、古く錆びたやつが、一番幅がありそうだった。

俺は消火器を片手に取り、軽く振った。
その行為で何か確認できるわけじゃなかったが、それくらいしか思いつかなかった。
 
「中身、入っているよな、絶対」
 
床にそっと、消火器を置いた。
 
「出そうか」
 
俺の言葉に、あいつはジャンケンポンに首を動かした。

3人は慌てて消火器に群がった。
ピンを抜き、ホースを持ち上げた1人に、あいつが「もっと端に向けろよ」と言った。

ホースを持ったやつがレバーを弾きかけた時、「ちょっとまて、俺にやらせろ」と残された2人の内の1人が言った
 
「は?」
「いや、お前、前にやった事あるだろう?」
「何だよ、憶えてねえよ?」
「小学校から盗んで、海に巻き散らかしただろう」
「何だよ、随分前だろう?」
「それでもやった事あるだろう?」
「関係無いよ!」
「無い事ねえ、俺にやらせろ!」
「うるせえ!」
 
ホースを持った奴が突然、血走った眼で怒鳴りだした。
 
「うるせえ!うるせえ!俺がレバーを持ってんだよ!」
 
語気の勢いのままに、レバーを握った。

ホースは、人が居る方に向けて、年寄がタンを吐き出す様な音を起てて、視界をドンドン白くしていった。

さすがにあいつも「何、やってんだ!」と怒鳴ったが、レバーを放す気配は無く、押し広がる消火剤の粉煙に、何故か興奮してホースを振り回しだした。

怒っていた奴も、今度は爆笑しながら、「見えねえ、見えねえ」と叫んでいる。

あいつは煙を吸い込んだのか、生欠伸をえずいて、「馬鹿野郎!」と言って、逃げるように端へ避けた。

いつの間にか、年寄がタンを吐き出す音も収まり、ジャンケンポン達の笑い声も止んだ。
 
「おおい、何にも見えねえぞ」
 
当たり前だ。
 
「それはお前達が馬鹿だからだ」
 
間の会話を端折って、結論を言った。
どうせこれを言う。

ははは、と誰かが笑った。
 
「煙が落ち着くまで待とう」
 
1人が籠った声で、タバコでも咥えながら言った。

白煙の中に、点のようなライターの火の明りが着いた。

その火が突然、一回り大きくなった後、人の大きさもある火柱が起き、火だるまになった。

火の中のそいつは叫びながら、飛び込むように床に倒れ、ごろごろと転がった。

他の2人も慌てて何事かと、転がる火を追いかけた。
 
「どけ!」
 
と叫んで、バケツの水を火に向けて、あいつが投げた。

駆け回る人の脚に紛煙は掻き消され、ぼんやりと視界を取り戻した。

もう一度、バケツの水を、倒れているやつに掛けると、濡れながら、突然、跳ね上がった。

「何だよ、今の!」
 
その顏は鼻から口の周りが煤け、眉毛を失い。前髪を茶色く縮れさせていた。
 

「粉塵爆発だな」
 
俺が答えた。
 
「消火器の粉が爆発するのかよ!」
「いや、相当、古かったんだろう。今のやつはしないよ」
 
製鉄所は粉塵であふれている。
どんなものでも、粉状に細かく、中空に充満すれば、可燃性のものになる。

随分と注意をされた。
研修で見た実験映像にそっくりだった。
 
「大した事なくてよかったじゃないか。お前、名前は?」
 
焦げた顏を見た。
 
「はあ?」
「いや、名前だよ。ジャン、ケン、ポンのどれよ」
 
焦げた顏は〈ポン〉だと言った。
 
「お前だけは区別がつくな」
 
俺の言葉にあいつが短く笑った。
ポンの顏は笑って無かった。
 
俺は消火器を手に持った。

レバーを外すと上下同じように円みのある長いカプセルのような形だった。

繋ぎ目は無く、鋳物のように作られていた。
こんなものだが丁寧に作られている。
 
床に転がし、噴射口の部分をバーナーの火で落とし、筒にして、あいつの腕を容れてみたが、やっぱり、腕のほうが、ふたまわり程デカかった。
 
「切って挟んだ後に着けたらどうよ。その為のバーナーだろ?」
 
ポンが俺に言った。
 
「いやあ、さすがに危ないよ。切るのはいいが、ガス溶接って、時間も掛かるし、下手すりゃ残った腕の部分も落ちちゃうぜ」

「鉄はさ、熱くすると柔らかくなるんだろ?そこに腕を突っ込めばいいじゃないのか」
 
余熱の残る鉄筒を持って、あいつが傍に来ていた。
 
「ガスバーナーの火じゃ無理だ。そういうのは、鋳掛けって言って、炉でやるんだ。それに、それだけ熱した筒に腕なんか突っ込めるわけないだろう?」
「炉がいるのか?」
「ああ、炉だ。だから腕がもたないって。分るだろ?真っ赤な鉄、何度あると思っているんだよ」
「炉みたいなもの、出来ないか?今」
「だから、いくら…あんたでも」
「いや、俺は気にするな」
 
言葉を失った。

相変わらず言う事を聞かない事への軽い苛立ちから、ひとつのアイデアが頭を過った。
やれるものならやってみろ。
 
「ポン」
 
ポンを呼んだ。
 
「転がっている足場のパイプとクランプでこういうのを2つ、作ってくれ」
 
両手の人差し指と中指を交差させて「井」を作った。
 
「消火器の筒が入るくらいの口のやつ、大体でいい。細かいのはクランプで調節する」
 
ポンは、眉のない顔を数回、縦に振って残りの兄弟を、手招きした。
ジャンケンポンが作業をしている間、あいつに考えを説明した。
 
「鉄の棒を井に組んで、真ん中に消火器の筒をさす、持ち手の長い神輿みたいなものだ。熱が逃げるから、消火器の底を地面に着けない為に、ラチェットベースで神輿を床に固定する。それでも不安定だと思うから、短い隙間で、並行にもうひとつ同じものを組んで、接点を一度溶接する。筒の厚みは5ミリ前後だ。全体を柔らかくするなんて無理だ。何とか口の部分を熱して、入口を作るから、あんたの馬鹿力で突っ込んでみてくれ、押し込む動作に合わせて、筒を少しずつ柔らかくしてみる」
 
