見出し画像

青梅と世界の終わりについて

🍁

スイと私

突然だけれど、Twitter中のスイと現実の私は同一人物でありながらかなり異なる雰囲気をまとっていると思う。取り繕っているわけではないが、なにかがきっと違う。

同じマンションの同じ間取りの壁を隔てた向こう側の部屋に人がいて存在は知っているけれど声は聞いたことがないとか、ガラス窓越しに雨音を聞くとき自分の外側と内側の境目がよく分からなくなる感覚とか、そんな感じ。私なのに私ではない感じがする。

スイはスイの世界観で別の視点から物事を眺めているし、私は私で好きなように動いている。スイはnoteを書いて一般に公開するけれど私にはそれができないし、私は口汚くて品のない言葉を使うけれどスイはそれをしない。そういう微妙な乖離や選択の違いによって、スイと私は分離しつつも同じ時間軸のなかに存在している。


青梅を飲みこむ方法

スイと私の二つの意識があることを受け入れられるようになってきたのは、つい最近のことである。薄い膜を飛び越え、いくつかの自分を行き来するやり方のほうががわりあいに心地のいいものなのだ。そこにたどり着くまでに、痛々しいことや大きな遠回りをたくさん経験した。私ではない私をどうにか一個にまとめてやらなければ、と足掻いていたしひどく焦っていた。

私の場合、その長い遠回りの道中をどうにかやり過ごそうと縋ったのがTwitterだった。当時のアカウントはもうないけれど、今はその時と同じツールで愉快な変態たちの行く末を眺めている。自分の手綱をある程度手放せるようになってきてからは、少しずつ安定して色んなことを楽しめるようになった。時間はかかってしまったけれど、あまり後悔はしていない。

青梅みたいなもんなのだ。青梅には毒があるし、そのままでは食えたものではない。美味しくもない。けれどお酒につければあんなに美味しく飲める。毒のある青梅を飲み込むためには、結構な時間と手間がかかるものなのだ。若さも青さも、その痛々しさも、お酒に漬け込んで、熟成させて、そうしたらいずれか美味しくなる、多分。

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

打って変わって私が中学生の頃の話。秋の気配を感じ始めると思い出す事がある。化学繊維で着心地の悪い運動ジャージが肌を削り取る感覚。やけにチクチクするマフラー。体育館から聞こえてくるバスケ部の掛け声。そしてこの一冊。

正直内容はたいして覚えていないけれど、それはもう強烈な体験だった。この本を勧めてきたのは塾の先生だった。「あなたは絶対にこの本を読まなければならない。きっと読めるはずです。」と強い言葉で捲し立てられて仕方なく頁をめくった。あまりのつまらなさに絶望した。私は赤毛のアンや終わらない物語や、オペラ座の怪人が好きだったのに。マスターベーションと女にふけってウイスキーをすする中年の男の話なんて退屈でたまらなくて、しかし、物語の構成上交互に描かれる「世界の終わり」の方には酷く引き込まれた。静謐で乾いた骨の音が響く埃臭い部屋に心動かされるうちに、ああ、いつのまにか上下巻を読み終えてしまっていた。先生は満足そうだった。

正常な男の子にどろどろに煮詰めた支配欲を注ぎ込んだりすることに興味を覚えたのもこの頃だった。「なにか言うことがあるんじゃない。」と男の子を壁際に追い詰めて始まったお付き合い。そのあたりで自分の恋や性的興奮が一般のそれとちがうことに気づいた。その子から奪いとったファーストキスは、無味無臭で冷たかった。物理的な唇の冷たさとは裏腹に私の心は熱かった。相手の純粋な好意を見透かして、誑かして、思い通りに動かすことが、こんなにも楽しいことなのかと浮足立った。残念なことに、春樹を読み終わるくらいにその男の子とは別れてしまった。そして渇望した。高揚して、熱くて、じゅくじゅくと熟れて、みだらに濡れた果実が自分の身体の中にあって、それがうずいて仕方ない。男の子を犯したい、そんな気持ちを真っ直ぐに追いかけていたら、いつの間にかこんなふうになっていました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?