嫌なことさがし。

ふと気付くと自分の、他人の、社会の、身の回りのあらゆることについて、余計なことを考えている気がする。

そんなに現状に不満があるのか、許せないことがあるのか、不安ばかり感じているのか、よくわからない。

自己防衛の反応なのか、人間が元来持っている心理的作用なのか、身につけてしまった癖なのか。

もういいんじゃないかと思う。

そんなことをしても何も意味がないじゃないかと。

考えること、探すこと、思うこと、感じること、それは悪いことなんかではないし、人間が持っている素晴らしい部分だと思う。
でも、自分の中に湧き上がってきたものをそのまま他の誰かに、関係ない誰かにぶつけてしまうのは違うんじゃないかと思う。
誰もが加害者になってしまうからこそ、自分が使う言葉を、使う相手を考えて、出来ることならそっと収めることも必要なんじゃないだろうか。


安心を求めて、大丈夫だと思えることを探しているうちに嫌なことばかり目につくようになる。
見つけやすくなる、見つけてしまう。
そういう心理学の論文があったような気がする。
不安や嫌な気持ちは加速する、安心したくて否定する、攻撃する、自分の気持ちを少しでも濁したものを。

他人のことをもう少しだけ放っておけるようになれたらいい。
ほんの少しだけ無関係になれたらいい。
見守れるようになれたらいい。
他人に無関心でも、寛容でも不寛容でも、悪いと思われることを悪いと思われる人を許さなくても、他の誰かに後ろ指を刺されることなんてないし、責められることもない。

だから、もう少しだけまあいいかって。
色んなことについて思えたらいい。
自分から自分を嫌な気持ちにされることを探さなくても、何も考えていなくても平気だって思えるようになるといい。
それは社会のあり方も関わるから、自分だけじゃ、自分と周りの人達だけじゃ難しいのかもしれないけれど。

能天気でいたら生きるのは難しいのかもしれない。
何も考えずに生きることなんて出来ないとは思う。
それでも、考えすぎて自分も他人も傷つけたりしてしまうのなら、この世をぼんやりとうっすらと、ボーっと捉えられたらいいと思う。

解像度を下げて、自分と他人の感情を切り離して。
共感は時に危険なものになる。
自分は自分、他人は他人。違う人間。
それをもう一度確認する。


嫌なことばかり目につきやすく、見つけやすくなってしまった今だけれど、
自分のことも、他人のことも、社会のことも、もっと素敵なものを見つけていける。
そう思いたい。

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