あいつは答えず、目線を下げていた。
どうせ無理だ。いくら考えたって意味はない。
 
「わかった」
 
あいつが放った声だ。
 
「おおい、ポン」
 
作業をしていた三兄弟の輪に、手を振った。
 
「革ジャンみたいのねえか?なるべくデカいの」
 
顏だけこっちに向けていた中腰のポンが、返事もせず建物を出た。
 
鉄筒を囲んだ鉄の神輿が出来た。
ポンに頼んだ革ジャンは、革パンになった。

無いよりマシだろう。

あいつは革パンの両脚を切って自分の手首の無い腕に、革の筒を2本とも通した。
それでも革の筒はあいつの太い腕に合わせた様にぴったりだった。
 
「やろうか」
 
あいつは地面に這う鉄の格子に脚を通し、右手を筒に突き刺した。
俺は使える脚が右しかない、作業がやり辛い。
 
「ポン、支えてくれ」
 
俺に肩を貸しながら、ポンはブツブツと文句を言いだした。
 
「何で、俺ばっかりなんだよ」
 
お前しか区別つかないよとは言わない。
 
「あんたらのボスだって、最初にお前を呼ぶぜ」
 
ポンは、何故か、はにかんで頭をかいた。
また髪がフケの様に零れた。
 
あいつを中心に、鉄の棒を左右にジャンとケンの二人が支えた。
俺はあいつの向いに座った。
バーナーのホースを肩に掛けたポンが俺の脇を抱える。

バーナヘッドに火を点け、空気バルブを調節して、火力の弱い赤いものにした。
朱色の消火器の筒がどうも間抜けだ。
 
「最初に全体の塗料を焼いて剥がそう!」
 
誰も返事しなかった。
筒全体に火を当てると、塗料は泡を立てて黒くなり、赤い筒が一変して、黒い筒になった。

筒の下の方に火を当てる為に着いていた尻もちを、ポンに立たせてもらい、筒の口を見下ろした。
首をそのまま上にあげると、あいつの顏があった。

やるとも言わずバーナーの火を青く細くした。
 
筒の口に、遠目から徐々に火を近づける。

鉄の淵は赤く変色しだした。
それでも火が離れると直ぐに黒い鉄へと戻る。

俺は根気よく火を回す。

淵から伝わる熱は徐々に筒全体に熱を残し、残熱が放射熱を上回る。

熱は足場の棒を伝導して、左右を支えるとジャンとケンの手にも伝わる様で、時々熱がる。
 
「もう少しだ、がまんしろ」
 
右に向かってだけ言い、筒から火を放した。
筒の口は赤く燃え続けていた。
 
「やれ」
 
それだけ言うと、あいつは迷うことなく肘に勢いをつけ、右手を筒の中に突っ込んだ。

10センチほど入って、動きは止まった、筒の口はラッパの様に広がっていたが、〝胴〟の部分は筒の形のままだった。

尻もちをついて、筒の胴に火を当てた。
 
「もう一度!」
 
俺の声に合わせてあいつが肩を押し込む。
 
「もう一度!」
 
押し込む。
 
「もう一度!」
 
押し込む。
何度も繰り返す。ボーリングマシンのロッドの様に腕はその度に筒の中へと入っていく。
革の焦げる臭いが鼻先を擽る。
鉄筒はあいつの腕に沿う様に湾曲していた。
俺はバーナーの火を消した。
あいつは地面に拳を突きつける様な形で膝をつき、動かなかった。
 
「ボス、熱くねえのかよ」
「熱いさ」
 
俺の脇を抱えるポンに言った。
革の袖を付けていても、そんなものは気休めだ。
あいつは動かない。気でも失ったんだろうか?
 
