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埋もれた将棋名作ルポ『泪橋のバラード』その5 (全7編)

 
 埋もれた将棋名作ルポ『泪橋のバラード』を紹介する記事の、今回は5回目。
 
 こういったアウトロー的な文章が好きなだけあって、ぼくは大学時代の一時期、日雇い小屋に住み着いたことがある。
 そこは形式こそ月給制だったが、実質は日給だったが前借りの体裁をとる。皆、一日凌ぐ金を借りるのが普通で、毎日夕方、所長が携帯金庫を持ち出して労働者に手渡すのだ。事務所の外まで長い列ができて、日銭に困っていなかったぼくは、いつも「すごいなぁ」と思いながら列を眺めていた。
 渡す事務員が、また手慣れていた。けっして、相手の言った額を渡さない。出勤日数を考慮して、給料日にちょっと残るように渡すのだ。言っただけの額を渡していくとマイナスになってしまう。また、マイナスまでいかない額であっても、しょっちゅう休む人間には渡すのを抑えなければならない。いつも絶妙な額を渡していた。
 
 さて、湯川さんの『泪橋のバラード』は小タイトルが変わる。次のタイトルは「席主登場」だ。「来る」とか「現れる」などというものではない。「登場」だ。待ちに待った、という感じ。たしかに、こんな奇妙なクラブをやっている人間ってどんな人だろうと、興味を持って当然ではある。


   席主登場
 
 12時を2、30分ほど回ったころ、ガラッと勢いよく人が入って来た。今までの人と違って、ガタガタという、えらく精力のみなぎった動き、遠慮のない動きだ。60近いようだが、髪は黒く、目に力があって、視線も険しい。ほとんどしゃべらないが、そのコワバッタ体が客の間を歩くと、あちこちから手が出てくる。皆席料を差し出している。私の方に来たので、あわてて600円出すと、ニコリともせず受け取って、しばらくすると、もう姿がない。
 この人が席主のようだが、節目節目に集金に来て、後はどこかへ行ってしまうらしい。
「どこの人なの」
「さぁ、私は知りません」
「他にも商売を持ってるんでしょ」
「ちょっとわかりませんネ」
 おそらく、この分では名前も知らないだろう。考えてみると、ここでは、人のことをほとんど聞かないから名前に興味もないんだろう。住まいと仕事は聞くまでもない(いわゆる住所不定の労務者、または無職と書かれる)。
 トナちゃん2局目も負け、3局目は慎重になって持久戦にする。今度は向こうが居飛車で私が四間飛車。トナちゃんは角が使えない形の上、仕掛けの手がかりがない。しきりにタバコをふかしている。
 B図でトナちゃん考えだしたので、私は隣の将棋の観戦。

泪橋のバラード7

 隣は、一人が長めのオールバックに、白シャツに黒ネクタイ。ここではエリート階級だ。水商売のマネージャーかもしれぬ。あまり堅気の商売ではないような感じも受ける。もう一人は太田学さん(朝日アマ名人)のようなちょっとオシャレな老人で、陽気に喋りながらの対局。ももひき姿であぐら。
「 ♪ 気に入らないヨー、気に入らない、と。インデアンが、インデアンが、インデアンがよっと……」
「まいったね、インデアンが団体で来るんじゃ」
 2人とも意味不明の会話で、楽しんでいる。私が隣を見ていると、純さんが話しかけてくる。
「いい将棋指すね。ちゃんと教わった将棋だよ、この人は。でもアマで強いのは、大木さんだね。あの人は強いよ」
「大木和博さん(アマ王座)ですか。ここへは来ますか」
「いや、ここは懸賞やんないから来ませんよ。御徒町とか上野の方に行ってらっしゃるようですヨ」
 大木さんはこの近くの浅草に住む強豪だ。大木と聞いてトナちゃんも口をはさむ。
「大木さんも強いけど、小池さん(アマ名人)も強いよ。オレ一度日暮里に行った時クラブで見たよ。あの人の強さはプロも認めているらしいヨ」
「どっちが強いんですか」
「よくわかんないけどね。小池さんはなんか、ヘンなことに引っかかったりして、今は出ないらしい」
 この後、谷川、森安の名人戦の話が出るがすぐに途絶える。純さんの飲んでるワンカップを見て、私も冷えたビールが飲みたくなった。
「ここはビール置いてあるかな」
「そんなもの、ないよ」
「じゃ、近くの自動販売機は」
「この辺は場所柄、そういう機械は早く閉めちゃうんです。飲みたいのがウロウロしてるから、夜はやらないですよ、この辺は」
 この辺はというところは、妙に軽蔑した言い方である。飲みたいのがウロウロしていたら、やってりゃよさそうなものだけど、必ずしもお金を入れてくれる人ばかりではなさそうだ。
 新客が空いている盤で指しはじめた。相手は、東北なまりが少しある、小柄なおじいさん(多分、50歳くらい)。坊主刈りのゴマ塩頭。出稼ぎに来てそのまま居ついたような人である。新客は、角刈りに濃い色つきメガネ。白っぽい上下。ちょっとテキ屋さんふう。40前後。
 ゴマ塩ジイさんは、完全なぼやき将棋で、ぶつぶつ言っちゃあ、持ち駒で盤の横っ面をたたいている。新客の方は、盤を見つめながら純さんと会話を交わしている。
 午前3時過ぎると、寝る人が増えて、6、7人。座布団3枚に枕に、スポーツ紙のカバーというスタイル。皆、壁を頭にして、足を盤に向けている。

 
 ここまでが、「席主登場」。将棋ジャーナル編集長だった湯川師匠はアマ棋界には詳しいが、こういった場所では知らないフリも大事だ。アマ強豪は「おらがクラブのスター」でもあるから、やたらにはしゃべれないのかもしれない。
 
 ところで、B図からはどうなったのだろう。師匠の方からも糸口がないような感じもするので、先手は7七角だろうか。それで師匠がもたもたしているようなら、8八玉~7八金~6八銀として、穴熊まで視野に入れたい。なんとなく、5七の銀を引き付けてきたいものだ。
 これ、強い人が読んだらプッと噴きだしてしまうだろうか。
 
(その6)につづく

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