「どうすんだ?」
 
後ろのポンが話し掛けてきた。
 
「これ以上は無理だ」
 
冷めていく鉄が筋肉の一部の様に円みを帯び、張り付いていく。
 
「水を掛けろ」
 
ジャンとケンが慌ててバケツを取りに行く。
 
「腕に掛けるんだぞ!」
 
「分っているよ!」
 
筒は既に黒く冷めていたが、水を掛けると水煙が天井まで昇った。

あいつはその煙の中に消えた。

煮えた鉄の臭いを、懐かしいと思っていた時、突然キンキンと耳を劈くような音が屋内に響いた。
 
「何だよ、この音!」
 
ポンが叫んだ。

音はあいつの鉄の腕からしていた。

何が起きるのかと、そこを凝視した。

その時、
囲いの溶接部がストンと離れ、まっすぐに寸胴だった下の方が、中に引きこまれる様に縮んだ。

凹みは丁度、手首のように括れ、筒尻を握拳のような形にした。
 
「真空をつくったんだ」
「あ?」
 
ポンに説明した。
 
「高熱で、隙間の空気が無くなって、真空が出来たんだ。分るか?」
「分らん」
 
分らんか。

あいつは膝をついたまま動かない。
気でも失ったか。
鉄が変形する程の〝圧〝が自分の腕に掛っている。
死んでもおかしくない。
 
あいつはゆっくりと立ちあがり、大きく息を吐き、〝鉄拳〟をゆっくりと振った後、ライフルの照準合わせのように肩に耳を乗せた。
 
「ちょっと長いな」
 
そう言って、子供の様に微笑んだ。

あいつは、鉄の神輿の溶接部が外れても、鉄筒の尻を床に着けなかった、自分の肩で持ち上げていた。

鉄がたわむほどの熱や、凹むほどの圧力にも負けず、痛みも苦しみも表に出さず、溜息ひとつで、無かった事にした。
 
「行こう、直き、夜明けだ」
 
熱で酸化した鉄の腕は、曲面にくすんだ虹色を冷たく浮かせていた。
 
とその時、

ばあ、とシャッターの開く音に驚いて振り向くと、夜明け前の澄んだ空気の駐車場に、散らばるように10人程、立っていた。

それを眺めていたら、そのうちの一人が、中へと入ってきた。

胸元を広く開けたシャツと清潔なスラックスパンツ、髪は短かった。
 
「町を出るんだって?」
 
その人の言葉に、あいつは頷いた。
 
「何か、出来る事あるかい?」
 
その人は、とても柔らかく言った。
 
「署長の息子ってどこです?」
「聞いてどうするんだい?」
「約束、覚えています?」
「何の約束だい?」
「秋雪です」
 
あいつは、のろのろとした会話を経ち切るように俺を見た。
その人も俺を見た。
 
「秋雪、先輩だ。暴力団の人だ」
 
と、紹介されても上目使いで顎を引くしかなかった。
 
「秋雪と約束したでしょう。やらせるって、殺していいよって」
「他は?」
 
先輩は良いとも悪いとも言わず、会話を先に進めた。
あいつは鉄の腕を、自分の顎の辺りで軽く振った。
 
「別に、何も」
「会長の事は聞かないのか?」
「いいえ、大体分かったんで」
「分った?何を?」
 
先輩の声のトーンが急に変わった。
 
「俺が出来る事はもうありません、だからもう興味がありません」
「随分だなあ」
「先輩、俺の名前を言ってみて下さい」
 
先輩は、そういう事かと言う顏を、何故か、俺に向けた。
 
「俺の名前を言ってみろ」
 
先輩の顏を引き戻すように、あいつが言った。
重く強い口調だったが、あいつが時々見せる圧迫感とは違った、苛立つ普通の若者の顏だった。

ひとりぼっちのあいつを俺は助けたいと思った。
 
「あなた、何しに来たんです?」
 
暴力団相手に何て言い草だ。

さすがにあいつも俺を見た。

顎であいつを指して言葉を続けようとした。
勢きる感情のままあいつの名前を言って、始めようと思ったが、俺もあいつの名前を知らない。
 
「…この人は―」
 
切掛けに詰まった。
よそよそしい喋りだしに気持ちが萎えた。
 
今まではそれでよかった。
俺にとってはそういう〝異物〟だったが、今、感じたあいつへの同情が〝名前を知らない〟という事を後悔させた。
 
「友達なんです」
 
そんな事を言ってしまった。

続ける言葉も見つからず、外を見た。

夜明け前の薄闇に散らばる人影は、みな俺と変わらない若者の影だった。

ああ、そうか、俺は昨日、大人になった。

俺達はみな大人だ。
この町の大人だ。
大人は現状と現実を見誤ってはいけない。
 
その為に、先輩はここに来たのかもしれない。
先輩はあいつではなく、俺を迎えに来たんだ。
 
「…行きましょう」
 
そう言って、先輩を見た。
先輩は、答えが出たという風な笑顔をあいつに向け、小首を傾げて、俺に外に出るように促した。
 
「…秋雪」
 
俺の名前をあいつが言う。
ごめんよ、俺はあんたの名前も知らない。

悪魔の様に恐ろしく、獣のように強いあんたの事は誰も忘れない。

それでも誰もがあんたの名前すら知らない。

そんな事があったと、名も知れぬ獣の噂を誰もがするだろう。

そして、それは夢か現か分らなくなり、人々の記憶から掻き消える。

ごめんよ、俺はあんたの名前も知らない。
 
杖を一歩、前に出す。
使える右足を一歩出す。
杖をまた、一歩出す。
右足を出す。
 
その繰り返しの12歩目に外へ出た。
傍には先輩しか居なかった。
 
先輩は俺の左腕を持って、〝歩み〟を手伝おうとした。
俺は大丈夫ですと首を振った。
声を出すと涙が零れそうだった。
 
「会長に会うか?」
 
その言葉に、心臓に楔を打たれた様な閉塞感を感じた。

気持ちを表すように地面に目線を落とした時、人の声と何かの音が一緒になって弾けた。
 
声は前に居る人垣からしていた。

先輩は眼を大きく開け、俺の後ろを見ていた。
俺も、一呼吸遅れて後ろを見た。

例の老人がタンを吐くような音が、後ろの建物からけたたましくしていた。

音と共に開いたシャッターの中から、濛々と白煙が舞い出てきた。
音は止まず、白煙は濃く大量に地を這い、外へと舞い上がる。

消火器の紛煙だ。

その後、こもった爆発音がした。

同時に黒煙が膨み、外で舞う白煙を押し退け、黒煙は、這い出てきた火炎に押し出された。
 
炎は数秒で立ち消えたが、黒煙が止めどなく溢れて出ている。

煙は逃惑う群集のように先を急いで、外へ外へと舞い上がる。

最後に、けたたましい笑い声がした。
 
「あはははは、げっへえ!」
 
笑い声は咳き込み、叫びながら、煙と一緒にシャッターから走り出て来た。

どれも黒く煤け、出てきた途端に背中に燻っている小さな火を互いに叩き落としていた。

それでも、ゲラゲラと笑っていた。
ジャンケンポンの三兄弟だ。
 
残った全ての消火器の栓を抜いて撒き散らかしたんだろう。
じゃなきゃ、あれだけの粉塵爆破は起きない。
 
一呼吸置いて、人の形をした影がもう一つ、煙の中に立った。

その影を恐れるように煙は外へ外へと舞い上がる。

俺は、振り向く様に自分の背中越しに見ていた。
 
「…ああ、ごめんなさい」
 
正面の人垣から、誰かが小さく呟いた。
そっちを見る余裕が無かった。
俺の眼は、煙の中の人の形をした影に釘づけだった。
 
大きな人影が身体の至る所に炎を燻らせて外へと出てきた。
黒く煤けた顏には、三兄弟に感じた間抜けさは無く、恐怖心をより掻きたてた。
 
誰も名前を知らない男。
 
あいつが火炎を纏って、出てきた。

三兄弟があいつに群がって、身体をパタパタと叩くと、炎はあらかた叩き落された。
 
誰も動けず、茫然とその光景を見ていた。
と、

突然、耳を劈く爆音が〈ステージ〉の天井を噴き破った。

爆音は突風を起こし、そこにいたものを全てなぎ倒した。

脚の悪い俺も、先輩も、先輩が連れてきた人達も、ジャンケンポンの3人も、みな、倒れた。
 
あいつは立っていた。
 
煤けた顏で、右腕に鉄塊をぶら下げ、岩のような筋肉を裸に纏い、立っていた。

恐ろしい獣だ。
そして俺は豚だ。

心底そう思った。
何故忘れるのか、何故、その恐怖を忘れるのか。
豚は忘れる。
叩き、追われ、ト殺される同檻の胞輩の絶望を目の当たりにしながら、来るべき己の絶望を忘れる。
だから、畜生として生きられる。

俺の事だ。

獣は忘れない。
獲物を忘れない。見つけ、追い、見失わない。どこまでも探し、追う。
身を引裂かれ、手脚もがれても、忘れない。
 
あいつは馬鹿を馬鹿にしにない。
その代り、利口ぶった底の浅い事を言っていると、闇に引きずり込まれる。
 
何度繰り返せば、分るのか。
恐怖は消えない。
後悔も消えない。
 
ただ、その上に希望をみる。
彼岸の希望を見て、眼の前の隘路を進む。
そうあるべきだった。
初心の懺悔の為にどれほどの犠牲が伴おうが関係ない。
 
大事なのはその最初の懺いだ。
 
建物は煤け、火は消えていた。

消えた火の想いを継ぐ様に、駐車場の端の空は金色の筋を張って、紅に燃えた。
あいつはやっと、後ろを向いた。
 
「ここも丁度よかったな」
 
そう言って、座り込む全員の顏を見回すように首を廻した。

誰も動けず、同じ方向を見ていた。

そこにあいつの顏がある。

あいつの顏は上りくる朝日に照らされ、鼻先と右顎が金色に光っていた。

その時、突然何かが降ってきて、地面で跳ねた。
跳ねたそれは誰かに当たり、当たった人はいつまでも「痛い、痛い」
と蹲っていた。

それはガスボンベのバルブヘッドだった
 
「ごめんなさい!」
 
堪りかねた様に、どこかで、ひとりが叫んだ。
続けて、3、4人が叫んだ。
 
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
 
叫びをよそに、あいつは先輩の傍へ寄っていった。
 
「車を返してください」
「車?」
「はい、トラックです。あの日、駐車場に入れたままです」
「あ?ああ…それより、聞かないのか?あの日の事を?」
 
あいつは何が?みたいな顔をした。
 
「分っていたのか?全て」
「分りませんよ、何も…豚の気持ちなんて」
 
先輩は眼を細め、興味を無くしたようにあいつに背中を見せ、歩き出した。
 
「調子に乗るな、よそ者、何も、お前の欲しいものなど与えない」
 
そう言って遠ざかる先輩の背中に、あいつが吼えた。

どう、と広がる獣の叫びは、昇日が伸ばす影のようにがり、おおお、と先輩に覆いかぶさろうとした。
 
先輩は倒れる様に背中を丸め、いつかのように拳銃の音をさせた。

引き金は3つ4つと弾丸を押し出し、弾はあいつに向かった。
何発かはあいつの鉄の右腕に弾かれ、何発かは、どこかへ飛んだ。
 
銃弾を避ける為に膝をつき、鉄の腕で顔を隠すあいつをおいて、先輩はいつの間にか車に乗っていた。
 
「消えろ」
 
それだけ言って、連なる車は高架下を出て行った。
まわりに居た連中も居なくなっていた。
また、いつもの5人になった。

つづく。
 

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